第百八十話 自分が覚えてるのに相手が覚えてくれてない悲しさと相手が覚えてるのに自分が覚えていない気まずさはどちらが勝るのだろう。
ハルトは走った。
レオニールや皇帝が呼び止める声も置き去りに、ひたすら走った。
世界のことだとか、魔王のことだとか、魔界の侵攻のこととか、師匠たちのこととか、自分自身のこととか。
それまで頭の中でグルグルと回って彼を悩ませていた全ての思いを明後日の方向に蹴っ飛ばして、ただ湧き上がる高揚に身を任せて、走り続けた。
広大な皇城を駆け抜け、彼が辿り着いたのは正門前。門と城との間にはこれまた広大な前庭と広場が設けられていて、そこでハルトは足を止めた。
そこに佇む人影を見て、本当は抱き付きたかったのにどうしてだか足が止まってしまった。
朱がかった、亜麻色の髪。翡翠の瞳。柔らかく穏やかな空気。第一等級だなんて信じられないくらい儚げな姿……
間違いない。錯覚でも幻覚でもない。夢にまで見た少女が、今自分の目の前にいる。
手を伸ばせば、触れられそうなくらい近くに。
メルセデスと、目が合った。
ごくりと唾を呑み込んで、ハルトは震える喉から声を絞り出す。
「あ…その、ボク………」
「あなたが、ハルト=サクラーヴァさん…ですか?」
しかし、少し首を傾げるようにして尋ねてきたメルセデスに、動きが止まる。
彼女の態度はまるで、初対面であるかのような…
「えっと、あの、ボク、ハルトです!あのとき助けてもらった……」
あんなに運命的な出逢いだったのだ、彼女が自分を忘れているはずがない。きっと何かの間違いだとハルトは必死に声を上げるのだが、
「え…?すみません、何処かでお会いしましたっけ?」
メルセデスの悪意皆無な質問に、がっくりと崩れ落ち膝をついた。
「そ……そんな、あんなに運命的で情熱的な出逢いだったのに……」
「………情熱的……そんなことありましたっけ……?」
メルセデスは記憶を辿っているようだが、いまいちはっきりしない様子。
「…まぁ、そんなことはどうでもいいんです」
「……!そうですよね、出逢いが何時だったかなんてどうでもいいですよね!大事なのはこれから二人で絆を深めていくことで」
「ごめんなさいですけど、これでさようならです」
久々にご都合主義フルスイングで暴走しかけたハルトを遮ったメルセデスは、変わらずふんわりとした調子でそう言うものだから、ハルトとしては何を言われたのか即座には分からなかった。
「……………え?」
「悪く思わないでくださいね」
しかし、一瞬で懐に飛び込んできたメルセデスの目的は抱擁ではなく、その手に握られた白刃が反射した陽光に、彼女を抱き返そうとして広げた腕が止まる。
メルセデスのバスタードソードは、滑るように閃き、ハルトの胸に吸い込まれるように迫った。
◆◆◆◆◆◆◆◆
「…………驚きました。まさかこれを躱すなんて」
「どういうことですか、メルセデス?」
血の滴る胸の傷口を押さえながら、ハルトはメルセデスへ問いかけた。傷は決して浅くはないが、致命傷というほどでもない。
何より、痛みよりも驚きと衝撃の方が強くハルトを打ちのめしていた。
今、メルセデスは自分を殺そうとしたのだろうか。
いや、そんなはずはない。自分と彼女は運命で結ばれた仲なのだ、幾多の困難と障壁を乗り越えて結ばれる生涯の伴侶なのだ。その想いは時間も距離も超えて通じ合うのだ。
だって、あのときの彼女はあんなにも優しく温かな目で自分を見てくれたのだから。
そんな彼女が、自分を殺すだなんてそんなはずはない。
きっとこれは何かの間違いだ。自分を忘れていたことといい、殺そうとしたことといい、きっとこれも魔族たちの企みか何かが働いて…
「どうもこうも、あなたが生きていては困りますし」
「…………!?」
ずっと想い続けていた相手からのストレートすぎる言葉に、ハルトは胸を抉られる。斬られた傷よりも、遥かに痛い。
「魔王の復活だなんて、困るんです。地上界のためにも、とりあえず死んでいただけますか?」
この上なく物騒な台詞を、この上なく穏やかに告げるメルセデス。表情と口調だけだと、のんびり世間話をしているかのようだ。
そこには敵意も悪意もなく、殺意も闘志もない。
彼女はただ事務的に、ハルトの死を求めている。
