第百八十八話 王の帰還
光が、まるで悲鳴を上げているかの如く激しく揺れた。それは、氷晶の断末魔か。
膨大な力を受け止めきれなくなった白銀水晶が、とうとう限界を迎えた。乾いた音と共に、大きく亀裂が走る。
氷河のように崩れ落ちていく氷晶の塊。その中で、魔王の器だったそれが露わになった。
すべきことは、これで終わりではない。それはまだ、只の虚ろな容れ物に過ぎない。
ハルトは、高負荷のために薄れつつある意識を必死に繋ぎ止め、懐から先ほどヴォーノに貰った小瓶を取り出し……
「これでダメなら…覚醒君口に突っ込んでやるからな!」
中身をそれに、ぶちまけた。
小瓶の中身……神露。“星”の奥底を流れる高純度の霊素をさらに限界まで濃縮させたそれは、則ち神の力を具象化させた奇蹟の霊薬。
何故それをヴォーノが保有していたのか、知る者はここにはいない。
魔王は、別に「劇的!覚醒君」が怖かったというわけではない…だろう。ただここに、偶然と幸運と思惑が最大限の効力を発揮した。
本来であれば、例え神露を用いたとしても神以外に理を導くことは出来はしない。神露に出来るのは、あくまでも所有者に限定的に働く奇蹟に留まる。
…が、今この場は、ひどく不安定な理の上にあった。
創世神の手を離れた世界。軛を失った理は揺らぎ、僅かな切っ掛けで統制を失いかねない状態にあった。
僅かな切っ掛け…例えば、多大なエネルギーがぶつかり合うような。世界そのものに、負荷を与えるような。
ヴォーノの狙いどおり、魔獣と魔族との戦は、ただでさえ不安定になった理に亀裂を入れることに成功した。
そこに、神露。
高純度・高濃度の“星”の生命は、そこにはなかったはずの道を作り出す。呼び水となり、遥か奥深くにそれが眠る場所とこことの霊脈を繋げる。
足元の空間で繰り広げられる奇蹟の光景に、ヴォーノは歓喜と怖気を同時に感じていた。
彼自身、最初からこうなることを予期…計画していたわけではない。
彼が持っていたのは、かつて魔王より賜った神露と、かつて魔王が使用していた器。彼が持つ以上、それらにはほとんど使い道がない。
いつの日にか自らの手で…と夢想しながらも実現への糸口すら掴めなかった彼の前に現れた、魔王の息子。
ハルトと魔界とが敵対していて、魔族が地上界へ攻め入ってくるという情報を得た時点で、彼の夢想は少しだけ現実味を帯びた妄想へと変化した。
あとはもう、一か八かの賭けである。
軍事衝突があったからといって、この場の理が狙ったほどに乱れる確証はなかった。現に、ディアルディオの加勢がなければそうなる前に戦は自分たちの敗北で決着してしまっていただろう…実を言えばアスターシャあたりに密かに期待してはいたのだが。
ハルトが白銀水晶を破壊出来る保証もなかった。神露を使わせたからと言って、霊脈を繋げることが出来るかどうかも、自信がなかった。
…が、結果としては上々だ。ハルトは、見事にそれをやってのけた。
魔王子だから、それが可能だったのか……答えは、否である。
魔界でぬるま湯に浸かっていた頃のハルトであれば、ここまでの結果は導けなかっただろう。早々に諦め、運命に殉じていたに違いない。
だが、己の望みを得て、それを原動力に自分の足で歩き、魔王子としてではなく一人のハルトとして多くを学んだ彼の、他の誰のものでもない自分自身の強い感情が、ここに奇蹟を呼んだ。
それが、ゆっくりと瞼を開けた。
眠りの前の微睡みのように虚ろな意識のハルトは、落ちる寸前にそれと目が合った。
――――寝ぼけ面だなー…
不思議と、湧いてくる思いはその程度だった。父に対する愛着も憤りも安堵も不平も、強烈な眠気の前には無力だった。
抗い切れなくなったハルトが、意識を手放して地面に崩れ落ちた。
それとほぼ同時に、蒼銀の光が弾けた。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
「お…おい、おいおい、一体何が起こって何がどうなってんだ?」
ますます困惑を深め、マグノリアはアデリーン、セドリックと顔を見合わせる。
彼女らの視線の先では、突然地面に大穴が開いて(なんだかレオニールがやらかしてたみたいだ)、今はそこから明滅する光が漏れてきている。
いつの間にか戦闘は終わった…ように見えた。魔獣も魔族も、馬鹿みたいにその場に突っ立って穴の方を見ながら茫然としている。
