第百六十一話 嫌な夢って目覚めた後に夢で良かったって安心するのとなんでか動悸が収まらないのと二種類ある気がする。
不意に気付いてしまった。自分が、一人きりであるということに。
「…………あれ?」
見渡す限り真っ黒な背景に塗りつぶされていて、他には何も見えない。
「……師匠?アデルさん、セドリックさん……ネコ?クウちゃん?」
親しみのある名を呼ぶ。傍にいてもらいたいと望む者たちの名を。
けれども、返事はない。
「ギーヴレイ?レオ……エル、いないの?」
近しい者たちの名を呼ぶ。誰よりも頼りになるはずの者たち。それでもやはり、返事はない。
彼には分かっていた。誰に教わるでもなく、自身で学んだことでもなく。ただ彼の本質が、そういうものなのだと彼に告げていた。
ここには、全てが揃っているが何もない。彼以外に、何者も何物も存在しえないのだと。
ただ真っ黒なその場所は、終わりでもあり始まりでもある点。彼はここからどこへだって進むことが出来る。
どんな方向に、どんな色で、どんな感触で、温度で、柔らかさで、形状で。全ての選択は彼に委ねられ、全ての権限は彼に預けられている。
彼はここで何をしたって構わないし、何をしなくても構わない。それを咎める者はいないし、咎められる者はいない。
何もかもが彼の手の中にあって、彼は何処までも自由だった。
そして、彼はそうあらなければならなかった。
それなのに。
それなのに、彼は踏み出せない。目の前の無明の闇に怯え、無尽の時間に怖じ気付き。
彼は、それを為すにはあまりにも小さすぎた。あまりにも、弱すぎた。
「……メルセデス……」
共に在りたいと思う者の名を呼ぶ。彼の道標、指標となる者の名を。
返事はなかった。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
「はるとー、はるとー、あさ!」
「…………………!」
目を開けた途端、自分の上に乗っかって顔を覗き込んでいるクウちゃんと目が合った。そのすぐ隣には、ネコもなんだか気遣わしげにハルトを見つめている。
「あ………朝……夢?」
もそもそと起き上がり、大きく息を吐きだす。寝間着が汗で濡れていた。まだ動悸が収まらない。夢であって良かったと安堵してもいいはずなのに、どうしてだかそう思えなかった。
「はると?」
「んににー、にゃう」
「…ん、ゴメン。ちょっと嫌な夢見ちゃったみたいで……」
嫌な夢……そう、嫌な夢だった。最悪な夢だ。
夢に決まっている。自分の内心の不安とか焦燥が形になっただけの、ただの幻。
なのに、なんでだろう。嫌な感じが全然消えてくれない。もやもやとした何かが、じわりじわりと胸を覆う。
目の前には、クウちゃんがいる。ネコもいる。きっと階下には師匠やアデルさんやセドリックさんもいるのだろう。
ちゃんとみんないて、ここは帝国のサヴロフ商会の建物で、昨日までと何も変わらない。明日もきっと今日と何も変わらない。
窓の外に目を転じても、何の変哲もない朝の光景が広がるばかりだ。塗り固めたみたいな黒なんて、どこにもない。
…ほら、空だっていつもどおりの色で広がって………
「……………え?」
そこに、あるはずのない亀裂を見てとって、ハルトは大慌てで階下へ駆け下りた。
「師匠!」
「お…おう、ハルト。お前も起きたか」
階下ではもうほとんどの者が起き出していた。まさかまさかの、アデリーンまでも。
全員が、落ち着かない様子でざわついている。ハルトが見たものが、彼の幻覚ではないのだという証拠だった。
「師匠……あれ、あの、外の………」
「あー、お前も気付いたか。…ってそりゃそうだな、気付かないわけないよな」
何と言ったらいいのか分からずに狼狽えて窓の外を指差すハルトの視線を追ってマグノリアも空を見上げた。徒に不安を煽らないように敢えて気楽な口調を意識しているようだが、それでも緊張と不安が隠し切れずに漂っていた。
彼らの視線の先。本来ならば、朝日に染められ一日の始まりを祝福しているはずの空は、普段とは違う様相を呈していた。
東の空に、巨大で不気味な亀裂が走っていたのだ。
普通の自然現象には思えない。こんな現象、誰も見たことも聞いたこともない。こういったことに博識なアデリーンやセドリックさえも、皆目見当がつかない。
ただ亀裂の向こう側には黒々とした闇が垣間見えて、時折、稲妻のような光が亀裂の周りを走り抜けている。
ここからは、かなりの距離がある。何か異常があるにしても、すぐさま影響が現れることはなさそうな距離だ。
しかし、だからといって安心出来るような光景ではなかった。
それが自分たちのいる場所にどんな影響を及ぼすことになるのか、知っている者は誰もいないのだ。
