第百八十四話 忍び寄る異変in戦場
剣と剣がぶつかり合い、二人の間に衝撃波が生まれ、周囲は炎に取り囲まれた。
熱は上昇気流を生み出し、その気流に乗って炎が渦を巻き、灼熱の竜巻が周囲を蹂躙する。
圧力と劫火に、近くにいた魔族兵も魔獣も身の危険を感じて二人から距離を取った。
二人…レオニールとルクレティウスはそんな周囲の様子を意識の外に追い出して、二人だけの世界に没頭する。
「………レオ!」
ようやく想い人に拒絶されたショックから回復したハルトが、炎渦の中のレオニールに向かって叫んだ。
しかし押し寄せる熱風に、それ以上近付くことが出来ない。
クウちゃんがここにいれば、熱風くらいは防げたかもしれない。だが、未だに彼女の調子は戻っていなかった。
理由は分からない。ハルトの精神的不安定のせいなのか、或いは世界を覆いつつある異変のせいなのか。
しかしそんなクウちゃんを戦場に駆り出すことなど出来ず、ハルトは頑なに彼女を城の奥から出さないようにしていた。
「ハルトちゃん、ここは危ないですわん。さ、こちらに」
「…けど」
ヴォーノがハルトの袖を引くが、ハルトは応じることが出来ない。
自分のせいで引き起こされたこの事態に、その自分だけが安全な場所へ逃げるなど許されることとは思えなかった。
「ハルトちゃん」
再びハルトの名を呼んだヴォーノの声は、今までになく真剣なものだった…口調はウザいままなのだが。
「ハルトちゃんの出番は、もーう少し後になりましてよん」
「……ボクの出番?それは、どういう……」
「それにほら、先ほどの女の子ももう行ってしまいましたわん」
「…………え!?」
言われて初めて気付いたハルト。いつの間にか、メルセデスの姿はどこにも見えない。
彼女がこの戦いに巻き込まれなくて良かったという安堵と、彼女の誤解(ハルトのことを覚えていないというのは絶対に彼女の思い違いなのだ。そうに決まっている)を解くことが出来なかったという後悔がハルトの中でせめぎ合っていたが、彼の心情なんて関係なく戦況は進んでいく。
剣圧と共に、ひときわ激しく炎渦が揺れて、弾けた。ほぼ同時に、距離を取ったレオニールが大きく後ろへ下がる。
炎の中での剣戟は、彼に幾つもの傷を刻んでいた。どれも浅いもので致命傷ではないが、対するルクレティウスがまるで無傷であることに比較すると両者の差が歴然として痛感させられる。
…否、完全に無傷ではない。レオニールは、ルクレティウスの袖口が僅かに焦げをつくっていることに気付いた。
些細なものである。衣服の表層に留まっていて、ルクレティウス自身の身体には何ら損傷はない。
…が、そんな些細な結果に喜びを感じてしまうほどに、ルクレティウスの防御は強固すぎた。
「……おぉ、これは一本取られたの」
ルクレティウスも、袖口に気付いて感心の声を上げた。決してレオニールを馬鹿にしたわけではなく、純粋な称賛だ。
衣服だろうと装備だろうと、彼自身のみならず彼が身に着けるものに傷を付けることが出来る者は非常に限られている。極位や超位の術式に頼らずそれを実現したレオニールの技量は大したものだ。
「……まだまだ!」
レオニールもまた、鉄壁と思われるルクレティウスの防壁に僅かな突破の希望を見い出して、再び剣を振るう。
同じだけのダメージを互いに蓄積させていけば先に倒れるのは間違いなく自分なのだが、そんな勝ち負けを計算していたのでは瞬殺されてしまうような相手だ。
出来るのは、何も考えず全てを攻撃に費やすこと。勝負の行方などどうでもいい。自分の全てを目の前の強敵に捧げる。
それはある意味で、崇拝にも似た思い。そして、純粋で一途な信仰はあらゆる感情の中で最も肉体に影響を与える。レオニールに望みが残されているとしたら、ただその一点のみ。
再び炎が渦巻いた。ハルトは、ただ見ていることしか出来ない。
目の前で、周囲で繰り広げられる戦いは既に彼の手を出せる範疇を超えている。下手に動いて徒に目を付けられてしまえば、間違いなくレオニールの足手まといになってしまう。
ヴォーノに引き摺られるようにして少しずつ後方へ下がるハルトの目に映った戦況は、徐々に魔界軍側に傾きつつあった。
魔族の中で倒れている者はほとんど見られない。横たわるのは、息絶えた魔獣たちばかり。
もともと人造魔獣は地上界平定を目的として帝国が作り出したもの。魔族を、しかも精鋭の高位魔族を相手にすることは想定外だったのだ。
最初のうちは数で押し切れるかのように思われたが、やはりルクレティウス旗下の兵はそれほど甘い相手ではなかった。
いくら多いとは言え、魔獣の数にも限りがある。しかも、上空にはまだ多くの魔界兵が待機しているのだ。それらが地上に降りてきて参戦した場合、帝国には対応できるだけの余力はない。
