第百九十六話 王様ってのも大変だけどそれを理解出来ないのが愚君ってやつなのかもしれない。
マグノリアは、魔界のことを誤解していた。
いや、それは彼女に限ったことではない。世界の成り立ちからして魔界は万物の澱のようなものであり、創世神に見捨てられた地。祝福を受けた天界や庇護された地上界とは異なり、そこは荒れ果てた不毛の大地に赤錆びた空、本能のままに振舞う無秩序な魔族たちが日々殺し合う地獄であると、地上界の人々は教えられる。
歴史書で、教会の説法で、戯曲で、繰り返し聞かされることにより強化された先入観はそうそう簡単に覆りはしない。
覆るとしたら……実態を目の当たりにしたとき、くらいだろう。
実際に足を踏み入れてみれば、魔界も地上界とそう大差はなかった。
勿論、多少の違いはある。空は…心なしかくすんだような色をしているし、やけに空気が重く感じられる。大気中の霊素が地上界より濃いためだとアデリーンが解説してくれた。
しかし少なくとも、魔王の居城がある魔都イルディスは荒れ果てた不毛の地ではなく、非常に高度に発展した都市だった。街並みも整備されていて治安も良さそう。そこには、秩序があった。あちらこちらで出合い頭に殺し合いが起こっているような気配はなかった。
ふと、自分たちと魔族との違いは何なのだろう、とマグノリアは思った。
瞳の…虹彩の形。角や翼の有無。保持する魔力の量。肉体の頑健さ。信仰の対象。
しかし外見の違いは廉族同士であってもあることで、魔力や体力にしても然り。信仰の対象は確かに違うが、聖戦の真実を知ってしまった今、それは実は大したことではないのだと気付いてしまった。
「マギー、何ボーっとしてんのよ」
考え込んでいたら、アデリーンにつつかれた。今彼女らは、魔王城内の客間に通されている。案内役が来るまでは大人しくしていてくれと言われ、アデリーンはウズウズしながら部屋の中を行ったり来たり。興味のあること以外は深く考えようとしない彼女が羨ましい。
「ん、いや……別に」
「それにしてもさ、魔界じゃ魔王サマってほんっと好かれてんのね」
「好かれて…ていうレベルじゃないだろ。あれはもう崇拝を通り越して妄信だよ」
帰還直後の魔王を迎える魔族たちの様子は、傍から見ていて異常なくらいのボルテージだった。
主君たる魔王が目覚めて帰ってきてくれたのだから喜ぶのは当然だが、大仰な賛辞と礼賛と崇敬に、魔王本人もどこか決まり悪そうな顔をしていたのに気付いた者はどれほどいたのだろうか。
魔王の為人を知ってしまった今、魔族たちの態度に違和感を抱いてしまう。彼らの視線は…その焦点は、魔王そのものとは少しずれたところに合わせられているような気がしてならない。
目の前の魔王ではなく、その向こうに自分たちで作り上げた魔王という偶像に向けられているような。
そのずれた視線は、ハルトにも向けられていたのだろうか。だとすれば、彼が魔界を逃げ出したくなる気持ちもよく分かる。
魔王は息子を連れ帰りはしたが、このまま魔界に置いておくつもりだろうか。ハルトが魔王の息子であり王族として背負わなければならないことがあるのならそれもやむなしだが、出来ることならハルトに好きな道を選ばせてやりたい。
そして選べるのであれば彼は魔界(と父親)よりも自分のもとにいることを選ぶのだろうと思う程度に、マグノリアは自信を持っていた。
「妄信…か。そりゃそうだろーな。魔族連中にしてみりゃ、創世神が捨てる神なら魔王は拾う神、だろ?盲目的な崇拝が暴走することだってあるだろうよ。…ま、暴走する民衆ほど王にとって厄介なものはないけどな」
セドリックの懸念は、地上界にも共通するものである。
実体のない行き過ぎた思いは、ある一点を境に全く逆のベクトルへ舵を切ることがままある。そしてそれを制御出来ずに滅びていった王朝は枚挙に暇ない。
「…ま、魔王なら民衆なんて力づくでどうとでも出来るよな」
「後のことを考えなければ、な」
しかしそれをした時点で、王は王たる所以を失うことになる。
「なんか……王様ってのも大変だよな」
「ちょっと!!」
マグノリアとセドリックがしみじみしていると、アデリーンが切れた。
「そんな小難しい話はどうでもいいのよ!案内役ってのはまだ来ないの?もう私、一人で城内探検行っちゃうわよ!魔王サマだって城内は自由にしていいって言ってたんだし!!」
そう言いながら、ドアの方へずんずんと。慌ててマグノリアは押しとどめた。
