第二百二話 オイディプスの解放と旅立ち
ハルトが魔界に帰って、一週間が経った。
魔王とは、一度話したきりだ。それからすぐ父は王城の地下にある謎の装置らしきものの中に籠ってしまった。
父はそれを、“天の眼地の手”と呼んでいた。万物の霊素を観測する装置…らしい。
世界を巡る霊素の流れを観測し、分析し、その場から修正を試みるのだという。
聞かされても、ハルトにはまったくさっぱり分からなかった。
霊素を観測したからって何が分かるのかも、どうやって乱れ歪んだ理を修正するのかも。
ただ、魔王だからそれが可能なのだ。そんなことしか言えない自分はやはり、魔王の後継として不完全な気がする。
それは今後の成長で挽回できるような穴なのだろうか。それとも、根本的に本質的に、自分には欠けているものなのか。
地下空間で、父の籠る“天の眼地の手”をボーっと眺めていた。部屋の隅に、体育座りで。
あれから、どうしたいのかと父が再びハルトに訊ねることはなかった。
もしかしたら、煮え切らない息子に愛想を尽かしたのかもしれない。
あれからずっと、考え続けてきた。どうすれば一番後悔が少ないか。レオニールにも、マグノリアにも訊ねずに、自分一人で考え続けた。
このことに関してだけは、誰の手も借りず意見も聞かず、自分だけで決めなくてはならないと感じたから。
あるべき姿と、ありたい姿と。
どちらを優先すべきかを考えて、考えて、考え続けて、ハルトは答えを選んだ。
本当は答えなんて最初から決まっていて、決めたのは覚悟なのかもしれなかった。
立ち上がり、“天の眼地の手”のところまで歩いていき、外殻にそっと手を触れる。内部にいる父は別に眠っているわけではないが、今は意識を星の最奥部にまで潜らせていて、こちら側にいるハルトのことは認識していない。
それが分かっているからか、
「……それじゃあ父上、行ってきます」
案外すんなりと、言葉が出てきた。
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「おう、腹は決まったか?」
師匠は、そう言っていつもの野性味に溢れた、屈託のない笑みを見せた。
ハルトはまだ何も告げてはいなかったのだけれども、マグノリアも、アデリーンも、セドリックももう分かっているようだった。
だからハルトも、余計な説明や言い訳はしなかった。
「……はい!」
ただ、力強く頷くだけでよかった。
ハルトがグダグダと考え込んでいる間に、全員の準備はもう完了しているようだった。ならば長居は無用と、ハルトを先頭に部屋を出る。
いつかも通った廊下、裏口に、隠された扉。あのときと同じ目的で同じことをしているはずなのに、ハルトの心持ちは全然違った。
肝心の目的…メルセデスに逢いたいという望みさえ、言葉にしてしまえば同じなのに今のそれはあの頃とは別物に思える。
それは何故だろう。彼の後ろにマグノリアがいて、アデリーンがいて、セドリックがいて、そしてクウちゃんがキュッと手を握っていてくれるから、だろうか。
あのときのような、地に足のついていない奇妙な浮遊感はない。
自分は此処にいる。そして、どこにでも行ける。そう思えることが、本当の自由なのだと気付いた。
出自も、血筋も、肩書も関係ない、自分の帰る場所を見付けて初めて、彼は旅立つことが出来る。
そう、だからこれは、もう家出ではなく旅立ちなのだ。
裏手の城壁、記憶を辿りペタペタやって再び扉が開く。どうしてギーヴレイはこの隠し通路をそのまま放置していたのだろう。何か、思うところがあったのだろうか。
ぽっかりと空いた隠し通路から、城の外に広がる森へと足を踏み出す…その前に。
ふとハルトは、後ろを振り返った。
小さな黒猫が、お行儀よく座っていた。
尻尾をゆらゆらさせて、今まさに城を出ようとしているハルトたちをまるで見送るかのように。
もう、自分はいなくても大丈夫に違いないと、太鼓判を押してくれているかのように。
「んなおーん」
ネコは、一声だけ高く鳴くと、踵を返して夜の闇へと戻っていった。
「……行ってきます!」
心強いエールに力づけられ、心強いパーティーを引き連れて、ハルトは千人力な気分で城を出た。
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意気揚々と森を往く魔王子と、そのパーティーメンバー。
彼らを遠くから窺う影が一つあった。
相変わらず姿も気配も消すのが下手くそで、夜の森の中で不審者感丸出しだった。
その人影は、熱い眼差しに歓喜の色を溢れんばかりに湛え、ひたすらハルトの背中に粘着質の視線を送り続けていた。
ハルトはマザコンじゃないので正確にはオイディプスじゃありませんけどね。
あと、何故かレオニールが再びストーカー化…?




