第二百二十六話 魔王陛下は愚痴りたい。
何か、妙だ。
ルーディア聖教会教皇グリード=ハイデマンは、自分の執務室(仮設)で書類をめくりつつ、思案した。
なお、本来ならばとっくに片付いているような量の書類仕事だが、今日は全然捗らない。その理由は、彼の視線の先。
今日もまた、魔王が陣取っている。
ただそれだけのことなら、グリードは意に介さなかった。サボり癖のある魔王に苦言は呈しつつもそれが目に余るものでなければ容認するし、そうでなければ上手い事言いくるめて魔王のやる気スイッチを押すだけなのだから。
が、今日の魔王はどうも妙なのである。
妙な点とは、二つ。
一つは、魔王が苛立ちを隠していないということ。
現在彼は、来客用の長椅子にお行儀悪く寝そべって肘掛部分に頭をダラーっとのせて、目を閉じている。が、その全身から不機嫌オーラがじわじわと滲み出ていた。
これは、実は非常に珍しいことである。
グリードが知る限り、魔王は激昂することはあっても不機嫌になるということがほとんどない。かつての聖戦に於いて創世神に結構いいように踊らされていたときさえも、それを自虐めいた冗談で包み隠して自分一人で抱え込んでいた。
こんな風に、何も話さないくせに苛ついているアピールをする、というのは彼らしくなかった。
そしてもう一つは、魔王が一人であるということ。
傍には、ヒルデガルダもクウちゃんも、魔王が懇意(?)にしている勇者連中もいない。
彼にとっての癒しが傍にないのであれば、彼がわざわざ地上界のグリードの執務室に来る必要などないはずなのに。
「……リュート、何があったかは知らないが、ずっとそこでむくれていてもどうにもならないのではないかね?」
「…………………んー…」
以上のことからグリードは、魔王が何かに悩んでいて相談したがっていると判断した。
だったらグズグズせずにさっさと打ち明けてしまえ、と彼のような老人は思うのだが、中身は十代少年のままな魔王は変なところで意地を張ったりするところがある。
「卑小な廉族に過ぎない私には、君の抱える重荷を軽くすることは出来ないが、話を聞くくらいは出来るよ」
「…………………んー…」
魔王の声のニュアンスから、そこまで話すのを躊躇っているわけではないようだ。尤も、本気で話すことを厭う場合、魔王はそれを完全に自分の中に隠してしまう。
「そう言えば、世界各地で観測されていた空の亀裂もほとんど消えたようだね。君の尽力のおかげだ、お疲れ様」
「…………………ん」
これは正真正銘の本音であり、そして真実である。
ここしばらくは異変も報告されてはいない。その点に関しては完全に魔王の力によるものなので、グリードとしても称賛を惜しむつもりはない。
が、僅かに微妙に変化した魔王の声に、どうやら彼の悩みの種がそこにあるのだということも分かった。
グリードは、静かに待つ。問いただすときと待つときの区別は案外難しいものだが、幸いこの魔王はなかなか分かりやすい御仁なので大体の最適解は把握している。
しばらく沈黙が続き、執務室にはグリードが書類をめくる音だけが響いた。
やがて、魔王が目を開いた。
天井を見上げたまま、物凄く不機嫌そうな声で、ぽつりと漏らす。
「なんか………上手くいかない」
「…上手く、とは、今君が手掛けていることで?」
グリードの目から見れば、理の修復は実に順調だ。そう簡単なことではないし時間もかかるとは分かっているし魔王もそう言っていたが、それでもこの順調さであれば、そう遠くないうちに世界は完全に安定を取り戻すと思っていたのだが…
しかし、他ならぬ魔王の言うことなので、看過出来ない。
「それは具体的にはどういうことかね?」
「なんか……キリがないって言うか…直しても直してもすぐに変な感じに捻じ曲がるもんだから、何時まで経っても終わらない」
やってもやっても終わらない宿題にうんざりしている子供のような不機嫌さで魔王はぼやき、器用に長椅子の上で寝がえりを打った。次はうつぶせになって、抱き枕代わりのクッションに腕を巻き付ける。
「まさか、修復速度と同じ程度で綻びが進んでいるとかそういう…」
