第百八十六話 知ってる人の意外な一面を見るとけっこうショックだったりすることがある。
「おいおいおいおい、何がどうなってんだよこの状況」
戦場を俯瞰できる裏手の小高い山から見た光景に、マグノリアはそう尋ねた。尋ねたところでここにいる誰もその答えは持っていないのだが、尋ねずにはいられなかった。
城壁の向こう側。広場というよりはもう荒野と呼んだ方が適切なくらい広大な空間にひしめき合う、魔獣の群れと魔族の群れ。
魔族はまぁ攻め込んできたのだから当然として、それを迎え撃つのが帝国兵ではなくて異形の魔獣たち…マグノリアが今まで見たことのないような…だというのはどういうことか。
「あー…あれ、帝国が作ってたっていう人造魔獣?もうここまで実用化されてたわけね」
マグノリアよりは幾分冷静に見えるアデリーンだが、落ち着いているかと言えばそうでもなく研究対象になりそうな諸々に寧ろ興奮気味。
「それで、どうするつもりですか?」
シエルが問うた相手は、アスターシャ。静かに戦場を見つめる瞳には驚愕も戸惑いもなく、一体彼女は何を見極めようとしているのか。
「ふむ……参戦しようかと思ったが、あちらにもディオが到着したようだな。もう少し様子を見るとするか」
「ディオって誰だよ」
不満げにセドリックがぼやくが、振り返ったアスターシャに微笑まれて思わず目を逸らす。
「なに、心強い味方だ。あちらの出方も気になるしヴォーノ殿も何やら思うところがあるようだから、我らはひとまず高みの見物と洒落込もう」
「いや、そんな呑気にしてる場合じゃ……………なさそうだぞやっぱり」
呆れ顔だったマグノリアだが、言葉の途中で声に緊張が走った。
彼女の視線の先。
「ちょっとちょっとちょっとちょっと、これマジでヤバいんじゃないの?」
「……マジかよ」
「…………………!」
「…ほう、これはこれは…間近で見るとなかなかに壮観だな」
「にゃにゃ、ふにゃお」
「……やはり、そういうことか」
目の前の空に突如走った亀裂を見て口々に驚愕の声を上げる一同。アスターシャは何だか面白そうだしネコとルガイアは何だか知った風なことを言っているが、これがザルツシュタットで見られたものと同じ異変なのだとしたら、帝都ヴァシリーサもまた同じ運命を辿ることになる。
滅びの気配が、すぐ足元にまで迫って来ていた。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
空が、割れる。割れて、堕ちてくる。
命無き魔獣も精鋭の魔族も、それまで殺し合っていた手を止めて空を見上げるばかりだった。
自分たちにはどうにも出来ない、どうにもならない大きな大きな流れ。押し寄せる波に岸壁が削られていくように、吹き付ける暴風に草花が舞うように、ただ身を任せるしかない根源の流れ。
それを目の当たりにした彼らの胸に去来したのは、畏れか怖れか、はたまた諦念か。
恐怖と驚愕と絶望にざわつき始めた戦場で、ルクレティウスは一早く我に返った。
まだ、間に合う。手遅れではない。犠牲は出るかもしれないが、今ならばそれを最小限に食い止めることが出来る。
「どうやら、戯れている暇はなさそうですな。殿下、このような事態になったからには、多少強引にでも我らと共に来ていただきますぞ」
「い…嫌だ……」
ルクレティウスの瞳に初めて浮かぶ冷酷な色に気圧されて、ハルトは後ずさった。魔界にいた頃の好々爺とはとても同一人物には思えない。きっと今の彼は、何よりも優先するものの為ならばハルトを犠牲にすることも厭わないのだろう。
「お嫌だと仰るのならば……ここで全てを収めるしかありませぬが」
彼の双眸の中に、殺意も生まれた。大剣を手に、ハルトに向かって歩き出す。立ち昇る威迫と淀みない足取りは、彼の覚悟を指し示す。
…ハルトを殺し、魔王を復活させるという、魔界の覚悟を。
王太子としてのハルトにとって、ルクレティウスは宰相ギーヴレイに並んで自分に甘い臣下だった。
なんでも無条件に容認しどれだけ怠けても文句一つ言わずただニコニコとしていたギーヴレイとは違い、ルクレティウスはそれなりにハルトに苦言を呈することもあった。
しかしそれも、せいぜいが「困った殿下ですなぁ」程度のもの。本当に責めているわけではなく呆れているわけではなく、出来の悪い手のかかる孫に目を細める祖父のような温かさで、苦笑しつつもいつだって我儘を受け容れてくれた。
魔界の実務を担う武王であるがゆえにそれほど長い時間を過ごしたわけではないが、ルクレティウスはハルトにとって非常に気安い相手だったのだ。
何があっても守ってくれる、何があっても見捨てられることはない、そんな安心感。
