第二百二十九話 図書館デート
本が集まる場所には、独特の匂いがある。
紙と、インクと、革表紙。それと木製の本棚。書架の高いところに積もった埃。それらの混じり合った何とも形容し難い匂いは、本好きにとって痲薬のような中毒性を持っている。
アデリーンも例に漏れずその匂いが大好きで、一時期それと同じ香りのアロマを作ろうとしたこともあるほどだ。結局重要なのは匂いそのものではなく空間を埋め尽くす本の存在なのだということに気付き、計画は頓挫したが。
そんな彼女にとって、帝国の皇室図書館はほとんど桃源郷だった。桃の木が生い茂り清流が流れているのではなく、薄暗くて本にまみれた埃っぽい桃源郷である。
今彼女が一心不乱に読みふけっているのは、分野で言えば魔導基礎理論にあたる書物だ。ただし、中身は一風変わっている。
魔導とは、一言で言えば魔力を用いて理に働きかける力、或いはそのプロセスのことを言う。それは魔導を学ぶ上での大前提で、そのことについて疑問を呈したり理由を求める学者はいない。
それは、そういうものなのだ。言わば世界の摂理であり、真理であり、真実。下手に疑問を持とうものなら、その魔導士は己の土台を失って魔導を行使出来なくなってしまうことだろう。
そんな大前提に真向から勝負を挑んでいるのが、彼女の手にある『ルツェール=マル著 魔導の収束点と限界』だ。
始めは、珍妙なタイトルが目について手に取っただけだった。魔導の限界なら分かるが、収束点とは何か。そして何とはなしにページを繰り、彼女の中で蟠っていたモヤモヤが白日の下に引き摺り出された。
そう、魔導とは理に働きかける術。世界を巡る万物の根源たる魔力に意志を乗せて、望みどおりの結果を生み出す法。
しかしそれは、ひどく回りくどくて間接的で、決して効率的とは言えない。魔力の流れを視ることが出来るアデリーンには余計にそう思えた。
彼女の目に映る魔導は、すぐ目の前に目的地があるのに無駄に寄り道をして無駄に力を浪費するものだった。
術式とは本来、乏しい魔力でも充分に結果を出せるように効率を考えて作られたもの…のはずだ。しかしそれにしてはプロセスが複雑すぎる。
そう考えていたアデリーンが目の当たりにした光景。調印式の際、襲ってきた魔獣を屠ったハルトの異質な技。超常の力。あれこそが、アデリーンが求める最高の、究極の、理想形態だった。
魔導術式が幾重にも段階を経て間接的に理に働きかけるのだとすれば、ハルトのあの力はもっと直接的に理に触れるものだ。理に「働きかける」のではなく、書き換える、或いは操作する…支配する力。
アデリーンにだって分かっている。ハルトは、魔王の後継則ち次代の魔王。今は幼くとも、魔王に相応しい能力を備えた存在。その彼が使う超常の力が、廉族に過ぎない自分に行使出来るはずがない。
おそらくあれが、神の領域というものだ。太陽に近づき過ぎれば燃え尽きてしまうように、地を這う生物がそれに手を伸ばせば命を代償に差し出すことになる。
だが、不可侵の領分だからと言って知らないままでいることは、彼女には出来なかった。
おそらく、著者のルツェール=マルなる人物は、アデリーンと似た考えの持ち主だったのだろう。そこには、何故魔導では直接的に理に触れることが出来ないのかという考察がなされていた。
詳しい解説は割愛するが、とにかくアデリーンは自分の疑問を解消してくれる可能性を持ったそれを一心不乱に読みふけっていたのだ。
本は、金属で補強された背表紙もさることながら分厚さだけで人を殴り殺せそうなボリュームで、アデリーンが立ち読みに満足するのに要した時間は控えめに見ても二時間。さらっと読んだところであとは借りて部屋でじっくり吟味しようと本を抱えて顔を上げたアデリーンの視界に入ってきたのは、満面の笑みで彼女を見つめていたラーシュ=エーリク。
