第二百十六話 前へ進む。
深く深呼吸して滾る血を鎮めたハルトは、頭の中から余計な思考を排除して駆け出した。
目指すは、異形の魔獣。
魔導が通用しないということは、分かっている。通用しないと言っても上位相当の術式を連続で防ぐことは出来ないであろうことも。
問題は、魔獣に休む間なく上位術式を連続して叩きこめるほどの術者はここにはいないということで、しかしながらハルトは、自分ならばそれも可能だろうと分かっていた。
自分が使えば、低位の術式でさえ上位並みに強化される。
それは魔導オタクにより繰り返し検証されほぼ確定された事実である。
だが、彼はそのつもりで魔獣に向かっているわけではない。
試してみたいことがある。彼はカノッサにそう言った。
そう、彼は試してみたいのだ。自分に、それが可能なのかどうか。自分が、それに値する存在なのかどうか。
意識の底で、父の声を聞いていた。自分の躰を使い、父が星の根源と現世を繋ぐのを感じていた。
それは、神たる存在にのみ赦された所業。他の何者も持つこと能わぬ権限。
ならば…自分は。
その可不可如何で、自分の在り方も決まる。だから彼は、確かめなければならない。
そういった意味では、これは絶好の機会と言えた。多少派手に立ち回っても問題ない戦場で、仮に失敗したとしても周囲の後援が挽回してくれる状況。
……否、不思議と失敗する気はしなかった。
奇妙な確信。息をするのと同じような。或いは、歩き出せば前へ進むのと同じような。
ハルトは知っている。深い深い場所から自分に繋がる道筋を。そこに流れる万物の根源を。世界に語り掛けるための言の葉を。
ハルトがハルトとして形作られたその瞬間に背負うこととなったもの、赦され与えられたものを。
魔獣が、ハルトを見た。双眸に間違いなく恐怖を宿し、鷲の頭が叫ぶように啼いた。
真空の刃を隠した暴風が、ハルトを襲う。
ハルトは、高く跳躍してそれをやり過ごした。目に見えないはずの風なのに、彼には視えるような気がした。
眼下に魔獣を見据えて、ハルトはいつだったかアデリーンにしごかれた魔導レッスンを思い出していた。
要領は、あのときと同じ。
自分を見つめ、自分と世界との繋がりを感じる。
感覚さえ掴めば、もう何も考える必要などなかった。
静謐に身を委ねる。
目を閉じて、意識を閉じて、敢えて何も見ないようにした。聞かないようにした。
自分を世界から遮断させることで、逆に自分と世界との繋がりが…例え彼自身が否定しても決して断たれることのない繋がりが浮き出てくる。
その道を通り、自分に流れ込む根源の力。
それに乗せて、理へと語りかける。
「‘顕現せよ、汝猛きもの…苛烈なる紅’!」
生まれるは、紅玉の灯。
如何なる魔導とも異なる、如何なる自然現象とも異なる、鮮やかな赤。
虚空にぽっと灯った小さな火球。まるで蝋燭の炎と見紛うほどの、爪先ほどの輝き。
魔獣の胸部の人面が最大限に歪み、雄叫びがその口から発せられる。
だが、小さな紅炎は揺らぐことすらなく、ふわりふわりとゆっくり舞い降りた。
見上げる魔獣の、鼻先に。
…直後、小さかった炎は一瞬で激しく増大し、魔獣の全身を包み込んだ。
炎の牢獄に囚われた魔獣は身をよじり翼をはためかせのたうち回り咆哮し、必死になって苦痛から逃れようともがく。
しかしどんなに手を尽くしても、魔獣が己を破滅の運命から救い出すことは叶わない。
燃え盛る劫火に、音はなかった。ただ、魔獣の断末魔の叫びが戦場を震わせる。
炎が燃え上がった直後には絶叫だったそれは、あっという間に小さくなり空気に溶けるように聞こえなくなった。
誰かが、吐息を漏らした。恐怖と恍惚の入り混じった吐息。
その二つの感情は両立することもあるのだと、そこにいる全員が証明していた。
誰もが、動きを止めていた。不可侵の聖域に、己が無力を痛感して。
食い入るようにその光景を見つめる人々の横顔は茫然と、ただただ炎に照らされるばかりだった。
やがて訪れた静寂。
もう、魔獣の姿はない。死骸さえも、驚くことに残骸どころか灰すら残さず、世界から完全にその存在を消滅させていた。
ここにいる戦士たちの目撃がなかったなら、魔獣など最初から存在していなかったと言われても信じてしまいそうなほど。
しかしこの場の全員は間違いなくその光景を見届けていて、自分の目と頭がやや信じられないような表情は見られたものの、互いに顔を見合わせてこれは自分だけの幻覚ではないのだということを確認していた。
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一早く我に返ったのは、マグノリアだった。
地面に降り立ったハルトがそのまま膝をつくのを見て、慌てて駆け寄った。
「…ハルト!」
へたり込むハルトだったが、意識はある。どこかばつの悪そうな顔で、えへへと笑った。
「思ったより…疲れますね、これ」
