第百六十話 よくないことって大抵知らないうちに進んでいたりする。
時は少し遡り、ハルトたちがサヴロフ村を出て帝都へと向かおうとしている頃。
魔界では、密かな騒ぎが起こっていた。
密かな…というのは、情報統制が徹底されているからだ。現在の魔界は、宰相であるギーヴレイ=メルディオスの指揮下、非常に強固で安定した地盤の上に統制されている。
神を失った天界・地上界とは違い、魔界には未だ魔王の加護が働いている。しかも後継たる王太子も健在で、そういった事情から混乱は起こりにくい土壌があった。
その上、ギーヴレイが魔王より賜った権能は“秩序・統制”、まさしく魔王の留守を預かるに相応しい能力。
それらのおかげで、魔界は三界の中で最も安定した統治体制を築いていたのだが。
「状況は変わらずか、ギーヴレイ?」
問うたのは、同輩であるルクレティウス=オルダート。尋ねはしたが、ギーヴレイの晴れない表情に、期待は出来ないと即座に察する。
「ああ、何度試しても同じことだ。只の不具合であれば問題ないのだが…」
「他とは繋がっているのであれば、そうではあるまい」
「…………向こうで何かが起こっている、ということか」
二人が難しい顔をしている原因は、天界にある。
聖戦の後に相互不可侵条約を締結した両界ではあるが、実は完全に関わりが途絶したわけではなかった。
天界の最高指導者である皇天使グリューファスとの合意で、双方が互いに連絡を取り合うことになったのだ。
頻度はそれほど多いわけではない。矛を収めたとはいえ、天界そして天使族は決して「おともだち」ではない。しかしギーヴレイとグリューファスは定期的に連絡を取り続けてきた。
それは、世界の維持に影響を及ぼすような異変を事前に察知し対策するための、重要な行為。
創世神の消失により、聖戦は幕を閉じた。そして、魔王もまた深い深い眠りへとついた。
神の不在というこの世界始まって以来の未曽有の現象が何を引き起こすことになるのか、全くの未知数だ。
だが、理を司る存在が消えた今、僅かな綻びすら世界に大きな影を落とすことになるだろう。
主である魔王は、そこまで先のことを見据えていたのだ、とギーヴレイは考えている。だからこそ、後継者を遺したのだ…と。
来たるべき混沌と試練の日に向けて。
世界は魔界だけで成り立っているわけではない。特に天界は、創世神の影響を最も色濃く受けた場所だ。それゆえに、神の消失による異変が最も大きくそして早々に現れるとしたら、その舞台は天界になるに違いない。
ギーヴレイも、そしてグリューファスも同じように考えていた。
空間を繋ぐ“螺旋回廊”の技術を応用した念話装置により、双方向通信は可能になった。そこで彼らは互いに近況の遣り取りを交わしていたのだが。
ここ最近、天界からの連絡が完全に絶えてしまったのだ。
魔界からの通信も、全く繋がらない。繋がらないだけではなく、本来ならば感知されるはずの向こう側の信号が消えている。念話装置が破壊されたか何者かに故意に阻害されているかでなければ、ありえないことだった。
「……………………」
「………ギーヴレイ?」
「ルクレティウス、今すぐディアルディオを呼び戻してくれ。どうも嫌な予感がする」
「……承知した」
ひどく難しい顔をしたギーヴレイの要請を即座に引き受けるルクレティウス。彼が「嫌な予感」というからには、それは極めて憂慮すべき事態が進行しているとみなすことができる。
「ルガイアには引き続き地上界にいてもらう。それから……」
一瞬、ギーヴレイが言い淀んだ。少しだけ表情が揺れて、それから何事もなかったかのように付け足した。
「ハルト殿下には、魔界にお戻りいただくことになるだろう」
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既に綻びは始まっていた。
それはもしかしたら、聖戦よりも前からのことだったかもしれない。
世界が安定して存続するための楔。再び混沌へと戻らぬよう創世神により整えられた理。滅びの波から世界を守る防波堤。
小さな亀裂は、修復する者のない状態で少しずつ広がっていく。
最初は誰にも気付かれないほどに小さな小さな傷だった。しかし絶えず寄せる混沌への潮流に削られて徐々に大きくなっていく傷はやがて、防波堤の守りを突き崩すことになる。
そうなったところで初めて気付いても、全ては遅すぎたのだ。
なんだかキナ臭い感じになってきました。




