第二百十話 猫被りには時間制限と回数制限があるような気がする。
ロゼ・マリスを出発した使節団は、予定されていた日程でグラン=ヴェル帝国へ到着した。
なにぶん歴史の転換点ともなりうる一大イベントでもある今回の国交樹立なので、様々な妨害工作の可能性も考慮し、総勢三十余名の使節団に対し警備兵の数はその二倍近かった。
そのおかげもあってか、道中は何事もなく幸先の良いスタートが切れたのである。
到着初日は、歓迎の宴と夜会にあてられる。メインイベントの調印式は三日目で、四日目から実務者協議の始まりだ。全日程は二週間を予定している。
初めて帝国に足を踏み入れたほとんどの使節団員たちは、想像以上に洗練された帝国の発展具合に度肝を抜かれていた。
おそらく、本音では帝国を孤立した未開の野蛮な国、と思い込んでいた者も少なくないのだろう。だがその思い違いも、実際に整備され発達した社会インフラや生活水準を目の当たりにして訂正せざるを得なかった。
特に、もう冬に入ったというのに常春のような穏やかさに包まれている帝都ヴァシリーサの気候調節システムには皆が興味津々だった。もしこの技術を自国へ持ち帰れたならば、生産能力の大幅な向上につながることは間違いない。
そして宴が始まった。
ハルトも、そして皇帝も、見事に初対面を演じている。今回、皇帝と口裏を合わせていなかったハルトは少しだけ心配だったのだが、流石に一国の皇帝だけあってきちんと分かっていた。ハルトを前にして魔王がどうたら言い出すことは決してない。
尤も…どこか近寄りがたい厳格な雰囲気を醸し出している皇帝なのに、サクラーヴァ家の嫡男と会話するときだけはやけに表情が柔らかい…と気付いた者もいなくはなかったが、しかし気品がありながらも純朴で人懐っこいハルトの笑顔にほだされるのは何もマグノリアに限ったことではなかったので、さもありなん…と妙な感心をされるだけで済んでいた。
今日は初日なので、堅苦しい話は持ち出されない。
見方を変えればジャブの応酬と見えなくもないが、使節団も帝国の家臣団もそのあたり弁えている面々ばかりなので、非常に和やかな空気が広間に充満していた。
…とは言え、この流れはハルトにとって退屈なものである。
猫被りには慣れているハルトではあるが、彼は台本どおりに振舞うことしか出来ない。あちらこちらで交わされる当り障りのないお喋りに次第についていくことが出来なくなって(ネタ切れである)、とうとう手持無沙汰になってしまった。猫を被るのに飽き飽きした、ともいえる。
誰か話し相手はいないかと会場を見渡したハルトは、マグノリアの姿を見付けた。…が、彼女は遊撃士ギルドの総長とかいう女性と一緒に話し込んでいて、さらにその横にはハルトの知らない男性もいて、なんだか話しかけにくい。
ではアデリーンは何処か…と探してみたら、部屋の隅に設けられた休憩スペース(カーテンで区切ってある)にいた。めちゃくちゃ居心地悪そうに、グッタリと長椅子に寝そべってピクリともしない。
なんだかどす黒いオーラがその周りに立ちこめていそうだったので、アデリーンに話しかけるのもやめた。
あと彼が猫を被らずに話せるのはセドリックくらいなのだが……やっぱり使節団の総責任者だけあって、皇帝を始め帝国のお偉方と談笑してる。そんな中にまた猫を被って突撃するのは億劫だった。
やることがないので外に出て庭園でも散歩しようかなとハルトが思ったとき(いくら猫を被ってもこの辺がハルトの限界である)、話しかけてくる人物があった。
「やあ、貴方がハルト=サクラーヴァ公子…?」
「………はい?」
話しかけてきたのは、青みがかった黒髪に浅葱の瞳の男性。年齢は、十代後半から二十代前半といったところ。屈託のない人好きのする笑みを浮かべている。
面識のない相手だ。使節団の一員ではない。かなり格式の高い衣装を身に着けていることから、帝国でもかなりの地位にある人物なのだろう。
ハルトが反応に困っていると、相手はしまった、という風に肩を竦めた。仕草にも愛嬌がある。
「これは失礼。僕…じゃない、私はラーシュ=エーリク=ヴァシリュー。よろしく」
「え、あ…はい、ハルト=サクラーヴァです。よろしくお願いします………ヴァシリューって…」
相手は自分のことを知っているのだからわざわざ自己紹介する必要なんてないはずなのに思わず名乗り返してしまったハルトは、相手の名前に聞き覚えがあることに気付いた。
ラーシュ=エーリクは、ハルトの疑問にすぐさま答えた。
「ああ、うん。これでも一応、帝国皇家の一員なんだ。……ま、ガラじゃないけど」
アハハ、と気さくに笑う様は確かに皇族というよりは気のいい若者だ。場にそぐわないカジュアルな雰囲気が、堅苦しい空気に辟易としていたハルトには新鮮な空気のように感じられた。
「皇族…ってことは、皇帝陛下のご家族……ですか?」
