第百七十五話 出来る人にも出来る人の悩みってあるんだろうけど出来ない人間にはよく分からない。
会議が終わり、参加していた銘々は驚愕だったり不安だったり疑問だったりを冷めやらぬまま引き摺って立ち去っていった。
「…良かったのか?ここまで性急に進めたのでは、反感も大きくなろう」
「時間がない」
ルクレティウスの、どこかギーヴレイを気遣うような言葉に、ギーヴレイもまた同じような様子で項垂れた。
「…たかだか地上界如きに動いてもらってすまん」
つい先日まで、ギーヴレイにはルクレティウスを動かすという気はなかった。それどころか、出来る限り事を穏便に済ませたいという気持ちが強かった。
しかし、その後ももたらされる報告の数々と動かない自分たちの状況、広がり続ける天空の亀裂にこれ以上の静観は出来ないと判断を下したのだ。
「何を言う、儂は武人ぞ。戦いの場なくしては息が出来んわ。先回の大戦の折もここで留守番だったからのう、寧ろお主の心遣いと受け取ったぞ」
天界相手ならばまだしも、地上界相手にルクレティウスを出陣させることに申し訳なさを感じているギーヴレイに対し、ルクレティウスはあっけらかんと笑った。最強の武将と呼ばれながらも武王一の穏健派でもあるルクレティウスだが(イオニセスは一見穏健派だが内心で何を考えているのか分からない)、戦そのものは大好物である。規模こそ小さいが天地大戦以来の出番に、紛れもない高揚を見せていた。
…が、その高揚もすぐに消え去る。
「だが、本当に良いのか?陛下がお目覚めになった後でこのことがお耳に入った場合…」
魔王は地上界のことも、魔界と同様に気に掛けていた。天地大戦時とは打って変わり、その未来と平和を願っていた。
いくら王太子を連れ戻すためとはいえ、ギーヴレイの判断は魔王の意志に反する。それは許されざる裏切りと受け止められても言い訳は出来ない。
しかし、
「構わんよ。いずれ陛下にお戻りいただいた際にこの世界がどうしようもなく歪んでしまっていたら、それこそ許されざる失態だ。あの御方には、完全な世界をお渡しせねばならない。我が命一つでそれが賄えるのであれば惜しくはないさ」
表情一つ変えず、ギーヴレイは言った。そしてそれが彼の偽りなき本心であると知っているルクレティウスは、やれやれと肩を竦めるしかなかった。
「それから」
突然声を潜めるギーヴレイ。内々に進める事柄のようだ。
「この他には、やはり戸裏の蜘蛛を動員する。ルガイアと合流させ、奴に指揮させるつもりだ」
「蜘蛛を動かしてどうするつもりだ?」
「……ハルト殿下を唆し余計な考えを吹き込んだ者共が地上界にいる」
一層低くなった声は、他に聞かれたくないというより怒りを爆発させないようにしたためだ。
「ああ……廉族の、何だったか……遊撃士とかいう連中と行動なされてたらしいな」
「今まで我らの言葉に何も疑問を持たれることのなかった殿下が、地上界に行って変わってしまわれた。あのような者共と関わることがそもそもの間違いだったのだ」
地上界の実質トップである教皇に言われ、半ば自身も情にほだされる形でハルトの地上界滞在を認めてしまったギーヴレイだが、今はその決断をひどく後悔していた。
「……そ奴らが、殿下を誑かしたと?」
「そう考えるしかあるまい。ならば害悪は全て排除しなくては」
地上界でハルトに近付き誑かした不届き者には、退場してもらわなくてはならない。
本来ギーヴレイはそれをアスターシャかディアルディオに頼むつもりであったのだが、そして地上界侵攻についてもそうしたかったのだが、未だに両名からの連絡はなかった。
「あの二人は、相変わらずか」
「まったくもって、けしからん。あ奴らには陛下への忠義というものが欠けている」
アスターシャは軍を辞した身であるため仕方ないかもしれないが、ディアルディオはれっきとした現役武王であるにも関わらず、一切の協力姿勢が見られない。
もともとそういう傾向の強いところがあったのでそれについては半ば諦めているギーヴレイではあるのだが。
それでも、ぼやかずにはいられない。
「レオニールも同じだ。殿下の護衛騎士でありながら主君の一時の気まぐれに振り回されるとは言語道断。奴に至っては忠義を履き違えている」
