第百七十七話 正常性バイアスって怖い。
「……なぁ、あの亀裂、また広がってないか?」
「広がってるんでしょうね」
並んで空を見上げるマグノリアとアデリーン。彼女らの視線の先には、さらに範囲を広げた空の亀裂が。
いくら距離があるとは言え、少しずつ大きくなるそれがいつ自分たちの頭上に至るか、不安になるのも仕方ない。
不安になるのは彼女たちに限ったことではないのだが、しかし帝都は次第に落ち着きを取り戻しつつあった。
今のところ、亀裂が直接帝国に害を及ぼしている様子はない。確かに見てくれは不気味かつ不吉この上ないが、見慣れぬものも見続けていればそのうち慣れてくる。
自分たちを取り巻く日常に変化がないことで、人々は異変を何でもないことと捉え始めていた。
…否、捉えたがっていた。
誰しも、それが普通のことではないと分かっている。しかし出来ることは何もなく、深く考えることは恐ろしく、今は何も起こっていないのだからきっと大したことではないのだと、そう信じて現実から目を逸らしているのだ。
マグノリアとて、出来ればそうしたかった。常に付きまとう不安と恐怖は、容赦なく精神を削ってくる。自己防衛のためにも、楽観的思考に身を委ねてしまいたいのはやまやまだった。
……しかし、彼女らはそうすることが出来ない。真実を知ってしまったからだ。そのせいで、逃げ場を失ってしまった。
彼女らに出来るのは、力の限り足搔くこと。解決策には程遠くとも、自分たちに出来ることをする、ただそれだけ。
ここ数日間ハルトを探して帝都中を駆けずり回っている四人…マグノリア、アデリーン、セドリック、そしてシエルだったが、彼の行方は依然として知れない。
最も有力な候補が、ハルトをやたらと気に入っていたというヴォーノ=デルス=アスのところ。そしてヴォーノが繋がっていると噂されている皇弟のところであるのだが。
何度通っても、ヴォーノの屋敷は無人のまま。皇弟に至っては、アクセスする手段を持っていない。
「つっても、あいつ何だかんだ言って目立つ外見してるからな、こうも目撃者がいないってことは、絶対に何処かに隠れてるか匿われてるかだと思うんだが」
「そんなことは分かってるわよ。だからそれが何処なのかってことでしょ」
一向に結果の見えない捜索に、空気も険悪になりがち。そういう空気に一番敏感なセドリックが、二人の仲を取り持とうと極力明るい声をつくる。
「ま…まぁまぁ、手前ら少し落ち着けって。残った候補は皇弟のところなんだから、まずはそこにどう近付くのか考えようぜ?」
「この際ですから、強硬偵察といきましょうか」
セドリックにまるで賛同するかのように続けたのは、シエル。だが実際には両者の考えはまるで違っていて。
「きょ、強硬偵察って手前、まさか皇弟んとこに殴り込みかけるつもりかよ!?」
「いけませんか?」
「いけませんだろ!!もしそこにハルトがいなかったらどうすんだよ!!」
シレっと問い返すシエルに、セドリックは「ヤバい、ここにも常識知らずがいたか…!」と内心で頭を抱える。
「どうすると言われても…………別に?」
「順法意識の欠片もないのかよ!?」
確たる証拠もなく他人の家に武力で以て押し入るだなんて真似は、王族たるセドリックにとって言語道断の所業だ。彼はこういったことには自分と同じで常識的なマグノリアに賛同を得ようと視線を送るが…
「………それもアリかもな」
「アリじゃないだろーがよ!?」
ここに来て常識を捨て去ろうとしているマグノリアである。
「けどよ、セドリック。もうこんな状況なんだから法がどうのと言ってられないだろ?ハルトが見付かればよし、見つからなかったらそんときはそんときだ」
「少なくとも、一つは候補を絞れるわけよね」
アデリーンまで、同調してそんなことを言い出す。
「決まりですね。では、まずはその皇弟とやらのところへ直接行って、関係先全てを吐かせるとしましょう」
「素直に吐くかな?」
「素直じゃなくっても吐かせりゃいいのよ」
