第二百十三話 襲来
使節団到着から、三日目。
調印式は、厳粛な空気の下で始まった。
大きな行事と言っても、一般臣民が観覧するような類のものではない。なので参加者は最小限に抑えられ、その分警備もしやすかろう。
警備を主に担うのは、帝国兵だ。使節団の護衛として同行した教会騎士とサイーア公国兵もいるが、流石に調印式の会場全体をカバーするほどの人数はいない。
各国の宣誓が読み上げられ、帝国皇帝とセドリック公子が並んで誓約書にサインする。象徴的な行為ではあるが、実際に重要になってくるのは明日以降の日程だ。
…なので、聖教会側の最前列に並んでいるハルトは、ほけーとその光景を見ていた。どうせやることは何もない。教皇からは、そしてマグノリアからも、とにかく居眠りは厳禁・欠伸はバレないように隠せばそれでいい、と言いつけられているのでそれを真面目に守って表面上は大真面目を取り繕っていた。
しかしお喋り出来る雰囲気ではないしやることはないし調印式そのものも退屈だし、いい加減飽き飽きしていたのだが。
まさかハルトの退屈を紛らわせてやろうなどと何処かの誰かが考えた…わけではないだろうが、結果的に彼の退屈は大いに紛れることとなった。
何故ならば。
二人の代表者がサインを終え、舞台の上で誓約書を掲げ参列者たちに国交樹立が今まさになされたことを示しているときだった。
「……ん、今、何か聞こえなかったか…?」
「何かって…何が?」
ハルトのすぐ後ろに並んでいた公国の貴族が、辺りをキョロキョロと見回して呟き、その呟きを拾った隣の貴族も彼に倣った。
ハルトは気付かなかったので、誰かが思わず歓声でも上げたのかと思ったのだが、しかし気付けば公国側だけでなく帝国側でも数人が、怪訝そうな顔をしていた。
壇上の皇帝とセドリック公子はそんな参列者の不自然な反応に気付いて顔を見合わせ、そしてかなり後列に並んでいたマグノリア(彼女は使節団の中で序列が低いので最後尾に並ばされていたのだ)が他の参列者を押し退け掻き分けハルトのところへ。
「ハルト!」
「師匠?」
「なんか来るぞ、警戒しろ!」
マグノリアが叫んだその瞬間、空気を震わせて鋭く重い咆哮が轟いた。
鼓膜を破らんばかりの大音量もさることながら、生理的に嫌悪感をもよおす不気味な声色に、その場にいた多くは竦み上がった。
即座に動いたのは、帝国の警備兵たちと、使節団に同行した護衛兵たち。怯むことなく冷静に、護衛対象の周りを取り囲んで警戒態勢を取る。
「…森だ!」
誰かが、叫んだ。その叫びにつられたわけではないだろうが、鳥の群れが慌てふためいて木々から飛び立つのが見えた。
そこに現れたのは…
「な、なんだあれ…」
「魔獣…なのか?」
「あんなの、見たことがないぞ!」
戸惑いの声が漏れるほど、奇妙な風体の魔獣だった。
頭が三つ。獅子と、熊と、鷲。尾は蛇。前足が獣で、後ろ足は猛禽。背中には、二対の翼。
「あれって……」
「ちょっと、なんか見覚えあるんですけど」
唖然とするマグノリアに、アデリーンもいつの間にか近くに来ていて言った。
そう、彼女らはそれと酷似した魔獣を、かつて目撃し…戦ってもいる。
辺境の村トーミオで、密かに神として崇められていた…或いは神として崇められていたものと混同された魔獣。
ただし、完全に一致してはいない。
最大の違いは、その大きさ。以前戦った個体の、優に三倍はあるだろうか。巨神狼や地竜ほどではないが、魔獣として最大級のサイズだ。
また、全身から幾本もの触手が生え蠢いている。
そして特筆すべきは…非常に不気味な、魔獣の胸部に浮き出た顔。地獄の責め苦に苦悶するかのような歪んだ表情のそれは、まるで人間のものに見える。
「……なんか、すっごく気持ち悪いんだけど、あれ」
「気持ち悪いで済めばいいけどな…」
アデリーンとマグノリアも、武器を構える。今回彼女らの仕事はハルトの護衛なわけで、使節団全体を守るのは別の護衛部隊の仕事なのだが、傍観している余裕はなさそうに感じたのだ。