「ちょっと待てって!いくら自由にって言われてても、アタシらは客人扱いだぞ?そんな不作法な真似はやめといた方が…」
「何よマギー、アンタ作法とか言うガラじゃないでしょ」
「ガラとかガラじゃないとかいう話じゃなくて!」
魔族の中には地上界…廉族に敵意を持つ者も少なくないと、下手をすると問答無用で襲われる可能性もあると、事前に聞かされていた。
魔王はそういうことのないよう命令を徹底させると約束してもくれたが、その言葉を鵜呑みにするにはここは彼女らにとってアウェー過ぎる。
「とにかくもう少し待ってろって。つーかアデルお前、城内で何するつもりだよ?」
「そんなの決まってるじゃない!そこいらの魔族にちょびっと血液とか体組し」
「それ案内役関係なくダメだからな!?」
例え敵意を持っていなくても、初対面の人間に血やら体組織を寄越せと言われて警戒しない者はいない。というか不審者認定間違いなしだ。
「え、何でよケチ。っていうか何でアンタがそんなこと勝手に決めるのよ」
「アタシが悪いみたいに言うな!相手に聞いたって絶対ダメっていうからな!?」
なんでかアデリーンは、マグノリアの方がおかしいような物言いをする。自分は理不尽な目にあっている…みたいな。
マグノリアとしてはものすっごく心外だ。
…と、そこにノックの音。
今か今かと待ち続けていた案内役がようやく来てくれたのだと、飛び跳ねるようにしてアデリーンが真っ先に扉へ向かう。普段は腰が重いくせにこういうときだけフットワークが軽い。
「はいはーい、案内役の人かしら?ちょっと血液と髪の毛か爪をひとかけら貰ってもいいかしら?」
「おい、バカアデル!!」
扉を開けながら、ドサクサ紛れに自分の要求を訪問者にぶつけるアデリーン。と、慌てるマグノリア&セドリック。
失礼極まりない要求に、案内役が怒り狂ったらどうしよう…と身構える二人だったが。
「…申し訳ありませんが、それは出来ないのですよ。我が身の全ては魔王陛下の所有物ですので」
穏やかな声と口調、柔和な笑顔で現れた青年に、怒りや敵意といったものは皆無だった。
あまりの反応の薄さに、トンデモ要求をぶちかましたアデリーン本人さえも肩透かしを食らったみたいにポカンとしている。
黒い法衣を着た、痩身の青年だった。人好きのする笑みを浮かべているが、大人しめの顔の造りのせいか今一つ印象に欠ける。ニコニコしている様は、こちらに好意的であると思われるのだが……
「申し遅れました、私、皆さま方の案内役兼護衛を仰せつかりました、エルネスト=マウレと申します。皆様が魔界にいらっしゃる間、身の回りのことは私にお任せください」
「それじゃ、一滴でいいから血液…」
「ですからそれは出来かねます。お望みでしたら後ほど、魔獣の闊歩する峡谷へとご案内いたしますのでそれで我慢していただけますか?」
しつこいアデリーンへの提案には、悪意がこもっていなくもない。
「……ん、マウレ?っつーとアンタ、ルガイアの……」
「はい、ルガイア=マウレは私の兄です」
名前に聞き覚えがあると思ったら、やはりそうだったか。
だからなのだろうか、なんだか初めて会うような感じがしないのは。
しかし……既視感にしては、ルガイアとエルネストは似ていない。
厳格で冷たい風貌のイケメンな兄に対し、弟は地味顔で柔和。兄弟だったら顔形は別として雰囲気くらいは似てくるものとマグノリアは思うのだが……
「どうかなさいましたか?」
マグノリアがマジマジと見つめてくるのに気付き、エルネストが尋ねた。
「んー……いや、えっと…………どっかで会ったことあるかなーって………」
「そうですか?私、こんな地味な外見なものでよく言われるんですよ。どこかで見たような顔だって」
シレっと返すエルネストに、マグノリアもそんなものかと思い直す。
「……そうか…まぁそうだよな、魔族の知り合いなんてそうそういないし」
「そんなことより!そんなことより!!何処、何処を案内してもらえるのかしら?あと血液は?」
しかしやっぱり癪然とせず首を傾げたままのマグノリアを押しやって、アデリーンが挙手をしながら叫んだ。
「ひとまず、観光は後回しにしていただけますか?先に皆さま方を陛下のところへご案内いたします。あと、血液はダメですってば」
しつこいアデリーンをサラリと躱し、エルネストはにっこりと笑った。
その笑顔に何やら不穏なものが見え隠れするような気がしたのは、マグノリアの錯覚…なのかもしれない。
決して名君とは言えないのに愛されてるここの魔王は幸せ者だと思います。




