第百四十五話 眠れる王
グラン=ヴェル帝国の帝都、ヴァシリーサ。
大陸最北部に位置しながら、高度な文化と発達した経済に支えられた、極北の理想郷。
その力の源泉が何なのか、他国はもとより帝国の上層部にさえ知る者は少ない。
皇城の廊下を、一人の男が歩いていた。青年というには経験を感じさせる容貌、壮年というには若々しい覇気に満ちた風情。
北方に多い淡い白金色の髪に、灰青色の鋭い瞳。身に纏う重厚で豪奢な衣装は彼がやんごとなき身であることを示している。
彼が歩く廊下には、窓一つなかった。その代わりに、等間隔に設置された照明が薄ぼんやりと行く先を照らす。
供は誰もいない。彼は一人きりで、歩を進める。その足取りに迷いはなく、しかし表情には緊張を滲ませて。
突き当たりの、両開きの扉。材質もさることながら、扉に刻まれた文様はいかなる刃も通さない結界だ。…否、この先の部屋そのものが、非常に高度かつ強力な結界を重ね掛けした、神聖にして不可侵の牢獄。
扉を押し開き、中へ進む。ここに足を踏み入れることが出来るのは、帝国の皇帝である彼と結界を敷いた最上位の宮廷魔導士たち、そしてあと一人だけ。
それ以外の者は皆、権限的にも現実的にも入ることを許されていない。と言ってもこの部屋の存在を知っているのが許された者たちだけなのでその心配はないのだが、もし他の者が無理に侵入しようとすれば、排除の結界が容赦なく襲い掛かることだろう。
部屋の中に、照明はない。それなのに暗闇に閉ざされていないのは、部屋の奥にあるもののせいだった。
巨大な結晶。ちょっとした舞踏会場にでも出来そうなくらい広い部屋のほぼ半分を占めるそれは、氷に見えて氷ではない。
例え結界の中であっても、それに触れることはそのまま滅びを意味することを知っている皇帝は、一歩離れたところからそれを見上げる。
不思議な結晶だった。そのものが光を発し、その光は七色に揺らめいている。
淡い光なのに、見ていると心の底から畏怖と恐怖と、言いようのない懐かしさがこみ上げてくる。矛盾したその感情に翻弄されるのは、彼にとっては嫌なことではなかった。
「あら、まぁたここにいらしてたのですねん」
不意に、背後から声が掛けられた。皇帝は驚かない。声の持ち主は神出鬼没で、そして彼でさえ御することの出来ない相手なのだと分かっているのだ。
だからその人物が臣下の礼を取らなくても、不敬を咎めることはしない。
「前にも申し上げましたでしょぉ?その光はあんまり見過ぎると毒ですってぇ」
「……分かっておる」
絡みつくようなうざったい口調はいけ好かないが、それが真実であるとも分かっている。皇帝は同意を示すように氷晶から目を逸らすと踵を返した。
「よっぽどここがお気に召したんですのねぇん?」
「……我らを導く神の御前に拝したいと思うのは当然のことであろう」
それだけ言うと皇帝は、面白そうな表情で佇むその人物の横を通り過ぎて部屋を出た。
そのまま振り返ることなく歩き去っていく。
皇帝の背中が遠ざかり、階段の向こうへ見えなくなってから、その人物は部屋の中へ視線を向けた。
鎮座する氷晶の、その中に眠るそれを、愛おしげに見つめる。
皇帝には毒だと言っておきながら自分はしばらくそのまま、見つめ続ける。
やがて淋しげに目を伏せると、ようやく部屋を出た。
再び重い扉に手をやり、それが完全に閉ざされる寸前に細い隙間の向こう、眠る影にもう一度だけ視線を送り。
「…もう少しだけ、良い夢を…ですわねん。きっとすぐにお忙しくなると思いますわよん……ね、陛下」
そんな呟きを、部屋の中に残して扉を閉じた。
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「おや、マグノリアさん。どうかなさいましたか?」
「いや、別に。散歩くらいいいだろ?」
村はずれをブラついていたら、クヴァルに出くわした。
今日はセドリックの授業もお休みなので彼もフリーなのだろうか…いや村のリーダー格である彼の仕事が勉強だけであるはずがないので、今もおそらく仕事中なのだろう。
…まるでマグノリアを見張っているかのようなタイミングで現れたことといい。
「別に構いませんが…村の施設へ無断で立ち入ることはやめていただけますよね」
