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これが、恋の始まりだった  作者: Aldith
第1章 消えた王女と揺れる宮廷

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3/3

第3話 宮廷、乱れる

炎月五日の夕刻。

日没が迫り──宮廷はすでに修羅場と化していた。


「誰だ、あの侍女に付き添わせたのは!」

「待ってください、指示が出たのは昨日の夕刻です!」

「王女殿下が“部屋から”消えたんだぞ!? いつの話をしている!」


言葉が言葉を遮り、声が重なっていく。


「だから、順を追って説明を──!」


怒号と混乱の応酬が、王女宮の一角を支配していた。

臨時に設けられた応接室には、文官と近衛、そして数名の侍女たち。

誰がどこまで事情を把握しているのかさえ曖昧なまま、関係者だけが次々に詰め込まれ、気づけば誰も収拾のつけ方を見失っていた。


「第一近衛は、なぜ部屋の前を離れていた!」

「正規の交代時間です。巡回報告も記録されています!」

「現場の結界、異常なしって……どういう意味だ!?」


文官たちは、指示を出す者と記録を取る者に分かれ、それぞれが別の方向を向いたまま言葉を重ねる。

報告は積み上がらず、ただ散らばっていくだけだった。


「第六課は、記録はまとまったか!」

「証言数が多すぎて……まだ全体の整理が──」

「だからといって、出せない理由にはならんだろ!」

「第七課はどうした! 報告が一枚も上がってこないぞ!」

「様式が未確認のままでは出せません! 形式を外れれば無効になります!」

「杓子定規ばかり言っている場合か!」

「記録がばらばらでは、そもそも証拠になりません!」


文官たちの声が、重なり合い、やがて意味を失っていく。

誰もが焦り、誰もが責任を避け、それでも時間だけが、確実に過ぎていった。


――このままでは、王女の失踪は“事件”ではなく“噂”になる。


そして噂は、都合のいい形に育つ。

その恐怖だけが、全員の喉を締めつけていた。


そのとき――


廊下の奥から、硬い足音が近づいてきた。

だが、その足音に応じて、顔を上げる者はいない。


まるで、聞こえなかったかのように。

ただ、空気だけが、わずかに沈んだ。


「……通せ」


低く、落ち着いた声だった。

それだけで、応接室のざわめきが一段、沈む。

誰もが、今さら息を整えることもできず、ただ、音の消えた空間を受け止めた。


扉が、静かに開く。

現れたのは、長身の男だった。


黒髪。簡素な上着。左手には、革張りの記録帳。

その立ち姿だけで――応接室に残っていた最後の雑音が、完全に消えた。


「本日付、王太子殿下の指示により」


男は一拍置き、淡々と告げる。


「聴取記録の臨時統括を預かる。状況を」


声量は抑えめだったが、その語調に“拒めない力”があった。


「第六課――記録課の、エグバート・グランヴィルだ」


その名が落ちた瞬間、数人の背筋が反射で伸びた。

第六課、記録課はまだいい。その中でエグバートという人物は、扱いが違う。


「……第六が、ですか?」


「この件は“記録に残す”と判断された。だから俺が来た。ただそれだけだ」


その声音はどこか苦笑めいていた。だが、現実味を帯びたその態度が、場にわずかな冷静さを取り戻させた。文官と近衛たちは、顔を見合わせた。まるで、異物を前にしたように。


