第百七十六話 出来る人だってたまには他力本願したいときもあるさ。
ハルトは、ただ無言で頭上を見上げていた。
「んふふふふ、素晴らしく美しいでしょおん?」
その背中を見つめるヴォーノの眼差しはどこまでも優しげだが口調はやっぱりこの上なくウザい。
しかしハルトはそれに答えることなく反応を見せることもなく、ただただ目の前のそれに圧倒されていた。
城の地下。厳重に封印された部屋に鎮座する巨大な氷晶。
その中に眠るもの。
「これが……父上…?」
眠るその姿は目を奪われるほどに美しく、魔王とは呼び名だけであってそれもまた神の一柱なのだとハルトは実感した。
「んーーふふ、正確には、かつて魔王陛下がお使いになられていた器…ですわねん」
「もう、使えないんですか?」
ヴォーノの口振りが何だかそんな風に聞こえて思わず尋ねたハルトに、ヴォーノは頷いた。
「残念ながら、御神との戦いの際にその躰と星の源との繋がりが断たれてしまいましたのん。だから、陛下がその器にご降臨なさることは出来ないのですわん」
そう言うヴォーノの眼差しは酷く悲しげだったがやっぱり口調はウザいままだった。
ハルトはもう一歩、氷晶に近付いた。眠っているような空っぽの器を見上げてもただ気圧されるだけで、胸に何らかの感情が湧き上がってくることはなかった。
既に星霊核との接続を完全に断たれ役目を果たすことのなくなったこの器は、父であって父ではない。
ただ、これがまだ使えたのであれば自分がこんな風に悩み苦しむこともなかったのだと、どうにもならないことでありながらほんの少し恨みがましく思ってしまったくらいで。
思わずハルトは、氷晶へと手を伸ばした。そこに何がしかの温度を感じたかったのだ。
しかし指先が触れた瞬間、とんでもない脱力感が彼を襲う。
「…………!?」
まるで全身から生気を強引に吸い取られるかのような感覚に膝をつきそうになって、必死に足を踏ん張るハルト。
なんとか踏みとどまったのだが、言いようのない危機感に氷晶から手を離した途端、反動で自身に流れ込んでくる霊素に翻弄されて、尻餅をついてしまった。
「……殿下!」
部屋のすぐ外で控えていたレオニールが、ハルトの異変に声を上げ、その傍らに駆け寄った。
「殿下、どうなさいましたか?お怪我は……」
「……? !? ??」
怪我はない。痛みもない。消耗は……今はもう、ない。
氷晶に吸い取られた分、即座に補充されたため、もう今は元通りだ。
ただ、深い深い場所から自分へと繋がる得体の知れない奔流を初めて実感し、ただ茫然とするばかり。
そんなハルトを優しく微笑みながら眺めていたヴォーノ…ハルトが白銀水晶に手を伸ばしたときも止めようとはしなかった…は、言葉を失っているハルトに背中から語りかけた。
「……ね、殿下ならば、きっとお分かりいただけたと思いますわん」
何が分かったのかは、敢えて口にしないヴォーノだった。
グラン=ヴェル帝国に魔界から宣戦布告がなされたのは、その数日後のことだった。
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信仰における地上界の中心にして頂点、ルーディア聖教総本山ルシア・デ・アルシェはその日、混乱と恐怖と不安に支配されていた。
魔界からの、一方的な宣戦布告。しかも相手はルーディア聖教の手が及ばないグラン=ヴェル帝国ときた。
そもそも、創世神ではなく魔族と同じ魔王を信仰しているとも言われる帝国に、何故魔界が攻め込もうというのか、その理由さえはっきりとは明かされてはいない。
そのせいで明日は我が身かと怯える諸国が次々と良策を求めて聖都へと使者を派遣し、教皇及び枢機卿たちはその対応と情報収集で連日忙殺されている。
「聖下、アンセルニアの使者は何と?」
「彼らもディートア共和国と歩調を合わせるつもりらしい」
アンセルニア王国は、中央大陸のほぼ真ん中、ディートア共和国の隣に位置する国家である。開放的で比較的信仰に大らかな国だが、それは裏を返せば信仰心が強固ではない、ということ。