「もちろんだろ、そこまで不躾じゃないよ」
昨夜セドリックに言われなかったら、そんなこと考えなかったと思う。村人であるクヴァルが村の何処にいたって不思議ではないのだから。
しかし、用心しろと言われて用心してみれば、不自然だ。
村のリーダーであれば、仕事も多かろう。こんな村はずれで油を売っている暇などないはず。
おそらく彼は、マグノリアたちが彼に対してそうしているように、マグノリアたちのことを用心し、観察している。
村に引き入れて滞在させていることから、敵意はないのだろう。村の人たちも、案外に友好的だ。今のところは、余所者は出ていけ的な排除行動は誰も見せていない。
閉鎖的排他的になってもおかしくないような辺境なのに、この開けっ広げさは何なのだろうか。
「なぁ、来たときから気になってんだけど、この建物は?」
マグノリアは、立ち並ぶ建物群を指差す。細長く巨大な箱のような建物が、ずらりと並んでいる。どれも同じ無機質なデザインなので、どれも同じ目的の建物なのだろう。
「農作物の栽培施設ですが……中を見ますか?」
「え、農作物?栽培施設……て、畑ってことか?」
工場のような外見が畑とは思えず戸惑うマグノリアに答える代わりに、クヴァルは建物の一つに向かうと扉にかけられた錠前を外した。
視線でマグノリアを誘うと、中へ入った。
実を言うとそこまで興味が強かったわけではないのだが、マグノリアもつられるように中へ。
入った途端、目を見張った。
確かにそれは、畑だった。
外からは見えなかったが、内部に光が射し込んでいる。幾重にも畝が作られて、まだ青いが多くの実が緑の中にぶら下がっていた。
「なぁ、どうして建物の中で畑を作ってるんだ?」
素朴な疑問。わざわざ屋内で作物を栽培するなんて、マグノリアは見たことがない。
「この季節は問題ないのですが、帝国の夏は短いのです。一年の半分が冬ですからね。屋外は栽培に適していないのですよ」
「けど、雪がなけりゃいいってもんでもないだろ?」
リエルタもそれなりに北国なので、分からないわけではない。霜が降りる季節になってしまうと、余程寒さに強い品種でなければ栽培は不可能だ。
「ええ、勿論です。ここは地熱を利用した施設なので、一年を通して作物の栽培が可能です」
「………ちねつ?」
地の熱、ということか。言われてみれば、心なしか暖かい…ような。
「共同浴場はもう利用されましたか?あれは温泉なんですよ。その熱を利用して、冬でも栽培が可能な環境を作り出しているのがこの施設です。これがなければ我々は、到底冬を越すことが出来ないでしょう」
クヴァルの説明を聞きながら、マグノリアは舌を巻いた。
言い方は悪いが、ここはリエルタどころではない田舎である。トーミオ村のあったボルテス子爵領といいとこ勝負だ。
そんな田舎で、これほどまでに高度で大規模な栽培施設…だなんて。
こんなもの、タレイラでだって見たことがない。
「はー…凄いもんだな、帝国の技術ってのは」
「必要に駆られた結果ですよ。温暖で豊かな場所であれば、こんなものは必要なかったでしょうね」
「なぁ、後でセドリックにもここを見せてやってもいいか?」
唐突に問われ、クヴァルは眉をひそめた。
「別に構いませんが…どうしてですか?」
「え、あ、いや、それは……」
つい言ってしまったのだが、理由を聞かれると困る。
マグノリアとしては、次期国王であるセドリックにこれを見せれば、サイーアでも同じような技術の開発に着手してくれるのではないかと思ったのだ。
そこまで愛国心に富んだ彼女ではないが、国や自分たちが豊かになるのは大歓迎である。
しかしそれを話すと、セドリックが王族であることがバレてしまう。流石にそれは、マズいだろう。
「あー、あいつは知的好奇心が強くってさ。学習意欲も旺盛だから、喜ぶんじゃないかなーって」
「…そうですね、彼の授業はとても新鮮で、また視野も広く色々と学ばせていただいております。お礼にこちらの技術をお教えするのもいいかもしれませんね」
クヴァルの高評価に、自分も一度セドリックの授業を受けてみたいと思うマグノリアだった…が。
幼年学校時代の自分の授業態度(居眠り常習)を思い出し、やっぱりやめておこうと思った。
お気に入りのあの人が出せました。