「状況はまだ流動的で……情報が錯綜しておりまして」


「だったら、今ある分だけでいい。手がかりと証言の整理、提出された台帳、近衛の巡回記録──最優先で確認したい」


ひとり、エグバートは歩を進める。まるで、ここが自分の部署であるかのような無遠慮さ。けれど、誰も止めなかった。止められなかった。


「姫君に最後に随行した侍女は?」


「エルマです。現在、別室に拘束中──取り調べの途中ですが……」


「記録は誰が?」


「第七課は確認が……“王印の手続き待ち”で手が出せなく……」


言い淀む文官に、エグバートは即座に言い放つ。


「王印が絡むと、誤記が“国家の記録”として残る。だから第七は動けない。それはわかる。

だが、待ってられないから、俺がやる。部屋へ案内しろ」


「お待ちください。最終確認は本来、第七課の範囲で──」


「形式より先に、やることがあるだろう」


冷えた声音に、誰も言葉を継げなかった。実際、この場にいる誰もが知っていた。


「たしかに、そうではありますが……」


「七課は綺麗ごとでまとまっとけ。うちはうちの流儀がある」


エグバートの言葉はある意味の真理。第七課が動くには、手順を確認し、許可を得て、様式を整えてから。だが──そんな余裕は、今はない。


「王太子殿下の命による臨時措置だ。文句があるなら、あとで正式に抗議すればいい。今は、記録を残す」


その口調に押されるように、近衛のひとりが小さく頷いた。


「……こちらへ」


それは“押し通す”のではなく、“当然のように引き取る”態度だった。記録は混乱の只中でこそ価値を持つ──それを誰よりも理解している者の動き。


応接室の一角、扉の先にある小間。その中に、ひとりの少女が座らされていた。侍女服に身を包み、蒼白な顔。両手は拘束されているものの、その震えからは抵抗の気配はない。


「氏名、部署」


その一言に、少女は肩をびくりと震わせた。喉が詰まったように言葉を探し、ようやく小さな声を落とす。


「……エルマ。……王女宮付きの、侍女です」


エグバートは頷くと、すぐさま記録帳を開く。


「最後に王女殿下と接触したのは、炎月五日の午後十二時頃。部屋の場所、渡した物品、そのときの第三者の有無──順を追って、教えてもらおう」


「……はい。……あの、渡したものは……なくて。私は、ただ……お部屋まで……」


一言ごとに声が細くなっていく。


「……鏡は、最初から……そこに」


エルマの答えに、エグバートの眉がピクリと動く。


「あの部屋は長い間、封鎖されていた。それを改装したと記憶している。職人も入っていたはずだ。それなら鏡がある記録は残る。だが──なかった」


「……」


「……そうか。“自然にあるはずのないもの”がそこにあった。それが問題なんだ」


問い詰められ、エルマは唇を噛み、首をすくめた。小さな肩が震えている。


「……べつに黙っててもいい。けどな、そのとき全部背負うのは、お前だ」


冷えた声音に押されて、少女の瞳に涙がにじむ。やがて諦めるように、途切れ途切れの声が落ちた。


「……王女宮の侍女になったのが決まったとき、“アリシア様がお気に召すはずだから”って……。……鏡を……持っていくようにって……本家の方から……鏡を……」


「“本家の方”? 誰の指示だ」


「……」


「脅されているのは分かる。――家族か?」


「……指示じゃ、ありません。頼まれた、だけ、です……」


脅かされたのではない。エルマの中にはそんな思いだけがあった。だからこそ、声を震わせながらもエグバートの言葉に反論する。


その声には、これが絶対だと信じている響きも含まれていたのだろう。エグバートは記録帳を閉じなかった。ただ一拍置き、低く告げる。


「わかった。頼まれただけなんだな。じゃあ、これ以上、君にたずねるのはやめにする」


「え……?」


「だが、掘り起こすのは俺たちの仕事だ。文官ってのは、そういう生き物だ」


「……でも、でも……ほんとうに、頼まれただけなんです。鏡を姫様にって……」


すすり泣くエルマの声をエグバートは聞いているだけ。そのまま、彼はパタンと記録帳を閉じていた。


「……記録、以上」


室内は静まり返っていた。威圧はなかった。怒声もない。ただ、静かな圧と理詰めの問いが重ねられただけだった。なのに──疲弊していたのは、取り調べを受けた侍女だけではない。同席していた文官たちの誰もが、肩で息をしていた。


「……この場の記録は、責任を持って第六課が引き取る。今後の聴取も、そちらで行う」


誰かが何かを言いかけたが──結局、言葉にはならなかった。この場の誰もが理解していた。“この男が来た”という事実が、すでに異例なのだと。


エグバートは静かに立ち上がる。手元の記録を一冊にまとめ、文官のひとり──後ろについていた若手に手渡す。


「フロイ、これは控えとして課に回せ。……本部の保管庫じゃない。『第六』に、だ」


「っ、は、はいっ!」


エグバートはそれ以上、何も言わずに振り返った。


「侍女エルマ、引き取る。同行者をつけろ」


「グランヴィル文官、しかし……王太子殿下の名の下とはいえ、他局の記録案件を単独で──」


またしても、中堅文官の誰かが口を挟もうとする。だが──エグバートは、それにさえ立ち止まらずに言い捨てた。


「文官ってのはな、“言葉”で責任を背負うんだ。書いた記録は、背負う覚悟がいるんだよ」


それきりだった。彼は、扉の向こうへと去っていった。蒼白な侍女と、フロイを従えて。


応接室の扉が閉まったあとも、空気はしばらく戻らなかった。


「……なんだったんだ、あの人……」


誰かが漏らした声は小さかった。けれど、その小ささが逆に、場の疲労を物語っている。文官たちは互いに視線を交わし、誰もが同じ結論に辿りついた顔をしていた――“第六”が来た、という事実だけで。


「記録を引き取る、って……」


「殿下の名を盾にしてたが、あれは……盾じゃない。本人が背負うつもりだった」


近衛のひとりが、扉の向こうを見つめたまま呟いた。


「……最も動きたいはずの人間が、最も動けない立場にある。だから、あの男が来た」


誰も否定しなかった。


その夜、王女宮の回廊には近衛が立ち、侍女は二人一組でしか動けなくなっていた。宮廷は混乱の只中にあった。そして、その混乱が“都合よく育つ”ことを願う者が、どこかにいる――そんな匂いだけが、薄く漂っていた。

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