共和制というシステム故かあまり宗教に頼ることのないディートア共和国と並び、アンセルニアの国王は今回の件で早々に白旗を揚げてはどうかと主張していた。
「愚かなことだよ、問題の本質を何も理解せず降伏さえすれば難を免れると考えているとは」
教皇は気概の無い両国に呆れた調子だが、彼らの選択はある意味で現実的なものだった。
今、魔界が本気で攻めてきたならば、それを退けるほどの力は地上界にはない。創世神はすでに消失し、天界は助けを求められるような状況にないだろう。
魔界が帝国のみを標的としているならば他の国々は安泰だが、果たしてそれで済むかどうか。
地上界に友好的だったのは魔王のみで、それ以外の魔族たちは依然として敵意を捨てていないのだ。この機に地上界を支配してしまおうと考える可能性はある。
教皇は、魔界の宰相はそこまで早まったことをする相手ではないと知っていたが、彼が予想外に強硬的な手法を取ってきたことに少なからず驚いていたし、ある意味でギーヴレイ=メルディオスという男を甘く見ていたのだと痛感もしていた。
「或いは、彼すらも追い詰めるような何かが起こっている…ということなのかね」
「……聖下?」
「ああ…いや、何でもない」
教皇と魔界との繋がりを知る者は少ない。そして、直接向こうと交渉が出来るのは教皇のみである。しかし、再三にわたる会談要請は素気無く突っぱねられてしまった。どうやら向こうは、相当しびれを切らしているらしい。
――――ハルトを取り戻せば、彼らは大人しく魔界へと帰るだろう。帝国も、特に抵抗なくハルトを引き渡せば滅亡までは避けられるはず。
魔界が軍を動かすということは、ハルトの身柄は帝国に守られていると考えていい。皇帝の考えは分からないが、祖国と魔界の王太子とを天秤に掛けるような愚行は冒すまい…と思いたい。
だが……宣戦布告されてなおそうする気配が見られないというのは、どういうことか。
まさか、魔界と徹底抗戦だなんて馬鹿げたことを考えているのでは……
帝国があまりに強硬姿勢を貫くのは、地上界の益に反する。信仰する対象がどうであれ、魔界から見れば帝国もそれ以外の国々も同じ「地上界の国家」なのだ。とばっちりがこちらまで波及する可能性は大きかった。
ならばさっさとハルトの身柄を引き渡してもらいたいかというと、教皇の個人的心情においてはそうではなかった。
魔界が、どういうつもりでハルトを欲しているかは分かっている。その場合、ハルトがどうなってしまうのかということも。
それは魔王の真の願いではないだろう。あれは、非常に甘い面を持っている。情に流されるというか、ほだされるというか。酷く冷徹で残酷な面と共に、情に弱いという相反する面も持ち合わせている矛盾した存在なのだ。
それは魔界の宰相とて知っているはずだが、どうも目を逸らしたがっているフシがあると教皇は気付いていた。
おそらく、ギーヴレイ=メルディオスは魔王の怒りを買うことを承知の上で、事を進めるつもりだ。それもまた彼の忠義の表れなのだが、魔王の臣下ではない教皇にそれは受け容れ難い。
教皇グリード=ハイデマンにとって、魔王は魔界の統治者だとか創世神と対を成す神であるとかそういう要素は二の次なのだ。
彼にとって魔王は、しっかり者のようでどこか抜けていて無敵のくせに意外とテンパりやすくて自分にも他人にも甘いところがある、世話の焼ける息子のようなもの。
そんな息子が、自身の行為がもたらした予期せぬ結果に悲しむことになるのは、父として承服出来ない。
ならば、どうすればいいか。
ハルトを救い、世界の異変を止める術は。
現在自分が持っている全ての情報を整理し精査し、グリードは結論を出した。
「……彼女に連絡を。出来るだけ急いでくれ」
「承知致しました」
短い指示。だがその言葉の意味は重い。
神の力を借りることが出来ない以上、彼ら廉族には奇蹟を祈る他ない。
そして、奇蹟を起こすだなんてことが出来そうな心当たりは、グリードには一人しかいなかった。
いよいよあの人のお出まし…でしょうか。ってその前にいい加減、メインヒロインを出さないと。




