第1話 影の去りし日
新年を迎えたばかりの氷月の午後。
新年の拝賀が行われる本宮殿は人の出入りが多い。しかし王女宮は本来、その喧騒とは無縁の場所だった。
だというのに、その日は回廊がいつになくざわめいていた。
回廊はざわめき、近衛の姿は見えず、文官や侍女が慌ただしく行き来している。
机に並べた本から目を離し、アリシアは窓越しに首をかしげた。
「……マティルダ、今日は騒がしいわね」
控えていたマティルダも気づいていたのだろう。すぐに振り返り、落ち着いた声で答える。
「さようでございますね。本宮殿では新年の行事が続いているので、おかしくはございませんが……」
その声が消えないうちに扉が開き、フェルミナが入ってきた。背筋を伸ばしたまま深く礼をし、事務的な口調で告げる。
「殿下……本日をもちまして、グラナート様が護衛の任から外れられました」
「……外れた?」
「はい。それに伴い、王女宮に与えられていたお部屋も、先ほど返還手続きが済みました。そのため、人の出入りが多くございます」
「……では、もう、ここには」
「はい。以後は文官補佐のクレイド様が、護衛の任を兼ねられます」
「どうして……こんなに、急なの?」
「宮廷においては、すでに取り決められていたことでございます」
「……そんなの、知らなかった」
繰り返してみても、胸の奥に広がるのは、ぽっかりとした穴のような感覚だった。
昨日までは、振り向けばすぐそこにいてくれたのに。急にいなくなってしまうなんて――。
「姫様、どうかお気を落とされませぬよう」
「落としてなんていないわ。ただ……」
言葉が見つからなかった。
ほどなくして、控えの間に新しい影が現れた。
扉口に立ったその青年は、見慣れた顔――セイル=クレイド。
二年前から文官補佐として控えていた彼の姿が、なぜか違って見えた。
「失礼いたします。アリシア殿下」
きちんと膝を折って頭を垂れる仕草。
「……セイル?」
「はい。本日より、殿下のお傍をお守りするよう仰せつかりました」
「それって……護衛ってこと?」
青年は小さく頷いた。
「でも、セイルって文官でしょう?」
「書類上は、文官補佐のままです。ただ、役目がひとつ増えただけのこと」
「役目が……増えただけ?」
口に出してみても、うまく飲み込めない。
「ご不安でしょうか、殿下」
「不安ってわけじゃないの。ただ……」
言いよどんだところで、セイルは穏やかな微笑を添える。
「殿下はお忘れになりましたか? かつての事件の折に、殿下のお傍に駆けつけたのは私でした」
「……そうだった、のね」
「はい。あの時の殿下のお言葉は私にとっては何よりのものでした。だからこそ、殿下のお側にいたいと望みました」
淡々と、しかし強い響きをもって言い切る声。どこまでも文官らしい落ち着きの裏に、揺るがぬ意思の影がある。
「でも……」
「殿下。役目が変わっても、私自身は変わりません。文官としても、護衛としても、殿下をお支えします。そういう者だと思っていただければいいのです」
「……そう、なの?」
「本日より、私が殿下をお守りします。どうぞ、ご安心を」
深く一礼する姿を、ただ見つめることしかできなかった。
胸の中には、昨日までそばにいた人のことが、どうしても消えてくれなかったのに――。
「……姫様」
セイルが退室すると、控えていたマティルダがそっと歩み寄ってきた。
それに返事ができないアリシアは、窓の外へ視線を向ける。
冬の日差しは傾き、庭に長い影を落としていた。
「……どうしても、納得できないの」
「姫様にとっては、急なことと思われるのでしょうね」
「だって、昨日までいたのよ。いつも、ちゃんと後ろに。……なのに、今日はもういないなんて」
声が少し震え、唇がむっと尖る。
「姫様」
マティルダは一歩近づき、落ち着いた声音で言った。
「護衛はあくまで職務でございます。……それに、あのお方はグラナート家の嫡子。いつまでも護衛でいらっしゃる方ではないのです」
「そういうのは分かるけど……でも、護衛をやめるなら、挨拶くらいあってもいいじゃない」
拗ねたように呟くと、マティルダはわずかに目を伏せ、柔らかく首を振った。
「ご挨拶がないのは、それだけ務めに忠実でいらしたからです」
「……そう言われても、やっぱりいや」
小さな拳をぎゅっと握りしめる。
マティルダはその手を見て、少しだけ笑んだ。
「お心を痛めるのは当然でございますよ。……それほど長く、お傍にあった証なのですから」
「証……なの?」
「ええ。姫様にとっても、そして、あのお方にとっても」
アリシアはまた窓の外に目をやった。冬木の枝が風に揺れ、小さく震えている。
「マティルダ」
「はい、姫様」
「……ゼノ様に、また会えると思う?」
素直に問うと、マティルダはやさしく微笑んだ。
「きっと会えます。護衛から外れられたのは、家にお戻りになったから。次はグラナートの若君として、堂々と姫様の前にお立ちになるでしょう」
「……ほんとに?」
「ほんとに、です」
「ありがとう、マティルダ」
冬の午後のざわめきはもう遠のき、部屋には姫と姉のような侍女だけが残る静かな余韻が広がっていた。
◇◇◇
冬の陽はすでに落ちかけていた。
王女宮から少し離れた棟の一室。灯された燭台の明かりの中で、青年は黙然と立っていた。
机の上には整えられた数冊の書類と、返却を終えた徽章。
「……王女宮の部屋も、片づけを済ませられたとか」
低い声に顔を上げる。そこに立つのは家宰ロドルフォ。笑みとも無表情ともつかぬ面で、青年を見据えていた。
「ええ。すべて終わりました」
感情を押し隠した声。だが冷たさの奥に、かすかな迷いが滲む。
「護衛から外れた以上、王女宮に通う理由はなくなった」
その一言に、ゼノのまなざしが揺れた。ロドルフォは間髪入れず、叩きつけるように続ける。
「――ですが、若。ここからが始まりです」
「……護衛としての役目は、もう……」
「終わりました。だが積み上げたものは残る。王女殿下の傍らにいた三年。それは誰にも真似できぬ“既成事実”」
ゼノは拳を握る。吐き出した声は、かすかに震えていた。
「……護衛でなければ。殿下の傍に立つことなど」
「整えるのです。立場を。状況を。周囲の目を。――それこそが、グラナートの戦い方」
ゼノは言葉を失った。老獪な言葉は、叱責ではない。選択肢を与えず、道を一つに収束させる。
「若は護衛から外れた。ならば次は、嫡子として殿下の隣に立つ。それ以外に道はない」
ロドルフォの声音は淡々としていた。だが、逃げ場のない現実を突きつける冷徹さがあった。
ゼノは目を伏せ、長く息を吐いた。迷いの奥に、確かに灯るものがある。
「……たしかに」
その返答に、ロドルフォはようやく口の端を上げる。
「明日からは、若はグラナートの若君として動くのです。護衛の影など、背負う必要はない」
「……はい」
短い返事。だがそこには、青年を押し切った家宰の影と、その枠組みの中で燃えはじめた決意が確かにあった。




