第001話|トール編【勲章よりも……光栄だな】
「……ほんと、勇者は儲かるよねぇ……」
そう言って、サンデル司教は銀の聖杯に注がれた葡萄酒をくるりと回し、香りを楽しんだ。
重厚な石造りの部屋に、ひんやりとした空気が充満していた。
サンデル司教は、装飾の施された椅子に深く腰掛けていた。
弛んだ体に艶やかな肌、満足げな笑みが闇の中で光を受け、ぬらりと反射した。
側近が低い声で報告する。
「……以上が、今月集まった寄付金額でございます」
視線は床に落としたまま、慎重に続けた。
「特に……例の片腕の勇者の護符が好調でして……」
サンデル司教は喉を鳴らし、低く笑った。
「ふふ……あの男は人気があったからねぇ」
指先で指輪を弄びながら、光を反射させた。
「……あの片腕はたっぷり稼いでくれる……」
「……死ねばさらに、金が集まる……」
葡萄酒を一口含んだ。
静寂——。
側近の喉が詰まった。
そして、喉が大きく動いた。
銀の聖杯の中で、赤い液体がゆっくりと揺れた。
その揺れは、誰が止めるのか。
司教は重々しく頷き、声に含む意味を濃くした。
「……次の勇者は、あの少女にしましょうか」
「子どもというだけで、人気が出る——」
側近は、それ以上聞いていられなかった。
「……それまでは、在庫を切らさぬようにな」
「……片腕勇者の護符は効きを強くしておきなさい」
側近は背筋を伸ばし、軽く頭を下げた。
「……はい」
司教の目が細く光った。
「……それと、最近ハエがうるさいからね」
側近が声を潜めて尋ねた。
「……例の記者ですか?」
司教は薄く口角を上げた。
「……あの者には近々、天罰が降るであろうな」
側近の顔から血の気が引いた。
「……承知、いたしました」
司教はゆっくりと指輪を撫でながら、言葉を落とす。
「……退役勇者には手厚くな……どうせ、長くない……」
「……はい」
側近の持つ書類は、気づくとじっとりと濡れていた。
その時、教会の象徴である鐘が、重く、低く、空気を震わせるように鳴り響いた。
その音は石の壁を伝い、地下室全体を震わせた。
サンデル司教は指を止め、微かな笑みを浮かべ、鐘の音を聞いていた。
それは祈りではない。
欲望を満たす響きだった。
——湖畔
英雄として讃えられた勇者達。
彼らは役目を終え、何を思うのか──。
湖畔で一人の男が釣り糸を垂らしていた。
春風が水面を撫で、波紋がゆらゆらと広がった。
静かな時間が、そっと流れていた。
その穏やかな風景に、ひとつだけ違和感があった。
男の左腕が、そこには無かった。
だが、その男の表情は穏やかだった。
“何かを成し遂げた者”、そういう目をしていた。
男は、背後から近づいてくる、無邪気な気配を感じながらも、気に留めることなく釣りを続けた。
糸先に小さな影が揺れ、水面が小さく波打った。
「おじさん、お魚釣れた?」
「……釣れなくてもいいんだよ。今を楽しんでるんだ」
「……ふぅん」
「……なんで手が無いの? 怪我したの?」
男は肩をすくめ、小さく笑った。
「ああ……これか」
「……これはね、勲章だよ」
「くんしょう? それってなに?」
「ハハッ、そう来たか」
「……私にも、よく分からないな」
男は話題を変えるように、少年の肩越しに湖を見た。
波間に反射する光が、二人の影を揺らした。
「……君は、こんなところで何をしていたんだい?」
「僕? 僕はね、風と話しながら散歩してたんだ」
「風がね、いろいろ教えてくれるんだよ」
その瞬間、男の体がわずかに強張った。
少年を怖がらせぬよう、慎重に言葉を選んだ。
「……それは、すごいね……その話、もう少し聞かせてくれる?」
「うん」
「……その話、誰かにしたかい?」
「お父さんとお母さんがね、誰にも言っちゃダメって、秘密にしなさいって」
「……だから、話してないよ?」
「……じゃあ、何故私に話したんだい?」
少年は少し考えてから、首を傾げた。
風に揺れる草を指で触れ、目で追った。
「んー……なんかね。おじさんは大丈夫って思ったんだ」
トールの肩がすとんと落ちた。
「……それは、光栄だな」
トールは少年の直感に、勲章よりも誇らしい何かを得た気がした。
少年は湖を見つめながら、ぽつりと言った。
「……でね、風が……“教団には気を付けなさい”って言うんだ」
「……どういう意味か分かる?」
一瞬の沈黙。
男は静かに目を閉じ、ゆっくりと息を吐いた。