見れば分かる。基本スペックだけはやたらと規格外で底なしの体力魔力を誇るハルトが、疲労と消耗に顔色を悪くするなんて初めてのことだ。
それだけ、彼の為したことは驚異的だということ。
外傷もないし意識はあるし、とりあえず生命の心配はしなくてもいい…のだろうか。医術の知識以前に魔王子の身体的特徴とかなんて知るはずのないマグノリアには判断出来ない。疲れているだけなら、休ませればいい話なのだが…
ハルトの様子を確認していると、チラホラと自失状態から回復する者も増えてきた。
その中の一人、カノッサが近付いてくる。
心なしか…否、間違いなくハルトに警戒と不審を抱いている。あんなものを見せられたのでは、それも仕方のないことだ。
「………公子、今のは一体…?」
ハルトに問う声も、僅かに責めるような響きを含んでいる。
魔獣を撃滅したのはハルトであり本来なら安堵と感謝を感じていてもおかしくないはずだが、それ以上に…百人規模でかかっても倒せないような超難敵から生き延びた安堵や死者は皆無という奇跡への感謝などよりも…ハルトの行為、彼の為した業に対する懸念の方が大きいということ。
マズい、とマグノリアは思った。
カノッサは理不尽な人物ではないが、自分にも他人にも厳格で白黒はっきりさせたがる傾向が強い。責任感も勿論とても強いので、自分の管理下で自分に把握できていない事柄については、徹底的に追及しようとする。
…というのはレナートから聞かされている総長評なのだが、彼女の手腕や評判を聞くにそれは真実なのだろう。世界中に広がるギルドの勢力を一つに纏め上げようとするならば、いい加減なやり方や甘い考えではとてもやっていけない。
権限が大きくなればなるほど、責任もそれに見合って増大する。束ねるものが大きいほど、重圧も然り。それらを守るために非情になることは、責任者の義務のようなもの。
ハルトの使ったのは、得能でも魔導でもない。長らく第一線で戦ってきたカノッサですら、見たことのないものだろう。
魔獣の、術式解除が効かなかったことといい。
聞き慣れぬ言霊といい。
痕跡すら残さず対象を消し去るという威力(性質と言い換えた方が適切かもしれない)といい。
全てが、規格外だった。常識外れだった。
ハルトのそれらに慣れているマグノリアたちならばまだ納得もいくかもしれなかったが、カノッサはそうではない。
何しろあれは…マグノリアは確信しているが…魔王の力、魔王の権限だ。廉族に過ぎないカノッサが理解出来ないのは当然のこと。皆が恐怖し、警戒するのは当然のこと。
さてどうするか。
まさか彼女にまで、ハルトの正体を明かすわけにはいかない。
実のところ、今までのあれやこれやで彼女が知ることとなった「真実」について、誰からも口止めはされていなかったりする。
魔王はおろか、教皇からさえも。
しかし、止められていないからといってほいほいと吹聴出来るような話ではなかった。迂闊なことをすれば、間違いなく混乱が起こる。
マグノリアの本音としては、レナートにならば打ち明けてもいいのではないか、という気がしている。
彼のことならばよく知っているし、自分のことを信用してくれていることも分かっている。堅物なようで柔軟な思考の持ち主だということも、理想より現実を重視する人物だということも。
全てを打ち明けて、魔王にもハルトにも害はないのだと、聖教会の偽りも世界平和のためには仕方のないことだったのだときちんと説明すれば、レナートなら受け容れてくれるだろう。
だが…カノッサは?
マグノリアは、カノッサのことをほとんど知らない。ただレナートから聞かされたことと、噂と、ほんの少しばかり会話した印象だけしかない。
その中には、あまりに真っ直ぐ過ぎてパーティーメンバーともよく衝突していた、という情報もあった。因みに、そのメンバーとは若き頃のグリード=ハイデマンだったりする。
他人から聞いた話だけを元に判断するのは尚早だとも分かっているが、噂だって重要な情報だ。
「見たことのない技だ……君はあれを、どこで学んだ?いや、そもそもあれは、人の身に可能なことなのか…?」
間違いなく今回の戦闘での最大の功労者はハルトであるに拘わらず、カノッサは彼への不信を隠そうともしていない。
手練れの戦士であれば、目の前で起こった現象についてその理屈は分からないまでも、それが一体どういう性質に分類されるかくらいは分かるものである。
そしてカノッサはハルトのあれを、「なんか知らんけどヤバすぎるもの」フォルダに振り分けたようだ。
ここは一旦とりあえず恍けておいて、後でグリードを交えて説明するのが最善だとマグノリアは思った。きっとあの教皇ならば、その場でなんとでも言い繕ってくれるだろう…他力本願だがそもそもは彼にも責任の一端はあるのだからこのくらいは許してもらいたい。
問題は、この場で自分の言葉をどれだけカノッサが聞き入れてくれるか、なのだが…
マグノリアの心配と不安をよそにハルトは、いつものようにへらへらほけー、と覇気のない笑みを浮かべていた。