シエル、マグノリア、アデリーンは口々に怖いことを言い残して隠れ家(郊外にあるシエルの潜伏先である)を出た。
「お……おい待てよ手前ら、早まるな!!」
慌てて後を追いかけるセドリック。
しかし、彼はそれほど走ることなく三人の背中にすぐ追いついた。
何故ならば、三人が足を止めていたから…………セドリックを待っていたわけではなくて。
四人の行く先を塞ぐようにして、一人の男が立っていた。見慣れぬ黒い法衣を身に纏っているが、その顔には覚えがある。
「……よぉ、久しぶり。宗旨替えでもしたのか?」
動揺を隠すために軽口を叩いたマグノリアに、男は沈黙と蔑視を以て答えた。
前からお喋りを好む相手ではないと知ってはいたが、この沈黙はただ彼が無口だからということではない。
冷たい双眸の中には、静かな殺意が湛えられていた。
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ルガイア=マウレは目の前の四人の廉族を、何の感情も抱かずに見据えていた。
うち三人とは一時的とは言え行動を共にしたこともあったのだが、それは彼が情を移す理由にはならない。
彼がマグノリア=フォールズの一行に加わったのはあくまでも任務のためであり、ハルト延いては魔王のためであり、廉族のことを仲間だと思ったことも仲良くなりたいと思ったことも打ち解けようとしたこともない。
だから、「王太子を誑かした廉族を排除せよ」という必要性があるのだかないのだか分からないような重要だかそうだか分からないような命令を遂行しそれらを殺害することに、何一つ躊躇いはなかった。
どうやら、目の前の廉族たちも彼がそういうつもりであるということを理解しているらしい。おおかた、シエル=ラングレーとかいう転生者にでも聞かされたのだろう。
「魔王に仕える高位体だと思っていたが、わざわざオレたちを殺しにこんなところまで遣わされてくるなんてそうでもなかったみたいだな」
シエル…エルゼイ=ラングストンが、ルガイアを挑発するように言う。が、彼はそれを聞き流した。
こちらの感情を揺さぶって少しでも自分たちの生存確率を高めようという腹積もりであろうが、その程度の軽口に苛立つようなルガイアではない。
寧ろ、そんなことでしか生き延びる道を見い出すことが出来ない脆弱な彼らに、憐憫を覚えてしまうくらいで。
無言のまま表情も変えないルガイアに、エルゼイは僅かに顔を顰め、諦めたのか剣を抜いた。傍らの風精霊が、敵意と牙を剥き出しにして身構えた。
後ろの三人は、戸惑いか恐怖か未だに戦闘の意志を見せていない。が、そんなことをしても無意味で、彼女らが戦意を見せようが見せまいが、その運命が覆ることはない。
「なぁ、ちょっと待てよルガイア。なんでアタシらを狙う?」
エルゼイと対峙し魔導杖を掲げたルガイアに、マグノリアが呼びかけた。それを聞いてルガイアは、心の中で嘆息する。
彼女らは、自分たちがどれだけ魔界に、そして世界に悪影響を及ぼしているのかまるで分かっていない。廉族の身で深くを知れというのも無理な話かもしれないが、ここまで無自覚だと流石に苛立つ。
――――まあいい。この代償は、命を以て贖ってもらう。
無言で殺意だけを高めるルガイアに、風獅子が躍りかかった。
アレは、中位精霊。本来ならば、廉族が使役しうる存在ではない。その点、天地大戦の戦士は流石に普通とは違うと見える。
…が、所詮は中位。高位魔族であるルガイアにとって、風獅子もクウちゃんも取るに足らないペットも同然だ。
術式を練る必要すらなく、ただ具象化させた魔力をぶつけてやる。圧に押し負けた風獅子が、遠くまで吹き飛ばされて地面に叩きつけられた。
契約主は、そんな従属精霊の危機に目を遣ることなく…それは覚悟の上だったのだろう…風獅子が動いたのと同時に自らもルガイアへと駆けた。
エルゼイは、短期決戦で終わらせるつもりなのだろう。長引けば長引くほど、非力な彼らに勝ち目はなくなる。