二時間も待ちぼうけを食らっていた人間とは思えない幸せそうな表情だった。
「お…お待たせ……」
「いえいえ、気にしないで下さい。それより、もういいんですか?」
「つ……次はあっち」
「あ、あっちは鍵動言語学の棚ですね、それじゃ移動しましょうか」
まだまだ図書室に入り浸る気満々のアデリーンに快く応じる。自身は本を読むでもなくひたすら待ち続けているだけなので相当に退屈だろうと思われるが、そんなことを微塵も感じさせない。
さしもの図太いアデリーンも、ここまで放置されて平然と…どころか寧ろ嬉しそうにしているラーシュに罪悪感のようなものを感じる…かと言うとそうでもなくて、どちらかというと引き気味。放置プレイが好きな変態さんなのかと疑り始めてたりする。
「え…っと……その、退屈じゃないんですか、ただ突っ立ってるだけで」
突っ立たせているのは自分だという自覚がありながらも尋ねるアデリーンに、ラーシュは変わらずにこやかなまま。
ただし、彼女が自分を気に掛けてくれたことには一層顔を輝かせて喜びを隠そうとしなかった。
「いいえ、全然!僕、図書室の雰囲気が好きなんですよ。好きな場所で好きな人の姿を眺めていられるだなんて、これ以上の素晴らしい時間はありませんね!」
「あ…そう」
まぁ、本人がいいと言うのなら気を使う必要はない。例え相手が皇族だろうと、それ以上の遠慮をする必要なんてアデリーンは感じなかった。
お許しが出たのをいいことに、再び書物へと没頭する。
結果、彼女がひとしきり満足したのは六時間後、すっかり日も暮れた頃だった。
読書に夢中になっていたということもあるが、アデリーンには目論見もあったのだ。それは、ここまで放置され待ちぼうけを食らわされたのであればいい加減ラーシュも自分に愛想を尽かすに違いない…と。
彼が自分に惚れた理由は全く分からないが、一目惚れなんて結局は勘違いの産物であるというのがアデリーンの持論だ。勝手に勘違いして、勝手に理想像を相手に嵌めているだけ。
ならば早々に幻想を打ち砕いてやるのも慈悲だろう。これだけ無下に扱われて、仮にも皇族であるラーシュがそれでもアデリーンに幻想を抱き続けるとは思えなかった。
……のだが。
「それじゃ、私はもう行くんで。あ、これとこれとそれ…借りてってもいいですか?」
「勿論です!僕の名前で借りておくので、返却はゆっくりでいいですよ」
ラーシュを苛立たせようと、ワザと礼は言わなかった。待たせた詫びも。
それなのにラーシュはまるで気にする様子はない。アデリーンの役に立てるのが心底嬉しいようで、アデリーンに少しでも喜んでもらおうと気を遣って。
それが、アデリーンにはどうにも気色悪い。
「…………あの」
「なんですか?あ、他にも借りていきます?」
「いえ、そうじゃなくて…………なんで私なんですか?」
恋愛事には無関心なアデリーンでも、自分の容姿はごくごく平均値でそれほど受けの良いものではないと分かっている。お洒落の一つ二つでもしてみれば少しはマシだろうが、その必要を感じない彼女はいつでもスッピンだし(それは相棒のマグノリアだって同じだ)、格好も洒落っ気のない黒法衣。
それでも何か秀でるもの…人当たりの良さだったり気遣い上手だったり或いは頼り甲斐だったり、一緒にいると安らげるとか退屈しないとかそういう魅力があれば別だろう。しかし、自分の興味ばかりに集中して一緒にいる相手を放置したり感謝も謝罪もしなかったり用事が済んだらさっさと帰ろうとするアデリーンに、それらの魅力点は皆無…のはず。
アデリーンの真剣な眼差しに、ラーシュも表情を引き締めた。ここで「一目惚れなんですよあははー」と軽く流そうとせず真面目に答えようとする点には好感が持てる。