「あ、そういうわけじゃないっぽい」
一瞬青くなったグリードに、魔王は即座に首を振った。もしそれが事実ならば、こんなところでむくれている余裕などありはしない。
「それでは…?」
「んー、説明が微妙に難しいんだけど………グリード、弦楽器ってやったことある?」
何の脈絡もなさそうな質問に、グリードは面食らった。が、とりあえず頷く。
「まぁ、そうだね…フィドルなら昔習わされてたよ。あとはオルガンだけど、あれは弦楽器じゃないね」
「それなら分かると思うけどさ、こう、今俺がやってるのって調音とちょっと似てるわけ」
理の修復と言っても魔王以外にはそれがどのように為されているのか想像もつかない話なのだが、具体例を挙げられると何となく分かる気になるグリードである。
「結構ビミョーな作業でさ、回しすぎて音が高くなったから戻したら次は低くなり過ぎた…みたいな」
「ふむ……言わんとするところは分かるよ」
弦楽器初心者あるあるを持ち出した魔王に、グリードは幼い日の頃を思い出してみた。確かに調音の繊細なペグ回しは慣れないと物凄く手こずった覚えがある。
「で、ようやくピンポイントに合わせられた!って思って手を放したら、ペグが勝手に巻き戻っちゃう、みたいな」
「あーーーー」
「もしくは、せっかく一本合わせたと思ったら、さっき合わせたばっかの他の弦がまたビミョーにくるってたり、とか」
「あーーーー」
うんうん分かる、とグリードは頷いた。それは弦楽器ではよくあることなのだが、問題は理は楽器とは違う、ということ。
狂ったらどうなるか、が桁違いに異なっているということ。
狂ったままの音で奏でられる歪んだ楽の音は、聞き手を不快にさせるだけで済むはずがない。
「しかしリュート、それならば根気よくやっていればいずれ合わせられるんじゃないか?」
必要なのは集中力と忍耐力。求められる程度が実際の調音とは比べ物にならないだろうが、そこは魔王の名に懸けて頑張ってもらいたいものである。
「…そうなんだよ。だから、なんか妙なんだよ。ここまでやってもやってもズレるって、何か他に原因がある気がする」
それは、上手くいかないことの責任転嫁のようにも聞こえる言葉だった。しかし、いくら魔王でもそこまで子供じみた言い訳はしないだろう。
と言うよりも、本来彼は誰に言い訳する必要もないのだから。
「他の原因……理に影響を及ぼす何事かが起こっている…ということかね」
「あくまでもそういう印象を受けてるってだけなんだけどさ。けど不自然さは感じる」
魔王自身にも確信はないらしい。それが彼の気のせいで済むのならばいいのだが……
「そんなことがありうるのかい?つまり、君以外の何者か、或いは何らかの力や現象が、理に影響を与えるなんてことが」
「いや、影響ってだけなら結構よくあることだよ?因果ってのは全部が複雑に絡み合ってるわけだからさ。ただ、それだけなら俺の調整が阻害されるなんてことはないはずだから、やっぱ普通じゃないことが起こってるっぽい」
言いながら両者共、おそらくに同じことを考えている。同じことを、恐れている。
それは、かつて世界を襲った危機。
魔王以外に己の意志で理に干渉する力を持ちうる存在。
「……もしかして、まさかまた御神絡みとかいうんじゃないだろうね?」
「んーーーー…それは………ないと思いたい、けど……ないと断言することも出来ない…かも」
回収し損ねた創世神の聖骸が、まだ世界各地には残っている。それらが、十五年前の欠片たちと同じことを考え同じ道を歩もうとしたならば。
「いや、でも今のところその心配は考えにくい…か。あんときは俺が活性化しちゃったからアルシェの自我やら意識やらも戻ったけど、眠ったままの聖骸ならただの石ころ同然なんだし」
「君が余計なことをしなければ心配はいらない、ということかい?」
「余計なことって………うん、まぁ、そんなとこ。それにアルシェが絡んでるんだったら、もっと影響も大きくなるはず。今のはそれよりもっと、ものすっごいビミョーな感じの変化だから」
とりあえず最悪の事態は避けられそうなことに安堵する両者だが、それならそれで別の理由があるはずだ。