……短期ならば勝ち目があるかというと、そうでもないとルガイアは思うのだが。
エルゼイの全身が、仄かな光を纏った。内側から溢れる魔力と、周囲から彼に流れ込む魔力とが混じり合い溶け合い、エルゼイと一つの存在になる。
廉族にしては、目を見張る魔力運用だとルガイアは素直に称賛の気持ちを抱いた。魔力量もさることながら、感嘆すべきはその制御。
余程卓越した才能の持ち主が余程の鍛錬を積み重ねて初めて可能になる、種の限界を超える術。
「“天戟”!!」
「【腐滅瘴魔壁】」
エルゼイが破邪の奥義を繰り出したのと同時に、ルガイアは魔属性の防御術式を展開した。
鮮烈な光と朧な闇が、ぶつかり合う。
一瞬、両者は拮抗しているかのように見えた。エルゼイの背後の三人がそれに希望を見い出したようだった。
…エルゼイならばルガイアと互角に渡り合える、とでも思ったのだろうか。憐れなものである。
「………ぐっ…」
エルゼイが、歯を食いしばった。徐々に、闇が光を侵食しつつある。闇の中に蠢く瘴気が少しずつ光を食らい、じわじわとその範囲を広げていく。
ルガイアは、エルゼイの技を以前に目撃していた。魔王曰く、それは神託の勇者も使っていた技だと。エルゼイ曰く、それは人の身に許された限界を突破するために神聖騎士団が編み出した奥義であると。
実際に目にし、聞かされていたからこそ油断はしなかった。
魔王は戦意を見せる必要すらなく軽くあしらっていたが、それは魔王だからだ。存在値も格も何もかも違う魔族でしかないルガイアが同じように出来ると考えるのは愚かどころか不遜も甚だしい。
だからルガイアが選択したのは、極位術式だった。
高位魔族でも一握りしか行使することの出来ない最上位術式。防御系魔導で極位に位置しているのは、これと聖属性の【聖煌七護葉】のみである。
ルガイアの見立てでは、エルゼイの使う“天戟”は術式で言えば超位相当だ。それでも廉族が使う力としては信じ難いことではあるのだが、それ以上の力ならば食い潰すことが出来る。
同程度の術式で相殺するのではなく、それを超える術式で身の程を分からせる。それがルガイアの狙いだ。
性格的にルガイアは他人を踏みにじり愉悦を感じるタイプではないが、分を弁えない者は好まない。
「おい……シエル!」
遠くで、マグノリアが叫んだ。
エルゼイの“天戟”、その光が急速に消えつつあった。このままでは押し負けると、見ている彼女にも分かったのだろう。
それでも聡明なことに、彼女はエルゼイに加担することなく踏みとどまっている。自分の手に負える戦いではないと理解しているのだ。
ルガイアの用いた【腐滅瘴魔壁】は、ただの防御術式ではない。そこに含まれる高濃度の瘴気は、触れるものを汚染し腐食させる。
じきに光が消えれば、エルゼイの身体は瘴気に呑み込まれてしまう。瘴気に触れた肉は腐り溶け落ち朽ち果てそれを防ぐ術をエルゼイは持っていない。。
それが分からないエルゼイではないが、しかしどうすることも出来ないようだ。ルガイアの術は防御でありながら非常に高い攻撃力を有しており、後退しようにも彼が技を解除すればその瞬間に襲い掛かりその身を食らい尽くすだろう。
他の三人が援護に入ったとて同じこと。直接攻撃にせよ魔導攻撃或いは防御にせよ、極位級の【腐滅瘴魔壁】に対抗することは、彼女らには出来まい。
エルゼイの表情に、焦りの他に絶望めいたものがチラリとよぎったのがルガイアにも分かった。
ルガイアは、わざわざ他の攻撃術式を使わなくてもこのまま彼を排除出来ると判断し、敢えて次の術式を待機させることはなかった。
しかし。
それは、突然の変化だった。
突然、周囲の温度が急速に下がったのだ。
「……なんだ!?」
「ちょっと…次は何なのよ」
「俺様に聞かれても分かるはずないだろ!!」
後ろの三人が騒いでいる。が、ルガイアも同時に平静ではいられなかった。
ただ気温が下がっただけではない。場の空気を凍り付かせているのは、苛烈にして鮮烈な剣気。
次の瞬間。
白刃の一閃が、瘴気の壁を斬り裂いた。




