第1話 消えた王女
王女宮には、明るい空気が流れていた。かつての仮宮が、正式に王女の宮と認められてからまだ数日。人の出入りが増え、調度も整えられ、どこか華やいだ雰囲気が漂っている。
宮の主である王女アリシアは、10歳になったばかり。そのために、集められた侍女たちの年齢も幼い。そんな少女たちが集まれば、空気が軽くなるのは無理もない。
初夏の風がそよぎ、中庭からは芝生を踏む足音がかすかに届いてくる。仮宮からの改装は終わったとはいえ、まだ人の出入りが多い時期ともいえた。
そんな炎月五日の昼前。アリシアは、侍女たちとともに宮内の小間で早めの昼食をとっていた。
「あら、フェルミナは?」
「フェルミナ様は所用で席を外されました。マティルダ様も同行されております。何かお困りのことでもございますでしょうか?」
「いいえ。今日は、あなたたちと一緒がいいわ。お食事、冷めないうちにいただきましょう」
温かなポタージュに焼きたてのパン。小皿に盛られた果実のコンポートが彩りを添え、気持ちをふっと緩めてくれる。
そんな彼女の髪に、白百合の飾りが初夏の風に揺れていた。10歳の誕生日に、兄である王太子エドワルドから贈られたもの。王家の象徴でもある花は、金色の髪に映え、幼い横顔をやわらかく縁取っている。
「……姫様」
食事が終わり、午後の予定までのひと時。侍女たちはそれぞれの仕事に向かっている。そんな中、午後の付き添い役を任されていたエルマが恐る恐る声をかけてきた。アリシアより一つ年上の11歳の侍女。まだ背も低く、ぎゅっと握りしめた手が新しい侍女服のスカートを乱している。
「どうかしたの、エルマ?」
「え、えっと……小さなお部屋をみつけたんです。お時間があれば、一緒に見に行きたいな、と思って」
「お部屋? それってエルマの探検ね」
「はい。ですので、姫様とご一緒に見つけた場所に行きたいと思いまして」
エルマの声にアリシアの表情が一気に明るくなる。どこかウキウキしたような表情と少女らしい声が飛び出していた。
「行きたいわ!」
弾かれるように椅子から立ち上がったアリシアは、エルマの手を握る。その柔らかな白い手にエルマが目をパチパチさせていた。
「……姫様? ほんとうに、よろしいのですか?」
「あら、エルマが探検って言ったんじゃない。まだ時間もあるし、行ってみたいの!」
侍女と一緒に昼食の片づけをしていた乳母が困ったような顔をする。それに対しても、アリシアは無邪気な笑顔を向けていた。
「大丈夫よ。ちょっとだけ探検してすぐに帰ってくるわ。エルマが一緒だから一人じゃないし」
「……仕方がございませんね。フェルミナ様がお戻りになったときにお叱りをうけないようにしてくださいね」
「わかっているわよ。エルマ、行きましょう!」
そう言ってから廊下へ出ると、空気が少し変わった。窓から差す光は同じはずなのに、人の声がしない。にぎやかだったはずの王女宮が、急に広くなったように感じられた。
胸の奥で、ちいさな引っかかりが動いた。でも、これは冒険。だったら、当然じゃないか。そんな思いでアリシアは前を向く。そんな彼女に手を引かれるようにしてエルマも静かに足を運ぶ。
「ねぇ、エルマ……こっちなの?」
「はい。私も昨日の夜、みつけたんです。姫様のお部屋からはちょっと離れているんですけど……でも、なんだかおしゃれで姫様にも見てもらいたいなって思って……」
「そ、そうなのね。じゃあ、早くいってみてみないと。あんまり遅くなると、フェルミナが帰ってくるわ」
誰も通らない廊下を歩くことで、不安も大きくなっていく。アリシアは無意識に髪飾りに触れていた。白百合の感触が指先に残り、少しだけ心が落ち着く。
二人がたどり着いたのは、王女宮の奥――これまで使われていなかった、小さな部屋の前だった。
「このお部屋……?」