レオニールの場合、アスターシャやディアルディオよりもタチが悪い。魔界がハルトを連れ戻したがっていると分かっていて、そしてそれには理由があるということも分かっているはずなのに、それを阻害したのだから。
ハルトを連れ戻すために地上界へ遣わした捜索隊のうち、戻ってきたのは一人だけだった。それも、満身創痍で。
王太子の護衛騎士が、魔界の総意に反旗を翻し刃を向けた。それは万死に値する所業。
しかしながらレオニールは、武王に次ぐとも思われる実力者。おそらくはハルトのすぐ傍で付き従っているであろう彼を排除するには、生半可な者では務まらない。
だからこその戸裏の蜘蛛であり、だからこそのルガイア=マウレだ。
「………ハルト殿下は、どのようにお考えになるだろうか?」
「…………………」
ルクレティウスがポツリと漏らした呟きに、ギーヴレイは答えなかった。
「今回ほど、自分が情けないと思ったことはない」
その代わり、関係ない方向から返って来たのは嘆き。
ギーヴレイは、ついさっきまでの憤りは何処へやら、すっかり肩を落としている。
ルクレティウスは、何も言わずに待ってみた。ギーヴレイという男はとにかく完璧主義でそれを全て実行に移す能力を持っていて、弱音を曝け出すことがほとんどない。そのため、長い付き合いであるルクレティウスもどう反応すればいいのかが分からないのだ。
「……陛下さえおられれば、このようなことにはならなかったのだ。あのときも、今も……」
あのとき、というのは天地大戦以降のことだろう。魔王が異世界で封印されていた間、彼ら武王は主の不在を護ろうと試みたが、秩序が保てたのは魔都周辺のみで、辺境は荒れに荒れてしまった。
魔王はそのことを然程気にしてはいないようだったし罰も咎めもなく、寧ろ厚い労いの言葉が掛けられたりもしたのだが、ギーヴレイ自身は己を許してはいないのだろうということは、傍目にも明らかだ。
「理が歪み始めていることに関しては、私にもどうにもならないこと。我ら卑小な存在には、それに触れることは許されていない。……だが」
立ち止まり、行き場のない思いを拳に乗せて壁に叩きつけるギーヴレイ。同じことを肉体派であるルクレティウスがやれば間違いなく廊下に新しい出入り口が出現するところだったが、頭脳派であり肉体的には劣っている妖魔族であるギーヴレイなので、壁にはヒビが入っただけで済んだ。
「結局私には、臣下たちを完全に統制することが出来ていない。陛下の御名を出してさえ、この体たらくだ。陛下がただ一言下さるだけで全ては容易く進むことのはずであるのに、私では御前を整えることすらままならない……!」
「考えすぎだぞ、ギーヴレイ。陛下もお主の手腕にはいたく感心なされていたではないか」
ルクレティウスの目から見ても、魔王はギーヴレイを信頼しきっていた。彼に任せれば全てが上手くいくと、何も心配はないと太鼓判を押しているところを彼も目撃したことがある。
「陛下の寛大な御心には感謝してもしきれない。が、あの御方の優しさを己が能力と勘違いするほど私は愚かではないさ」
しかし、肝心のギーヴレイ本人がそれを真に受けていないのだから(彼とて魔王からアテにされていたと自覚がないはずないだろうに)、それ以上慰める言葉が見付からない。
「…………まぁ、お主がそう言うのであればそうなのだろうがな。……ならば、これから挽回するしかないというわけだ」
「そのとおり。私は、自分にはもう後がないと考えている。如何に陛下が寛大であられようとも、度重なる失態に咎めなしというのは他の者への示しも付くまい」
奇妙な感じに拗らせている忠誠心に突き動かされ、ギーヴレイは決意を新たに拳を握りしめた。
その何とも言えない緊迫感をどうにかしたくて、ルクレティウスはふと思いついたことを口にした。
「…………そう言えば、エルネストの奴は一体何処で何をして何を考えているのやら」
「………………あれについては、もう何も言うまい」
魔界一懸案事項の名前に、ギーヴレイは再び肩を落として盛大な溜息をついた。
どうやら、場を和ませようとするルクレティウスの狙いは不発に終わったようだった。
ギーさんにも色々あるのね、て話です。