水面の揺れに目を落とし、風を感じた。
「……そうか」
そして、真っ直ぐに少年を見た。
「……それはね」
一瞬の迷い。
少年に、背負わせるには重すぎる。
トールは湖に視線を移した。
「“風と話せるのは内緒にしなさい”って意味だよ」
パックも同じ方向を見た。
「……ふぅん」
トールは少年をじっと見つめた。
風が耳元を撫で、糸先の水面が小さく揺れた。
「私はトール、君の名前は?」
少年は少し戸惑いながら答えた。
「パックスだよ」
少年の視線が落ちた。
「……でも、パックスって呼ばれるの、あまり好きじゃないんだ」
トールは目を細めた。
「じゃあ、呼びやすくパックって呼ぶのはどうだい?」
パックの顔がパァッと明るくなった。
「いいよ!」
素直にうなずき、声を弾ませた。
トールは優しく微笑んだ。
トールは、釣り糸を軽く引いた。
波紋がゆっくりと広がった。
「……じゃあ、もう少し話そうか」
湖面が揺れ、光がかすかに滲んだ。
その場所には、静かな風が吹いていた。
「お父さんとお母さんは、この近くの村なのかい?」
パックは少し俯き、指先で小さな草を撫でる。
「ううん、もっと寒い所の村だよ」
「その村は、もう無いんだ……」
「……本当のお父さんとお母さんも、いなくなっちゃったんだ」
その言葉を聞いて、トールは胸の奥に痛みを感じた。
目を伏せ、拳を硬く握る。
「———っ!」
その村がどういう状況だったか、鮮明に思い出す。
魔物との戦いに巻き込まれた小さな村。
笑顔を失った家々、空に残る黒煙、救えなかった村人たちの姿……。
「……そうか、すまなかったな……思い出させてしまって」
パックは小さく肩をすくめ、視線を湖面に落とす。
「……今の家は、あんまり好きじゃないんだ」
「……すぐ怒られるし」
トールは静かに頷き、目を細める。
「……」
パックの顔に笑みが戻る。
「……でもね、ぼくパックって呼ばれるの好きなんだ」
「お父さんとお母さんが、そう呼んでくれてたから」
それを聞いたトールは、救えなかった過去に、少しだけ赦しを貰えた気がした。
「じゃあ、遠慮なく呼ばせてもらうよ」
そう言ってパックの頭を優しく撫でた。
——直後。
ピクリ。
トールの指先がわずかに動く。
気配。
森の奥。
この空気を知っている。
戦場で何度も対峙した、あの“圧”。
間違うはずがなかった。
トールの目線は固定されている。
体は無意識に動いた。
肩幅より広めのスタンス。
その影は、木立の向こう。
静かに、こちらを観察している。
翼を持つ魔族だった。
トールは、スゥゥ……と静かにひと呼吸すると、柄に手を添えた。
そして——祝福を解放する。
空気が裂ける。
ピシッ……パキッ……ピリリ……
全身に稲妻がほとばしる。
静かな森に、白い閃光が走る。
光が弾け、空気が震えた。
トールは視線を逸らさずにパックに話しかける。
「パック、魔族だ……良いか、そこを動くんじゃないぞ」
パックはトールの視線の先を見た。
故郷を襲った異形。
体が硬直する。
足がすくむ。
呼吸が浅くなる。
息が苦しい。
翼の魔族が、パックに目線を移す。
目が合う。
魔族の身体がピクリと反応した。
トールの稲妻が弾ける。
「———っ!!させるかっ!!」
飛び出そうとしたその瞬間——
パックが叫ぶ。
「待って、トール!!」
「———っ!?」
パックの目が見開かれる。
「……声が」
「……何か、話そうとしてる」
トールは視線を外さず言う。
「……声、だと?」
雷が唸る。
だが踏み込みは、止まった。
翼の魔族は動かない。
翼をわずかに広げたまま、金の瞳でパックを見ている。
パックは胸を押さえた。
「精霊たちが……ざわざわしてる」
風が、強くもなく弱くもなく、一定に吹く。
水は揺れない。
闇は退かない。
逃げろとも、危険とも告げていない。
パックは一歩だけ前に出た。
トールの雷が、ぴり、と強まる。
「下がれパック」
「……間合いに、入るな」
パックの喉が小さく動く。
「……大丈夫」
震えている。
それでも目は逸らさない。
魔族の喉が低く鳴る。
「……わかるのか」
戸惑いが混じる。
それは敵意ではなく、確かめるような響きだった。
パックは小さく頷く。
「……うん」
魔族の瞳が見開かれる。
「……ならば問う」
「……人間は何故、我々を呼び、壊し、殺すのか」
——その問いは、パックの常識を壊した。