それもまた自分の思い違いであったのだと、鬼神の如きルクレティウスを前にしてハルトは項垂れた。
「ちょっとちょっとルク爺、ダメだよ殿下殺したら、絶対陛下は怒るよ」
「主君の怒りを買うことを怖れ我が身可愛さに現状から目を背けることは、忠義とは言わんぞディアルディオ」
慌てて立ち塞がるディアルディオを、ルクレティウスは鋭く睨み付けた。
もう一刻の猶予もない。ここで手を打たなければ、世界はどうしようもなく損なわれることとなる。主が還るべき世界が、永遠に失われてしまう。
その焦りが、彼を追い立てていた。
「…レオちゃん」
「誰がレオちゃんか!」
ルクレティウスとディアルディオが牽制しあっている隙にヴォーノがレオニールの袖をくいくい引っ張って、レオニールが怒鳴りつけた。マグノリアまでならなんとか許すが、ヴォーノにレオちゃん呼ばわりされる筋合いはない。
「そんなに怒らないでん、レオちゃん。ここの地面におっきな穴を開けられるかしらん?」
「……大きな穴、だと?どういうことだ」
いきなり脈絡のない頼み事をしてきたヴォーノに、レオニールは怪訝な目を向ける。今問題になっているのは上空に現れた異変とハルトの安全であって、足元のことなどどうでもいい。
…というか、穴を開けてどうしようというのか。
「だーからぁん、この下の空間が丸見えになるくらいの穴よん。レオちゃんならワケないでしょお?」
「確かにワケはないが…………ちょっと待て貴様、この下の空間ということは…」
「それでハルトちゃん、はいこれ」
何かに気付いてヴォーノを問いただそうとしたレオニールを無視して、ヴォーノはハルトに何やら小さなものを手渡した。
「あの……これって…?」
「んふふふ、ハルトちゃんなら分かるでしょぉん?これが何なのか、どう使えばいいのか」
含み笑いするヴォーノ。ハルトは、言われて手の中に視線を落とした。
硝子の小瓶。透明の液体が、ゆらゆらと虹を孕んで揺蕩っている。その光は、ひどく懐かしい感覚をハルトに与えた。
「おい貴様!だからどういうことかと聞いている!!」
「ほらほらぁレオちゃん、時間ないわよぉ。急いで急いで!」
「……え、ええ?」
いつになく真剣な表情(口調はやっぱりウザいまま)で急かしてきたヴォーノに、レオニールは思わずハルトの顔を窺う。
ハルトは、頷いた。
「レオ、お願い」
「……承知致しました」
ヴォーノが何を企んでいるのか知らないが、主君の確信めいた眼差しに、レオニールがそれ以上異議を挟むことなどありえなかった。
ハルトはきっと何か知っている。であれば、自分はその意志に従うのみ。
地面を崩落させる程度であれば、それほどの術式は必要ない。
レオニールが選択したのは、地属性の上位術式。こういう目的にはお誂え向きのものだ。
「お主、何をするつもり……」
「邪魔はさせないよルク爺、って何するのか僕も知らないけどさ」
レオニールの動きにルクレティウスが勘づいた。この状況で上位術式など、何かを企んでいるとしか思えない。
しかし、妨害しようとした彼の前に幾体もの骸魔獣が立ち塞がる。
彼にとっては雑魚に過ぎない魔獣。ルクレティウスの剣の一振りでそれらはあっけなく二分割されて地面に転がった。
が、その残骸を跨ごうとしたルクレティウスは、足を止めて後ろへ跳び退った。
彼の足元で、骸魔獣が音もなく跡形もなく、塵となって風に溶けたからだ。
「………本気か?」
「本気じゃなかったらルク爺止めらんないからね」
それがディアルディオの仕業であることに間違いはない。手下である骸魔獣を…まだ使えるに関わらず…消滅させたのは、ルクレティウスへの警告の為だ。
尤も同格であるルクレティウスに対し、ディアルディオの権能も制限されてしまう。魔獣のように、一瞬で消滅させることなどは不可能。
…が、その力とまともにやり合えばタダでは済まないことは確実で。
足止めは、それほどの長い時間を必要とはしなかった。
レオニールの使うのは上位術式である。無詠唱でかつ、魔力制御もほとんど必要ない。
彼は上位術式にしてはやり過ぎなくらいの魔力を遠慮なく注ぎ込んだ。それもこれも、主君の願いに応えるため。手加減など、不敬に値する。
「【超重崩戟】!」
言の葉と共に魔力が紡がれ収束する。
激しい地震が、戦場を覆い尽くす。
空の異変に気を取られていた兵たちも、次は何事かと騒然となった。
地面に亀裂が走る。それは奇しくも、ひび割れた空と呼応しているかのようだった。
そして崩壊が、始まった。
ヴォーノ氏、せっかく魔王に貰った「ご褒美」を使わずずっと取っておいたようです。