「はい。鍵がかかっているかと思ったんですけど、そうじゃなくて。中をみたら、すてきな鏡とか見えたんです!」
ちょっと興奮したようなエルマの声。それに引きずられるように、アリシアは扉に手を伸ばしていた。磨かれた木の扉は年季を感じさせつつも、軽い音を立てて静かに開く。
中に広がっていたのは、まるで時間が止まったような空間だった。日差しに照らされたレースのカーテン。金糸を織り込んだクッション。壁際の化粧台には、古風な銀の手鏡がぽつんと置かれている。誰かがさっきまでここにいたようにも見えるのに、空気だけが古い。
「……なんだか、絵本の中のお部屋みたい!」
アリシアは碧の瞳をきらりと輝かせ、小走りに部屋へ入っていく。
「ほら、見て。縁に百合の模様が……わたしの髪飾りとおそろいみたい!」
化粧台の前で、銀の鏡を覗き込む。そこに映るのは、金の髪と白百合の飾り。幼い頬の、やわらかな色。
「姫様――」
背後で、エルマの声がかすかに震えた。怒鳴るでも、止めるでもない。たぶん、言葉の形になりきらない声。
アリシアは、鏡を持ち上げる。ひんやりとした重みが掌に乗った。
「……きれい。ねぇ、エルマもそう思うでしょう?」
アリシアの指先が、銀の鏡に触れた。
その瞬間、空気が揺れた。炎でも風でもない。光の輪郭そのものが、薄い膜を引かれたように歪む。
「……え?」
言葉が終わるより先に、少女の輪郭が淡く滲んだ。
金の髪も、白百合の飾りも、次の瞬間には掻き消える。
そこに残ったのは、化粧台の上に置かれた、銀の鏡だけだった。
「……姫様?」
返事はない。部屋の中に、王女はいない。エルマは、呼吸の仕方を忘れたように立ち尽くしていた。理解が追いつかず、視界の端が白くなる。
(……な、なにが……あった、の?……)
そんな彼女の頭の中で優しい声が響いてくる。
――これを部屋に置いておくれ。エルマにしか頼めないんだよ。お願いできるよね。
エルマの中で甘い匂いと一緒に、残された柔らかい声。頭を撫でてくれる大きな手の感触も残っている。
“そのあとは鏡は持って帰ってきてくれるね。エルマならきちんとお使いができると信じているよ。”
それだけが、頭の中で反射みたいに繰り返された。エルマは震える手で鏡を掴んだ。冷たい金属が掌に食い込み、痛いほど現実を突きつける。
――けれど。鏡の冷たさよりも、胸の奥のほうが先に壊れた。膝が抜けそうになる。視界が滲む。喉がひきつれ、声が出ない。
(……どうして……)
命令を守った。守ったはずなのに、主が消えた。息を吸う。吸えない。胸が詰まる。肺が鳴る。吐き出す空気が震える。
「――ひ」
漏れた音は、言葉にならなかった。それでも次の瞬間、喉の奥から無理やり押し出す。
「……ひ、姫……っ」
声が、室内で一度だけ跳ね返った。
エルマの声が反響し、宮の中にざわめきが走る。
「今の声は!?」「何が──」
午後の持ち場についた近衛の声が響き、廊下の空気が一斉に張りつめた。
「姫様が……姫様が……っ!」
泣き声混じりに同じ言葉を繰り返しながら、エルマはしゃがみこんでいる。胸に抱えた銀の鏡が小刻みに震えていた。
「姫君はどこに行かれた? 答えよ!」
「わ、わたし……わからなくて……っ!」
エルマは同じ言葉しか口にすることができない。
「黙れ!」
近衛兵の怒声が廊下を裂いた。強い腕がエルマの肩を掴み、乱暴に小さな体を持ち上げる。
抱え込んでいた鏡が手から滑り、硬い音を立てて床を跳ねた。
「下がれ! 近衛以外は近づくな!」
「医務官を呼べ! 術師もだ、魔術の気配がある!」
「結界班、反応を確認しろ! 現場だ、何かが残っている!」
怒号と指示が飛び交い、侍女たちの悲鳴が重なる。そこにバタバタと駆け込んできたのはフェルミナとマティルダ。普段は落ち着いた二人の顔がこわばっている。