完全に蚊帳の外状態の彼女らには、戦場で何が繰り広げられていたのか知る術がなかった。
ただ…激しく揺れる光に、ひどく不穏な気配を感じる。
ふっと、明滅が消えた。一瞬だけ、完全な静寂が辺りを覆う。
「……む、いかんな」
アスターシャが動いたのは、そのタイミングだった。何かに気付いたかのようで、マグノリアたちには何の説明もなく突然飛び出す。
「え?あ…アスターシャさん!?」
思わず伸ばした手は空を切って、マグノリアは追いかけることが出来ない。アスターシャは、凄まじいスピードで荒れ果てた戦場へ突入していった。
残された、廉族組とルガイア。アスターシャなしでは、非常に気まずい。
「え…と、なぁ、何が起こってるのか……分かるか?」
「…………」
「…………」
特に険悪な顔をしているのがルガイアとシエルで、下手すると一触即発な空気を和ませようとどちらにともなく声をかけてみるセドリックだったが、見事にどちらにも無視されてしまった。
返事こそしなかったものの、ルガイアとシエルは他の面々と違い状況を見定めている…ように見える。その視線は、まっすぐ地面の大穴に向かっていた。
「アスターシャさん、何するつもり……」
ハラハラしながら見守るマグノリアの呟きの途中で、アスターシャが穴に飛び込んだのとほぼ同時のタイミングで。
先ほどのものとは比べ物にならない、猛烈で濃密で壮絶なまでの光が、周囲一帯を蹂躙した。
遠く離れた此処にまで、その圧が届く。光がまるで質量を有しているかのようで、吹き飛ばされないように踏ん張るので精一杯だ。目を開けることすら出来ない。
「…………!!」
嵐のただ中に放り込まれた気分だった。一瞬でも気を抜けば、何処か遠くへ、戻ってこられないくらい遠くへ飛ばされてしまいそうな錯覚と、本能的な恐怖と危機感。
しかし嵐はそう長くは続かなかった。体感的には物凄く長く感じたのだが、威力の割に周囲が思いの他無事だったことを考えると…それでも木々の数本は根元からぽっきり折れて倒れていたが…せいぜい十数秒といったところだったのだろう。
光と風がやみ、空気が嘘のようにピタリと止まった。どうやら助かったと思いつつ、ならこの緊迫感は一体何なのだろうと訝しみながら恐る恐る目を開けたマグノリアが見たものは。
眼下の戦場は、先ほどの嵐で見るも無残な状態になっていた。レオニールの術式のせいで脆くなっていた地表は完全に崩壊し、地下空間が完全に露わになっている。ここからだと死傷者の有無は確認出来ない。そんなことを確認している場合ではない。
「………………」
マグノリアは、何かを言おうとした。が、喉が張り付くようで声が出ない。舌が強張って言葉にならない。
頭の先からさーっと血の気が引くような感覚がした。そのくせ、心臓の音だけがうるさく鳴り響く。
体だけでなく、思考も凍り付いたように動かない。長い遊撃士人生で初めて、自分が何をすべきか自分に何が出来るのかが全く分からず、ただ馬鹿みたいに呆けるばかりだった。
あれは、まずい。あれは、いけない存在だ。直視してはならない。近付いてはならない。関わってはならない。
…そんなことをすれば、きっと戻ってくることが出来ない。
普段の第六感とは、別の場所から聞こえてくるかのようだった。もっと、自分の中の深い部分。マグノリアがマグノリア=フォールズとして形成されているよりももっと、根本的な場所から湧き上がってくる警鐘。
それなのにマグノリアは、どうしてもそれ…瓦礫の中に佇む王の姿から、目を逸らすことが出来なかった。
実を言うと最初は「劇的!覚醒君」を魔王に使おうかなって思ってたんですけど、さすがにアレなので…ヴォーノさんが温存しておいた神露を使うことにしました。けど賞味期限(飲ませたわけじゃないけど)、大丈夫なんでしょうか。
余談ですが、前作でリュートが終盤付近、いきなりみんなに願い事を聞いて回ってたのって、言わば生前整理みたいなものでして、創世神とやりあえばおそらく戻ってこれないだろうから今のうちに…って感じなんですけど、それに勘づいてたのが魔王バカのギーヴレイと、洞察力ハンパないイオニセスと、あとやたら気が付くヴォーノの三人でした。なのでヴォーノは、あんなに欲しがってた神露なのに素直に喜べなかったし、すぐに飲んでしまう気になれなかったんですね。それで今までずっと取っておいてあったというわけです。