そこには彼女の感情や願望はなく、則ち彼女はハルトに対して何の感情も抱いてはいない。
…せめて、怒りや憎しみがあってくれたなら、まだ救いはあったのかもしれない。
「…ま、待ってくださいメルセデス!ボクは…」
釈明しようとしたハルトだが、二重の意味でそれは出来なかった。
一つは、釈明しようにもその根拠がないこと。魔王復活を阻むために器を破壊するという彼女の行動は、理に適っている。
もう一つは、その暇を与えず再びメルセデスが斬りかかってきたこと。
流石は第一等級遊撃士、その動きも剣筋も鋭く速い。彼女と出逢ったばかりのハルトだったら、最初の一撃で絶命していたに違いない。
それでも、それなりに戦いを経てきた今のハルトであれば、動きについていくことくらいは出来た。
単純な強さで言えば、彼女はシエルに劣る。
……しかし。
メルセデスとシエルには、決定的に大きな差があった。正しく言えば、ハルトが抱く両者への感情に。
シエルだって確かにまだ友人だと思っているし出来れば仲良くしたいとも思うが、彼が自分を殺そうとするのであれば反撃することに躊躇はない。
だが、メルセデスは……
「どうしたんですか、逃げるだけじゃ時間の無駄ですよ?」
「そ…そんなこと言ったって、君に剣を向けるなんて出来るはずないじゃないか!」
「だったら、大人しく死んでもらえませんか?」
この温度差たるや。
ひたすら無表情でハルトに斬りかかるメルセデスと、必死に彼女を説得しようと逃げ惑うハルト。
「そ、それは…困ります!それに、なんでボクがここにいるって……」
もしかしたら、メルセデスは魔族(か何かハルトを殺そうとしてる連中)に利用されているのかも。いやいや或いは、操られているのかもしれない。
だからこそ自分のことを覚えていなかったし、だからこそ自分を殺そうとしているに違いない。そうに決まっている。
「き、君を唆したのは誰なの?きっとそいつに騙されて…」
「いえ、唆されてなんかいませんけど」
必死のハルトの呼びかけにもつれない返事のメルセデス。ひどく白けた視線が痛い。
「じゃ、じゃあどうして」
「…私、身内にちょっとした特殊能力者がいまして」
次々と斬撃を繰り出しながらも、やっぱりのんびりした口調でメルセデスは語る。
「先日久々に会った時に、彼女言ってたんですよ……もうじきに黒き王が目覚めるって」
「……それってもしかして、エリーゼ…?」
ハルトもまた、連続する攻撃を躱しながら彼女の話についていく。なかなか器用な二人である。
「あら、彼女のこと知ってましたか…それなら話は早いですね。それで、魔王の復活にはあなたが絡んでるってことも聞きまして」
「そ、その後は?彼女、他には何か言ってなかったんですか!?」
かつての様子からすると、エリーゼがハルトに不都合なことを言うはずがない。天恵“未来視”で視た光景が何であったにせよ、必ず注釈は入れてくれたに違いないのだが…
「いえ、それ以上は聞く必要ないでしょう?あなたが鍵ならば、それを壊してしまえばいいかなーって」
「えええ!?」
「そう言えばエル、何か言いたそうにしてましたけど………まぁ別に構いませんよね」
「構いますよ構います!っていうか構ってください!!」
メルセデスの大振りの斬撃が、遠くの尖塔を斬り飛ばした。さっきから、躱す攻撃が石畳に亀裂を入れたり遠くの石塀を粉砕したり、城の被害は甚大だ。間違いなく、彼女は武器に何らかの特殊効果を付与している。おそらくは、風系統の魔導具…真空波だとか、そんなところだろう。
そんな分析を冷静にしてみたところで(あまり冷静でもないが)、魔導知識がさっぱりなハルトにはどうしようもない。ただ逃げるしかない。
「ちょ……メル!だからボクの話を」
「すみません初対面の人にそんな馴れ馴れしく呼ばれる筋合いないんですけど」
「……………!!!(ガガガーン)」
メルセデスの猛攻…言わずもがな攻撃ではなく口撃である…に、とうとうハルトの動きが止まった。
その機を逃さず、メルセデスは間合いを詰める。
だが、ショックに打ちのめされたハルトの首を斬り飛ばさんと横薙ぎにした彼女の剣は、固い音と共に見えない何かによって遮られた。
ようやくメインヒロイン登場…と思いきや妙な展開に。