「何があったのですか! 私に無断で何をするのです!」
近衛に対して恫喝する声を上げるフェルミナ。そして、一歩踏み出しかけるマティルダの足が寸前で止まった。近衛が張った腕の壁が、彼女たち二人の前に立ちはだかっている。
「姫様が……っ!」
エルマは涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら、それしか言えなかった。
「拘束を。――この子、逃げようとした」
近衛の声が短く落ち、エルマの腕が背に回される。抵抗はない。ただ、崩れるように震えていた。剣の鞘が鳴り、足音が重なる。人が、雪崩れ込むように集まり始める。
混乱の渦のただ中で、マティルダは床の鏡に視線を落とした。あれが“姫様が消えた瞬間”に残った唯一のものだ。駆けつけた術師が、床に転がる鏡を見た瞬間、顔色を変えた。指先を伸ばしかけて――触れずに止める。
「触れるな。……媒体だ」
その一言で、廊下の温度が変わった。“物”ではない。触れた者を巻き込む“装置”だと、誰もが理解する。
「ば、媒体……ですか?」
まだ若い近衛が鏡に手を伸ばそうとする。その手を術師がぐっと掴んでいた。
「勝手に触るな。何があっても知らんぞ。近衛、その鏡は、布で包め。下手に触れるとまた被害が出るぞ」
「了解」
近衛が即座に応じ、術師の合図を待ってから、厚布を二重にかける。鏡面が隠れた瞬間、廊下のざわめきがわずかに沈んだ。
「封印箱を」
術師が淡々と言う。
「ここで封を切らせるわけにはいかない。魔術局へ直送する」
近衛が頷き、箱が運ばれる。鏡は布ごと収められ、封が施される。――その手順だけが、異様な静けさで進んだ。
炎月五日。王女アリシア失踪の第一報は、王宮上層へ届けられる。だが現場はまだ、混乱のただ中にあった。
◇◇◇
マティルダの背後で、かすかなすすり泣きが続いていた。拘束されたエルマが、廊下の床に座り込んだまま、鏡が置かれていた場所を見つめている。そこにはもう何もない。それでも、視線だけが離れなかった。
「わたし……なにも……」
喉に引っかかったような声が、途切れ途切れに落ちる。
「あの……ただ……言われた通りに……」
その言葉に、マティルダの眉がわずかに動いた。だが、今は掘り下げるべき時ではない――判断は、即座についた。
「……この子は保護して。別室へ」
命じる声は低く、感情を抑えたものだった。頷いた近衛が近づき、エルマの腕にそっと手を添える。
廊下に、重々しい足音が増えていく。王宮内の騎士、文官、王立魔術院の術師――王女が“消えた”という報せは、静かに、しかし確実に広がり始めていた。
「……誰か、記録課へ急報を。上申文の準備を」
マティルダの指示に、即座に侍女が動く。だが、その背で、別の声が小さく漏れた。
「で、でも……本当に……姫様が、消えたのですか……?」
「確認したでしょう」
返した声は、きっぱりとしていた。
「宮内に、お姿はない。それが事実です」
言葉が落ちた瞬間、空気が一段、冷える。
「今は動揺している場合ではありません。侍女たちは、この部屋には一歩も近づかないように」
「は、はい……!」
「フェルミナ様、こちらで差配して申し訳ございません。ただ、お手数ですが本宮殿に明日の予定の中止の連絡をいただけますでしょうか?」
マティルダの声にフェルミナは短くうなずいている。そんな時、本宮殿の方角から別の音も聞こえてきていた。
「王女殿下は……?」
「失踪だ。詳細はまだ――」
「封鎖を優先しろ。誰も入れるな!」
怒号と足音が廊下を満たし、秩序は瞬く間に飲み込まれていく。
そして――その知らせは、数分後。王城から少し離れた、王立学園へと届くことになる。
「……アリシアが?」
静かに立ち上がった少年の声は低い。だが、確かにその場の空気を震わせていた。




