かげのおり15
浅くなる呼吸をできるだけ深く保ちながら、震えそうになる手でドアノブを握る。ゆっくりとノブを回して、深呼吸。
怖くない。大丈夫。
心の中でそう自分に言い聞かせてから、私は思いっきりドアを開けた。
「……っ」
殺虫剤を構えて、視線と一緒にあちこちへと動かす。
部屋をぐるりと見回すのを3回くらい繰り返し、部屋に顔と殺虫剤だけ入れて手前側も十分警戒して、それから大きく息を吐いた。
「いない……」
まだスプレー缶のトリガーからは手を離さないまま、私はとりあえず安心した。
ここは大丈夫らしい。
4つある部屋のうち、最初のところで壁に張り付く大きな影を見てから、私の心拍数は上がりっぱなしだった。
いわゆる益虫だということがわかっていたとしても。
あの恐ろしい黒光りを退治してくれる存在だと頭ではわかっていても、気持ちはついていかないものだ。それが私の手のひらと同じくらいのサイズだったのならなおさら。
声にならない悲鳴を私が上げるのと同時に、相手も同じくらいの恐怖を感じたのかもしれない。目にも止まらぬ速さで滑らかに壁を移動した「それ」が物陰に隠れてしまい、私は泣き喚きたい気持ちになりながらどうにか部屋の様子をデジカメに収めた。
震えないように最大限の努力をしつつ2つ目の部屋を終え、これが3つ目の部屋。廊下を進んだ右奥側の部屋を開けたところだ。
怖い目に遭うって、絶対あれのことだったんだ。
そうに違いない。そしてそうであってほしい。
怨霊だろうが亡霊だろうが祟りだろうがなんでもいいけど、とりあえず手のひら以上のサイズは出てこないでほしい。
「……ここも寝室のようです」
繰り返した言葉を呟きつつ、デジカメと殺虫剤を構えながら部屋を進む。
3つ目の部屋は、前の2つとそう変わらない作りをしていた。
部屋の中央にあるのが、頭側を壁際に寄せたベッド。横には正方形のサイドテーブルが置かれ、ベッドの足元側には皮張りのオットマンが置かれている。ホテルのいい部屋みたいな感じだ。ベランダに面している大きなガラス戸は割れているけれど、落ちているカーテンは分厚くて高級そうだ。ランプにクローゼット。2つ目の部屋には「赤毛のアン」に出てきそうなライティングビューローがあったけれど、この部屋にはその代わりに本棚がある。棚の板が外れているので置かれていたらしい本は全て床に散らばり、英語で書かれたハードカバーが悲惨なことになっていた。
吹き込んだ雨風で黒くなったその本を映してから、窓を映す。後ろを振り返ってドアがある方を向いてビデオカメラを数秒静止させる。これでこの部屋は全部撮った。
「お、っと」
廊下に戻る途中で躓きそうになり、軽いスキップのような体勢になった。
この家の床はカーペットで覆われているので普通の廃墟より歩きにくいことはないけれど、壊れた家具の木材やカーテンなどの布類があちこちに落ちているので油断すると躓いてしまう。入った3部屋全てで出るときに躓いているので、もう少し気をつけたほうがよさそうだ。虫がいないとしても、このカビ臭いカーペットに転ぶのは避けたい。
部屋を出てもう一度デジカメを部屋の中に向け、それからドアを閉めた。大きく呼吸をして汗を拭き、首を回す。肩が重いのは龍のせいよりも、緊張で力が入っているからの理由が大きそうだ。
「次が最後の一部屋です」
声を入れる必要があるのかはわからないけれど、編集をしやすくするためにも一応説明を入れておく。
4つ目のドアノブに手をかけた瞬間、ムッと迫るイヤな臭いが鼻をついた。つんとくるカビの臭いとはまた違った感じだ。
もしかして有機物が。
そう危機感を抱いた瞬間、突然鼻がムズムズした。
ふぇっくしょい!!
……。
なんだか感じたことのある、突発的な鼻のムズムズだった。
「……ん?」
臭いがマシになった気がする。
くしゃみをしたせいか、それとも龍のヒゲ的な何かが作用したのか。
イヤな臭いがマシになったのはいいけど、もう急激なムズムズはやめてほしい。
そう念じながら、私は最後のドアを開けた。