…だからと言って好意に変わることはないのだが。あるはずないのだが。
「うーん……そうですね、何て言ったらいいのかな…」
いざ言葉にしようとすると、なかなか出てこないようだった。あれだけ美しいだの可憐だのファムファタールだの海妖精だの歯の浮くような賛辞を止めどもなく垂れ流していたというのに、本当に伝えたいことはすぐには形にならないらしい。
「その、美しいと思ったのは本当なんです。一目見たときに…」
「それ、私が本気にすると思います?皇弟殿下だったら、周囲にもっと綺麗な女の人が沢山いるでしょう?」
皇族ならば選り取り見取りだ。貴族だろうと平民だろうと、美しいと言われる娘たちを集めて侍らすことだって難しくない。
「ええっと、そうじゃなくて……僕が言いたいのは、単純に顔がどうとかそういうのではなくって…」
ラーシュはもどかし気に頭を掻いた。必死に言葉を選ぼうとしている。そして。
「その……貴女の姿勢が、姿勢というか存在が、僕にはとても美しく思えたんです」
ようやく言葉を探し当てたようで、アデリーンを真っ直ぐに見据えて力強く断言した。
「……は?存在………って大袈裟な」
面と向かって言われたアデリーンも流石に面映ゆくなる。言うに事欠いて、「存在」と来たもんだ。非常に斬新な口説き文句である。
自分の青臭さに気付かず、ラーシュはさらに力説。
「その、一目で分かったんです。貴女は、自分の道を見失わず突き進む人だって。貴女の目を見て、その真っ直ぐさに、そう思ったんです。そんな貴女の強さが、眩しくて…」
ラーシュの直感は、間違ってはいない。確かにアデリーンは、自分の道を突き進む系だ。例え妨害を受けたとしても、例え周囲に迷惑を撒き散らしたとしても、それがどうしたとばかりに進みたい方へ進む足を止めようとはしない。
それを強さと言ってしまうのであれば、彼女は世界最強クラスとも言える。
ラーシュは不意に、ひどく悲しげに目を伏せた。
「僕は……そんな風になれません。いつだって周囲に振り回されて、自分の立ち位置さえも自分の意志で決められない……情けない話ですよね」
皇帝派と貴族派との争いの中で翻弄される自分。心情的には兄に寄り添いたいのに、出自と後ろ盾のせいでそれもままならない自分。
ラーシュの告白は、言外に彼の本心を晒していた。
思いの他真剣で深刻な告白に、アデリーンは気まずい。ふざけたことを抜かすなら辛辣な言葉を投げつけてやろうと思っていたのだが、そんな空気ではない。かと言って、彼の言葉をそのまま受け止めたらここで交際スタートとなってしまいかねない。
結果、黙りこくってしまったアデリーンに気付くとラーシュは、
「変なこと言ってしまいましたね、すみません。あ、けど、それだけじゃないですよ。貴女は本当に綺麗だ。落ち着いた声も素敵だし、振舞いも神秘的で」
沈んだ空気を取りなすように、勢いよく語り出した。
「それに、他のご令嬢と違って僕の地位や権力なんてまるで興味を示さないのも、格好いいです。遊撃士として厳しい世界を生き抜いてきたからなのか揺るぎない自信とか、けど隙の無い立ち居振る舞いとか、だけど本を読む貴女の横顔はとても知的で学者のようだし、そのギャップもまた…」
「ちょ、ちょっとちょっと」
「それから、本で面白い部分があったのかたまに目がキラキラするところとか、あと小首をかしげて頬に手を当ててちょっと考え込むような仕草にあどけなさも感じたりしてそれからそれから…」
「ちょっとちょっとちょっとちょっと!!」
ラーシュの暴走はしばらく止まりそうになかった。アデリーン=バセットを戸惑わせることが出来るあたり、彼もそう卑下するほどではないのかもしれない。