「……うーん、思ってた以上に一方的ですわねん。ちょっと計算外だったかしらん」
少しばかり焦りの滲んだヴォーノの声。だが、その台詞はまるで負けること自体は予想していた、という風に聞こえる。
「あの、計算外って……」
しかしいくらヴォーノとて負けることを想定して戦いには臨まないだろう。そうであればさっさと降伏してしまえばいいのだ。
一体ヴォーノが何を企んでいるのか、何を計算しているのか分からず、ハルトは戸惑う。
ヴォーノを完全に信用するのは危険かもしれない。が、何となく信じてもいいような、そんな感覚もある。
「んーふふ、流石にルクレティウス様がいらっしゃるとは思わなかったのですわん。だってあの方、魔界の最終防衛線みたいなものでしょお?てっきりもう少し小規模の侵攻かと思ったんですけどぉん」
ヴォーノの想像以上に、魔界は…ギーヴレイは事を大きく考えているということだ。
そして、彼がそう考えるには必ず根拠があるわけで。
怒号と爆発音と金属音と断末魔で騒然とした戦場の中で、ハルトはふと奇妙な音を聞いた…ような気がした。
音と言っても、振動が空気を伝わって鼓膜に届いたものではない。もっと、体と精神の中心、魂の根幹に触れる、軋みのような響き。
「ヴォーノさん……今、何か聞こえませんでしたか?」
「………!ハルトちゃん、それは本当ですのん?」
尋ねたのだが、尋ね返されてしまった。だがヴォーノの瞳がやけに輝いている。
「それ、どんな感じかしらん?」
「え、どんな感じって………」
ヴォーノには、聞こえていないようだった。しかしそれにしてはハルトの言葉を疑う様子はない。
それどころか、まるでそれを待ち構えていたかのような……
「よく分かりませんけど……なんか、すごく嫌な感じです」
ヴォーノが喜んでいる理由がハルトには分からなかった。
すごく嫌な音なのだ。ガラスとガラスを擦り合わせたときの音にも似た、生理的に怖気と嫌悪を感じる音。
ただ好ましくないというだけではなく、物凄く嫌な予感もする。ぞわぞわと、じりじりと、何かが密かににじり寄ってきているような感覚が。
ハルトの返答を受け、ヴォーノは上空を見上げた。右から左、左から右、隈なく変調を嗅ぎ取ろうと目を皿のようにして空を凝視する。
…が、彼の目にはただの空しか映らない。
「……うぅーん、やっぱりまだ足りないみたいねん。皇帝ちゃん、もう少し戦力の追加は出来ませんのん?」
後ろを振り返り皇帝に要請するヴォーノだが、皇帝は力無く首を振るばかり。
「先ほどの充填で最後だ。これで粘ることが出来なければ、我らの望みは絶たれることとなる」
「あらららぁ、それは大変ですわん」
どうやら、焦っていてもいなくてもヴォーノの口調は変わらずウザいままらしい。口調のせいでそうとは見えないが、彼はどうやら本気で焦っているようだ。
「何でもいいんですけどぉ、まだちょーっと負荷が足りないみたいですのん。この際ですから皇帝ちゃん、魔獣だけでなくって帝国軍も動かしていただけないかしらん?」
「………それが僅かでも助けになるのであればそうするが…」
「……そうですわねん、稼げるのは時間くらいですわねん」
二人が何やら相談して肩を落としている間にも、魔獣の数は加速度的に減っていく。もうじきに、後方を守るために配置されている個体も全滅することだろう。
ルクレティウスは、周囲の戦況の変化に気付いた。彼にはレオニールと違ってその程度の余裕はある。
この分でいけば、すぐに戦は終わるだろう。仮に廉族の兵が動員されたとしても、それは彼らにとって何の脅威にもならない。
本音を言えば、もう少しレオニールと遊んでいたい。まだ若く未熟ではあるがそれだけ伸びしろを多く持っている彼が、自分との戦いの中でどれだけ成長してくれるのか。
いずれ殺す相手の成長を願うという矛盾した気持ちではあるが、ルクレティウス自身にレオニールに対する敵意や憎悪はない。寧ろ自分といい戦いをしてくれている後輩を、先達として好ましく思うくらいだ。
だから、だろうか。
彼の中に、簡単な決着を望まない気持ちがあったからこそ。
「ごめんごめーん、ルク爺。遅くなっちゃったあ」
突如降ってきた場違いに幼く明るい声に、ルクレティウスは歓喜と安堵を感じてしまった。
ハルトが聞いた「嫌な音」、ほんとはガラスってよりは発泡スチロールを擦り合わせたときのやつ(或いは黒板をギーっとしたときの)にしたかったんですけど、発泡スチロールが存在しないこの世界での表現に困ってガラスになりました。魔王の一人称だったら悩むことなかったのに。