「ああ、うん。腹違いの兄弟ってやつだね」
「………………え!」
ラーシュは、ハルトの反応の理由を勘違いして笑った。
「やだなぁ、そんなに気負わないでほしいな!皇弟だって国に仕える臣下の一人さ」
「……え、あ、ああ、そう…ですよね」
実際ハルトは、相手の位の高さに驚いたわけではない。
彼は、以前に聞いた帝国のお家事情を思い出していた。
皇帝と、貴族派の対立。そして貴族派の中心でありトップに立つのは皇弟である…ということを。
であるならば、目の前のこの青年が皇帝と対立し水面下で様々な衝突を繰り返し虎視眈々と玉座を狙う皇弟、ということか……いやいやそれにしても。
ハルトは改めて、ラーシュの顔をまじまじと見つめる。見つめられたラーシュが思わず赤面してしまうくらいにまじまじと。
…どうも、思ってたのと違う。
話を聞いてハルトが想像した皇弟は、もっと年上でもっと腹黒そうでもっと冷酷そうな、要するに嫌なオッサンだったわけだが、ラーシュには何一つ当てはまらない…ように見える。
カール=ヨアン皇帝は年齢不詳の外見をしているが、それでも両者には十以上の年の差がありそう。でもって、爽やか系イケメンのラーシュには、腹黒い陰謀とかドロドロの愛憎劇とかが、全く似合わない。
それとも、別の兄弟のことだろうか。皇帝には弟が一人きりとは聞いていないし、ラーシュとは別の弟がカール=ヨアンを蹴落とそうとしている…とか。
「えっと……年が離れた兄弟なんですね」
「そうだね、兄上が皇位に就かれたとき、僕はまだ十歳かそこらだったからね」
なるほど十歳差。ならば、その間にも他の兄弟がいたっておかしくない。
「ラーシュ…殿下には」
「ああ、殿下とか要らないよ。僕、そういう堅苦しいの苦手なんだよね。呼び捨てでいいって」
「え……と、じゃあ、ラーシュには、皇帝陛下の他にお兄さんっているの?」
呼び捨てでいい、と言われてすぐに応じ、しかも敬語まで取っ払うハルトはやっぱり猫を被り忘れている。普通、皇族から「呼び捨てで」とか言われてそのとおりにする奴はいない。飲み会の「無礼講」と同じくらいのレベルで鵜呑みにはしない方がいい。
…が、ラーシュ=エーリクはハルトの対応が寧ろ心地よかったようだ。表情がさらに明るく、柔らかくなる。
「え、他に?……うん、まぁ、いたんだけどね、昔は」
何やら意味ありげな表現。しかしあっけらかんとした口調だったものだから、ハルトは深く考えずにそこに突っ込んでいく。
「昔?どういうこと?」
「んー、ほら、兄上って十年前の武装蜂起で皇帝になったじゃん?そのときにね、他の皇位継承者はほとんど粛清されちゃってんの。僕はまぁ、当時まだ子供だったってことでお目こぼし貰ったんだけどさ」
「あ、そうなんだ」
けっこう剣呑な話を聞かされたのに「そうなんだ」で終わらせるハルトの無神経さにも、ラーシュが腹を立てる様子はない。
「そうなのさ。だから、兄上と僕は二人きりの肉親ってわけだね」
「兄弟っていいね。ボクのしん…知り合いにも腹違いの兄弟がいるんだけど、すっごく仲がいいんだよ」
兄弟と言えばマウレ兄弟。腹違い(しかも魔族と半魔族)でずっと離れて暮らしていたのに魔王に刃を向けるほどに兄弟愛を拗らせているあの二人の仲の良さは、魔界でも有名だ。
「へー、それは…羨ましいな。僕の場合、兄弟っていってもそれ以前に皇帝と臣下って立場の方が大きいからさ、年も離れてるし…」
「年齢なんて関係ないんじゃない?ラーシュが仲良くしたいんなら、皇帝陛下にそう言ってみればいいじゃないか」
淋しげな表情を見せたラーシュは、兄を慕っているのだろうか。
ハルトの知るカール=ヨアン皇帝は悪い人ではないので(あくまでハルトの知る限りでは)、話せば分かるのではないかとラーシュを励ましてみる。
「兄上は、聞き入れてくれるかな?」
「大丈夫だよ、兄弟なんで………………ってそうじゃなくて!」
「………?」
危うく兄弟の仲を取り持つところだった。いや、別にそれは悪いことではないのだが、ハルトが気にしていたこととは違う。
皇帝には現在、ラーシュ=エーリク以外に肉親がいない。
ということは、則ち……
やっぱりラーシュが、皇帝と派閥争いで敵対している皇弟、ということになる。
皇帝に敵意を持っているようには見えないのだが、内心では違うのだろうか。
「え…やっぱり、無理なのかな…兄上にとって俺は、ただの臣下でしかないのかな」
「え、あ、そうじゃなくて!そういうことじゃなくて!!」
しょぼーんとするラーシュを慌てて慰めるハルトには、やはり彼が皇帝を排除し自分が取って代わろうと画策しているとは思えない。
が、皇帝派と貴族派の対立は犯罪組織まで巻き込んだ根深いものであって。
王位争いとは完全に無縁なハルトには、そこに渦巻く複雑怪奇な事情を理解することは難しかった。
新キャラ出してみました。さてどう使おうか…