城の裏手の森から現れた魔獣は、すさまじい勢いで調印式の会場となった広場へと向かってくる。木々を薙ぎ倒し、城壁を破壊し、それはさながら嵐のよう。
壇上にいた皇帝とセドリック公子は、お付きの者に誘導されて即座に避難した。それ以外の、戦闘を担わない使節団員たちも、帝国側の誘導に従って城へと向かう。
残ったのは、ハルトたちのように使節団の中でも戦うことの出来る者たちと、同じく帝国側の参列者で腕に自信のある者たち。
セドリックは側役に止められながらも参戦しようと何やら喚いていたが、四、五人がかりで無理矢理引きずられていった。彼の戦力は頼もしいが、流石に王太子として参加している貴賓中の貴賓に戦わせるわけにもいかない。
魔獣が到達するより前に、帝国の魔導兵が詠唱を始めていた。イントネーションが不思議なハーモニーを奏でている。連結術式だ。
連結術式とは、魔力や技能の不足を補うために編み出された技術である。術式構築に必要な各過程を別々に担うことで、一人では構築不可能な高難度・高威力の魔導を発動させることが出来るのだ。
各員のチームワークが欠かせないことと詠唱に時間がかかることが欠点だが、それらをカバー出来る軍隊での運用は、戦争などで大いに役立つ。
そして詠唱を始めていたのは帝国兵だけではなかった。
遊撃士ギルド連盟、カノッサ総長が前へ進み出る。その後ろには、護衛の魔導士部隊。彼女は、帝国兵の詠唱のイントネーションからそれが攻撃術式であるということを察し、護衛兵たちには足止めと攪乱のための術式を命じていたのだ。
「放て!」
彼女の号令と共に、いくつもの魔導が放たれる。【流星炎】、【風魔弾】、【水牢】。どれも、ダメージを与えることよりも足止めを目的とした術式ばかりだ。威力はそれほど高くないが、発動速度に優れていて牽制にはもってこい。
迫りくる魔導に、魔獣は脚を止めた。少し身を丸めるようにして……いきなり、翼をはためかせた。
魔獣に到達しようとしていた降りしきる炎も風の礫も水の鎖も、巻き起こった暴風に絡めとられて霧散した。
「…げ、前の奴よりヤバくないか?」
「そりゃサイズ見るだけでも充分にヤバいって分かるでしょ」
以前にやりあった個体は、中位術式【地牢縛鎖】でも(一時的には)動きを止めることが出来たのだが…やはり目の前のあれは、それの上位種…というわけか。
「師匠、アデルさん、あれ知ってるんですか?」
無邪気にハルトが問いかけてきた。
「へ?知ってるかってお前、あんときお前だってあそこに…………って、ああ、そっか」
「…………?」
トーミオ村での一件の際、確かにハルトもあの場にいた。というか、あの魔獣を倒したのはハルトである。
…否、ハルトであると思っていたが、あれは………そうではなかった、のだろう。
「あー、そういうことね」
「どうりでヤバいと思ったわけだ。そりゃそうだよなー」
今思えば、あれはハルトでなくハルトの躰を使って一時的に顕現していた魔王だったのだろう。どうりで、あんなに強力で厄介な魔獣をあっさりと消してしまったわけだ。
「……てことは、ハルトにはあんな真似できないってことよね?」
「そりゃ……そうだろ。流石にそこまで無茶を言うつもりはないよ」
「あのー…さっきから二人して、何を話してるんですか?仲間外れにしないでくださいよぅ」
ハルトがいじけた。二人の話していることが全く分からないのだ。眠っていたのだから仕方のないことだが。
「あれがハルトの仕業じゃないとすると、今回もあれをアテにするのは不可能……だよなやっぱり」
「まぁ、これだけ戦力いるんだしなんとかなるでしょ」
二人はそのまま、魔獣の方へ向かう。ハルトは一人、置いてけぼりにされて何が何だか分からないまま不貞腐れていた。
またぞろトラブル発生です。
あと、調印式とかって実際どういうことやるのか分かんない…




