第5話 社交の終わり、恋の始まり
陽月の夜会。それはエルヴァンシア社交界においては翠月の大夜会と並ぶ、大きなもの。
翠月で一年が始まり、陽月で閉じる。そんなシーズンの終わりを告げる夜会。そして、この年の夜会では、人々は別の期待もしていた。
なんといっても、王女であるアリシアがその前月の葉月にグラナートへと嫁いだのだ。結婚式から披露宴という華やかな舞台はあったが、それが終わってから新婚夫婦の姿を見ることはない。それだけに、人々は陽月の夜会に姿を見せるのではないかと噂しているのだった。
そして、始まった陽月の夜会。人々はちらちらと出入り口に視線をやりながら、談笑しているのだった。
「今日は来られるらしい」
「本当か?」
「さすがに、陽月の夜会は欠席しないだろう」
紳士たちの声が低く流れる。
「今日はお見えになる?」
「そのようにお聞きしていますわ」
「まぁ! ステキ!」
若い貴婦人や令嬢たちは扇の陰でさんざめく。
会場には招待客がほぼ揃い、残すのは王族と最上位の五大家の面々。もっとも、ヴァルモンやロスベルグの姿はすでにある。あとは、人々が待ち望む二人を残すのみ――
人々の期待が最高潮に高まったとき、呼び出しの声が響いていた。
「ゼノ・グラナート公爵、並びに、アリシア・リュミエール・グラナート公爵夫人!」
その声に、人々の視線が一斉に扉へと向けられた。
ゆっくりと開かれる扉。そして、人々の目に飛び込んできたのは紫紺と柘榴――
「ご覧になりまして?」
「えぇ、紫紺と柘榴。まるで絵に描いたように素晴らしい組み合わせ……」
令嬢たちのうっとりした声が流れる。この日のアリシアは、髪を高く結い上げた堂々たる貴婦人だった。
隣にいるゼノの髪色を映したような紫紺とグラナートを象徴するザクロ。それだけで、公爵夫人としてこの場に立っている、と雄弁に物語っている。
そして、視線は正面を向いたまま。それでも、互いを自然に気遣う空気が伝わってくる。これだけで、令嬢たちは扇を握りしめて身もだえしているようだった。
「……もう、なんといえばよろしいのかしら?」
「お幸せなのよね……ほんとに、それがよくわかりますけれども……」
ゼノがアリシアの耳元で何事かを囁きかける。それに対して、穏やかな表情でこたえるアリシア。自然に口元に運ばれる扇は、彼女が王女ではなく公爵夫人となったのだということを人々に実感させるものだった。
そんな中、年嵩の貴族家当主が目を光らせる。
「……あれは?」
「どうかなさいましたか?」
「いや、アリシア様の飾り、銀のように見えないか?」
その声に改めて彼女の姿を見た老貴族も大きく頷いている。
「たしかに……グラナートに、銀はなかったはず、ですよね?」
「あぁ、そのはずだが……」
男たちの会話はざわめきの底へと沈んでいく。一方、夜会の中央でたたずんでいた侯爵夫人たちはお互いに目くばせをしている。
「アリシア様のティアラ、ご覧になりまして?」
「ええ、まさか、あれを目にするとは……」
「たしか、王太子妃の……」
「しっ。それ以上は野暮でしてよ」
扇はゆったりと揺れる。だが、夫人たちは互いに目くばせを忘れない。華やかな夜会ではあっても、いや、だからこそお互いに空気は読みあう。夜会は時間を追うごとに華やかな色を含み始めていた。
◇◇◇
やがて、典礼女官が王族の登場を告げる。現れたのは現王、レオンハルトと王太子エドワルド。
今までその場にいたアリシアは貴族たちの輪の中にいる。王家の姿が変わった。そのことを宣言するように、王が言葉を口にする。
王の言葉を受け、楽の音は舞踏の曲へと変わり始める。その時、ゼノはスッとアリシアへと手を差し出していた。
「お相手いただけますか?」
「もちろんですわ」
そのまま、中央へと歩みだす二人。その姿に誰もが感嘆の声を上げることしかできなかった。
「翠月の夜を思い出しますわね」
「ええ、あれからまだ一年も経っていないというのに……」
「ずいぶんと前から、ああやって並んでいらしたように見えますわね」
その声に貴婦人たちが誰からともなく頷いている。あれは、春も早い翠月の大夜会。一年の始まりを告げる舞踏会だった。その時はどこかぎこちなかった二人が今は新婚夫婦として穏やかに微笑んでいる。
そんな二人が、中央に並ぶ。最初のステップで裾がふわりと広がり、ザクロが色を反射する。
紫紺の色に負けない銀の光がきらめく。貴婦人たちの扇がピタリと止まっていた。
「――見事ですわね」
「ええ、ああやって並ばれるとよくわかりますわ」
「みせつけられてはいるのでしょうが、そのことも気になりませんわね……」
貴婦人たちの口からは感嘆の声しか出てこない。そして、令嬢や令息は言葉を口にすることもできず、みとれているだけ。
「ありがとうございました、奥方様」
そう穏やかに告げたゼノは、そっとアリシアの手を取り、その指先へ静かに唇を寄せた。それを目にしていた令嬢たちは、声にならない悲鳴しか上げられない。
(い、今の、今の、ご覧になりまして?)
(もう、何も言えませんわ……物語でもこんなのありませんわよ)
(わかってはいましたけど……でも、なんてお似合いなの!)
令嬢たちが扇の陰でプルプルと震えているのも気が付かないように、アリシアとゼノは舞踏の場から少し離れている。その彼女がゼノに向かって柔らかに微笑んでいるのを見てしまった令息たちが、騒然となってしまっていた。
「おい、今のなんだ?」
「夫人が公爵に微笑んだだけ」
「それだけで、あいつがあそこまで甘い顔になるのか?」
「やめてくれ、見たくなかった……」
グラスが重なり合う音と一緒に聞こえる、令息たちの声。それが耳に入っているだろうに、貴婦人たちは表情を変えることなく、互いにゆったりと話し続けていた。
◇◇◇
シーズンの終わりを告げる夜会はどこまでも華やかに続いている。楽師の奏でる舞曲は止まることがない。あちらこちらで交わされる会話もさまざまな色を帯びている。
そんな中、国王親子は新婚の公爵夫妻を姿に安心したような表情を浮かべていた。だからといって、特に声をかける様子もない。だが、それが彼らにとっての日常なのだろうとその場にいた人々は感じ取っていた。
「陛下からは特にお言葉はないな」
「ないのがいいのだろう」
「そうだな。それに、あの銀がすべて、だな」
「そういうことだ」
各家の当主たちはひそひそを話を続けている。そんな中、王は王太子を促し、その場から静かに消えている。もっとも、これはいつもの夜会の姿。だからこそ、人々は気にすることなく杯を傾ける。
そんな中、もう一方の主役でもあった公爵夫妻もゆっくりと動き始めていた。
人々が注目する中、二人はゆっくりと夜会の場を後にする。その姿を人々は見送ることしかできないようだった。
アリシアの紫紺のドレスの裾が灯りを受けて静かに揺れる。縫い込まれた銀の刺繍とティアラが一瞬だけ、光を返した。
「では、また次のシーズンで」
ゼノの穏やかな声があたりに響く。その声に導かれるように扉が閉じる。
二人が立ち去った会場には、再び音楽だけが流れていた。
陽月の夜会が今年も静かに幕を閉じた。この夜会は、一つの季節が終わり、新しい季節を告げるものにもなっているのだった。