「……えっ?……どういう事?」
「パック、どうした。大丈夫か?」
「……分からない……我々を呼び、壊し、殺すのは何故だ、とだけ……トール意味分かる?」
トールは一瞬、黙った。
雷はまだ纏っている。
だが、さきほどのような爆ぜる気配はない。
「……呼ぶ、だと」
低い声。
怒鳴らない。
ただ、言葉を噛みしめる。
パックは魔族を見る。
魔族は視線を逸らさない。
途切れ途切れの声。
だが、嘘を吐いている響きではない。
パックがゆっくりと訳す。
「……外の世界から、呼び出されて」
「……無理矢理連れてこられたって」
トールの眉がわずかに動く。
召喚。
魔族。
教団。
頭の中で、点が並ぶ。
魔族は続ける。
「……人間に、理性を、壊される」
パックの声が震える。
「……え?」
翼の魔族がトールを見る。
「同胞は討たれた、その者に———」
「——っ!?」
パックが地面を見つめたまま、動かなくなる。
トールがパックの肩を揺らす。
「どうしたパック!しっかりしろ!」
パックはトールの胸元を掴む。
「……トールが……理性を壊して、討ったって」
トールの目が、わずかに細まる。
だが視線は魔族から逸らさない。
魔族が続ける。
パックが、震えながら訳す。
「……同胞は……突然、この世界に引きずり込まれたって」
「……空間を裂かれて」
「……拒む間もなく」
トールの雷が、静かに鳴る。
「……召喚、か」
低い呟き。
パックが顔を上げる。
魔族は頷く。
「……我らの世界には、貴様らはいない」
「……戦う理由など、本来ない」
パックの声がかすれる。
「……呼ばれた衝撃で、正気を……失う」
「……我は理性を保てた」
トールの脳裏に、あの夜が蘇る。
言葉を持たぬ咆哮。
理性のない暴走。
村を踏み潰す巨影。
——止めるしかなかった。
魔族は言う。
「……貴様が討ったのは」
「“壊れた者”だ」
「……それは、責めぬ」
「……だが、壊したのは人間だ」
森が重く沈む。
トールは黙る。
雷は消えていない。
だが、殺意はない。
「……呼び出しておいて、討つのか」
短い言葉。
パックの顔が青ざめる。
トールの拳が、わずかに握られる。
教団。
召喚。
勇者。
討伐。
点だったものが、繋がり始める。
トールは、魔族を見据えたまま言う。
「……お前は、正気だな」
パックが訳す。
魔族は答える。
「……だから、問う」
金の瞳が、真っ直ぐ向けられる。
「……何故、我らを呼ぶ」
今度は、パックがトールを見る。
トールはすぐに答えない。
代わりに、雷が静かに揺れる。
「……私ではない」
それだけ。
弁明ではない。
事実。
パックが訳す。
魔族は目を見開く。
「……ならば」
「止めろ」
それは命令ではない。
——告発だった。
森が静まり返る。
トールはすぐには答えない。
雷は消えている。
ただ、微かな光だけが残っている。
止める。
教団を。
その言葉の重さは分かっている。
教団は一枚岩ではない。
資金も、人も、勇者も抱えている。
正面から挑めば
——勝ち目はない。
それは理解している。
トールは、魔族ではなくパックを見る。
パックはまだ震えている。
だが、その目は逸らしていない。
「……話せる」
小さく呟く。
「……魔族は……話せる」
その声には、恐怖よりも驚きが混じっている。
「……戦わなくても、分かり合えるかもしれない」
トールの瞳が、わずかに揺れる。
パックの祝福。
“声を聞く力”
それは戦うための力ではない。
繋ぐための力だ。
教団がそれを知ったらどうするか。
一瞬で答えは出る。
邪魔になる存在
——消す。
トールの指先が、わずかに動く。
「……パック」
低い声。
だが、やわらかい。
「……お前の力は」
「……絶対に」
「知られてはならん」
パックが顔を上げる。
魔族が静かに見ている。
勇者と魔族が分かり合えば、
“敵”という構図が崩れる。
物語が崩れる。
金が動かなくなる。
トールは一歩、前に出る。
魔族とパックの間に立つ形。
敵意ではない。
壁だ。
「……私が、守る」
迷いはない。
世界を敵に回す覚悟ではない。
だが、
この少年を守ると決めた。
魔族は、静かに翼を畳む。
「……理解した」
「……その者は、我々にとっても有益だ」
それだけ言うと、翼の魔族は背を向けて、飛び去っていった。
雷は消えた。
だが、トールの握られた拳に、覚悟だけが残った。