「ダメだ、ダニール。情報が錯綜しまくってて何がなんだか分かんねーよ」
外から商会員の一人が飛び込んできて、ダニールに報告した。おそらく、ヴァシリーサ中を駆けずり回ってツテを頼りこの現象の情報を入手しようとしたのだろう、彼は汗でびっしょりになって肩で息をしていた。
「神殿もすっげーざわついてるし、とてもじゃないけど部外者が入れるような感じじゃなかった。街中はもっと騒ぎになってる。役所に押しかけてる連中も多かったけど、どうにもならないみたいだ」
「ヴォーノさんとこはどうだ?あの人なら、何か掴んでるかもしれない」
「留守だった。屋敷の使用人も、何処に行ったか知らねーって」
どうやらヴォーノは実業家としての顔だけでなく、情報通でもあるらしい。ダニールの口から真っ先にその名が出てきたということは、こういう有事に頼りになる人物だということなのだろう…その人間性はさておいて。
「なぁ、ダニール………大丈夫なんだよな…?」
「ここからは離れてるし…被害が出たって話も聞かないし……なんか光の具合で変な風に見えてるだけとか」
「きっと今頃、帝国騎士団も動いてるんだろ?だったら心配要らないよな」
口々に、自分たちの安全を裏付けしてもらいたい連中がダニールに詰め寄る。彼がそれを裏付けられるはずもなく、彼にそれを裏付ける力などないと誰もが分かっているというのに。
「落ち着けってお前ら。今ここでそれを言っても意味ないだろ。俺だって、何がどうなってるのか、これからどうなるのか分かりゃしねーよ」
ダニールは頼りになる彼らのリーダーではあるが、それはあくまでもサヴロフ商会にとって、である。具体的に言えば、痲薬製造・流通・販売に関わる犯罪組織のリーダーとして、である。
空がひび割れるだなんて未知の現象に、彼が責任を持てるはずがない。
「……どう思う?」
「どうって……私にだって分かるはずないでしょ」
そんな商会員たちを横目に、マグノリアたちも現状を話し合う。
「あれさ、もう痲薬取引だとか皇帝派と貴族派とかそういうレベルの話じゃないよな……それこそ魔王復活レベルのヤバさを感じるんだが」
マグノリアは、根拠があって言ったわけではない。ただ、空が割れるという不気味極まりない現象を、そう例えるしかなかったのだ。
それは図らずも真実に近い推察だったのだが、彼女がそれに気付くはずもなく。
「って言っても、今のところ何も実害はないわよね。私たちがどうにか出来るようなことじゃないし」
亀裂は、東の空に広がっていた。遠すぎるのと巨大すぎるのとではっきりは分からないが、走り抜ける稲妻の音が微かにしか響いてこないことから、おそらく中央大陸の上空ではないのだろうとアデリーンは踏んでいた。
「あっちの方角だと……ザルツシュタットとかそっちの方だよな」
セドリックは頭の中に地図を広げた。帝国は海を隔てた東にも領土を持っていて、大陸と呼ぶほどには大きくないが島と呼ぶにはやや大きい陸地には幾つもの街があり、多くの人々が住んでいる…はず。
「そのうち、そこから情報は上がってくるだろうよ。問題はそれを俺たちが知らせてもらえるかだが、嫌でも噂は広がるはずだ」
もしこの現象がのっぴきならないものである場合、帝国が掴んだ情報を開示するとは限らない…というか開示するとは思えない。
独裁者にとって…否、国家にとって一番怖いのは統制の取れなくなった民衆の恐慌状態だ。
しかし、それこそ精神支配のような超常の力で人々を操りでもしない限り、必ず情報はどこかで漏れる。事が事だけに、それらは無責任な噂となって国中…世界中を駆け巡ることだろう。
そんな噂の中から真実だけを拾い出すのは不可能に近い難行ではあるが、しかし必ず真実はそこに含まれている。
「とにかく、今は様子を見るしかないだろ。何でもないただの自然現象かもしれないし、そうじゃないとしたって出来ることがない」
「…ああ、セドリックの言うとおり…だな。とりあえず、事態がどう転んでも対応できるように用心だけはしとくか」
「えーーーーー、私そういう面倒なのパス」
ひとまずの結論に達した仲間たちを、ハルトは何とも言えない表情で見ていた。夢の中と同じ嫌な感じが、今も消えない。
となれば、それらには何か関連があるということ。
しかしそれをどう伝えたらいいのか分からずに、彼はマグノリアへと伸ばしかけた手を下ろした。
そんな彼の様子を、少し離れたところから観察するサーシャがいた。
静かで鋭い眼差しでハルトを見つめ、しかし彼女が自分から何かを語りかけることはなかった。
自分の夢は大抵が仕事絡みです。そしてほぼ100%悪夢です。
どんだけストレス溜まってるんだか…内容的には大したことじゃないんですけどね、遅刻する夢とか。