「…となると、何者かの意志が働いた、というよりは自然現象や何らかの出来事が起因して君の理の修復を阻害している、ということかな」
「阻害っていうほどでもないけどな。そんなとこだろうな。どっかで大きな戦争が起こってるとか疫病が流行って沢山人が死んだとか大規模な自然災害のせいとか、けっこうそんなことでも理って歪みがちだから。今までは自然修復作用が働いてたんだろうけどさ」
今までは。今はもう、黙っていて歪んだ理が元に正されることはない。
創世神の消滅から二千年。彼女が世界へ遺した強い加護も、そろそろ失われる頃合いだ。頻発する異変はそのせいである。
再び混沌へと戻ろうとする世界に蓋をする形で覆いかぶさっていた理が歪み、綻び、放置すればいずれ壊れてしまう。そのとき起こるのは、始まりへの回帰。
世界目線で言えば、滅亡というやつである。
「ということは、これからは君が頑張ってくれないといけないわけだね、リュート」
「分かってるよ、だから頑張ってるじゃん。言っとくけど、自分で構築したわけでもない理に手を出すのって、結構面倒なんだからな」
別にグリードは意地悪で言ったわけではないのだが、魔王はちょっぴりむくれてしまった。さては、褒めてもらえないことに拗ねているのか。
魔王がそんな子供じみた真似をするはずないと言うなかれ。この魔王はそんな子供じみた真似を平気でする魔王なのだ。
「それは勿論分かっているよ、君には本当に助けられている。この世界も、私も、彼女らも、君がいてくれるからこそ生を謳歌することが出来ているんだからね」
まぁこれは事実だし感謝していることもまた事実なので素直にそう言ってみたら、魔王は簡単に機嫌を直してくれた。まんざらでもなさそうな顔で。
「んー、いやぁ、相方の不始末だからな、俺がどうにかしなきゃいけないっしょ。魔王もツラいよ、ほんと」
「まぁ、あまり無理をしすぎない程度に頼むよ」
本当にこの魔王は御しやすい。このままおだてて機嫌よく魔界に帰ってもらおうと思ったグリードではあるが、ふと気になってしまった。
「……それでリュート、その…いずれはハルトも今君がしているようなことを担うことになるのかい?」
問われた魔王は、にやけていた顔をさっと曇らせて、思案する。
「んー…いや、どうなんだろう……最初はそのつもりもなくはなかったんだけど………あいつに任せるのはちょっと心許ないっつーか、信頼しきれないっつーか…」
父として息子の能力を疑うのもアレな話だが、しかし重すぎる荷を背負わせたくはないという親心なのだと考えればそれも自然なことだ。
今のハルトは、自分自身のために生きることに一生懸命で、能力的にも精神的にも世界を背負うなどという重責には耐えられまい。
「まだあと何百年かは無理かなー……その間にあいつも少しは成長してくれればいいんだけど」
「そこは心配いらないと思うよ。彼は実際、とても目覚ましい成長を見せてくれているようだし」
マグノリアからの報告だけでもハルトの成長の軌跡ははっきりと分かった。魔王基準での「成長」というのがどのようなものなのかグリードには分からないが、しかしハルトが自分のことを真剣に考えるようになったというのは確かな前進なのだろう。
…が、グリードの太鼓判に魔王はなおも不信顔。
「んーーー…それはまぁ、そうなんだろうけど………あいつだって少しは成長してるんだろうし親としてはそこは嬉しいんだけど……なんつーかあいつ、しっかり考えてるようでなーんにも考えてなかったりしっかり考えてたくせにそれをうっちゃって突拍子もないこと仕出かしたり、しそうな気がしてさー……」
魔王は目覚めたばかりであり、ハルトと過ごした時間はほとんどないと言ってもいい。その性格や詰めの甘さや考え無しの暴走癖を目の当たりにしたことはないはずだが、やはりそこは親子というものだろうか。
或いは、ハルトの性格・人格形成に大きな影響を及ぼした、
「なんかあいつ、変なとこ母親に似てるような気がするんだもん……」
「あぁ……」
暴走超特急姫巫女の持つ危うさもまたハルトに受け継がれているのではないか、との懸念のため…かもしれない。




