第百三十四話 彼女の原点
「なぁハルト。お前もしかして、実家と折り合い悪いとかそういう感じか?」
「……………」
ハルトは返事をしなかったが、マグノリアは全く当てずっぽうに言ったわけではないし全くの的外れというわけでもなさそうだ。
世間のことを何も知らない箱入り息子が、好きな相手を追いかけて家を出て頑なに帰ろうとはせず、出逢って間もない赤の他人であるマグノリアやアデリーンばかりを頼りにしている点。
公爵家の跡取りというだけでも相当の重圧があるだろうし、英雄だった父親と比較され同じだけのものを期待されてそれに反発してしまうことだって、あるだろう。
貴族の子女ならば誰しも似たような境遇にあるかもしれないが、ハルトの場合はその中でもさらに特殊だ。
なにせ、父親はあの剣帝。人の身で創世神の荒魂を滅ぼし、命と引き換えに世界を救った聖戦最大の英雄。
そんな父親に対し息子が抱く感情が、単純な憧憬や尊敬だけに収まるとは限らない。
マグノリアは、あまり他人の事情に踏み込むのを好まない。相手から話して来れば付き合うくらいはするが、敢えて聞き出すほどお節介ではない。
…が、これから危険かつ厄介極まりない帝国へ乗り込もうというのだから、不安の種は取り除いておきたい。
今のハルトは、なんだか自棄を起こしてしまいそうに見えた。
彼が何かを抱えていて、それと帝国へ行くなんて言い出した原因はおそらく密接に繋がっている。
「家に帰りたくないって言ってんのも、メルセデスのことだけか?」
「……………」
「ここ最近様子が変なのも、実家絡みじゃないのか?」
「……………」
…やはり、話そうとしない。
彼が剣帝の息子だということはもうマグノリアにも知られているわけだし、それ以上に何を隠したいというのだろうか。
「……ま、いいや。お前が何も話したくないっていうなら、そうだなぁ……一つ、アタシの話でもしようか」
「…………?」
マグノリアだって、他人のことを言えない。今まで彼に自分のことを話したことはなかったのだから。
「アタシの…つーか、アタシの親のこと、かな。……実はな、お前ほどじゃないけどアタシもそれなりの家の血を引いてるんだぜ?」
「……師匠が?」
ちょっと待てなんだその意外そうな表情は。ようやく反応を見せたと思ったらそれか。そんなに上流階級が似合わないってかこの野郎。
ハルトの反応が若干面白くないマグノリアだったが、ここでツッコむと話の流れが遮られてしまうのでここはスルー。
「ま、金で爵位を買った系の成金ではあるんだけどな。んで、母親がそこのお嬢様。親父はそこの庭師の息子でさ」
よくある話だ。
裕福な家の世間知らずなお嬢様と、身の程知らずな使用人。幼い恋慕。向こう見ずな情熱。
「案の定、家の人間には猛反対されて。で、お約束どおり、二人は駆け落ちしたわけだ。……駆け落ち、分かるか?」
ただでさえ常識も世間も知らないハルトには馴染みがない言葉かと思って訊ねてみたら、やっぱり首を横に振った。
「駆け落ちってのは、周りに関係を反対された恋人たちが、誰にも邪魔されない場所へ逃げること。逃げるってのは語弊があるかもしれないけど………いや、まぁ、逃げること…だな」
説明してから、しまった余計な知識を与えてしまったかも、と気付く。が、大人しく話を聞いているハルトが、「それはいいですねじゃあボクもメルセデスと…」とか言い出す様子はなさそう。
「で、アタシの両親は家も故郷も捨てて逃げた先で一緒になった。そのときに寄る辺ない二人を憐れんで祝福してくれたのが、今の教皇。そのときは多分、まだ枢機卿か大司教だったはずだけど」
昔父に聞いた話によると、帰る家もなくロクに財も持っていない若い恋人たちは、小さな小さな教会でひっそりと、自分たちだけでささやかな結婚式を挙げたそうだ。
どこから話を聞きつけたのかそこに現れたのがグリード=ハイデマンで、既に聖央教会の重鎮となっていた彼から直々に祝福を受けたことで、二人の心に巣くった後ろめたさは晴れたのだと。
「教皇さんは、師匠のご両親の恩人、なんですね」
「ん、まぁ、そう言える…のかな。そうなんだろうな」
恩人であることは確かだ。ルーディア聖教徒において、神の…神官のお墨付きを得られるか否かという問題は非常に大きい。
家の反対を押し切って飛び出してきた若い二人が堂々と生きていくことが出来たのは、そのおかげだ。
物心ついた頃の幼いマグノリアの記憶に薄っすらと残る光景の中にいる両親は、とても幸せで満ち足りているように見えた。
だから、そのままでいられればきっと、今のような鬱屈した感情を教皇に抱くこともなかったに違いない。
「けど、アタシが三つか四つ…物心ついてすぐに、母親が病気で死んじまった。大した病気じゃなかったらしい。けどその頃のウチは貧乏だったからさ、無理がたたって…ってやつな」
「その頃の師匠のご両親は、どんな仕事してたんですか?」
「母親はもともと身体が弱かったから、外で働くことは出来なかった。父親は、遊撃士をやってたよ」
その頃のマグノリアは、遊撃士という職業がどんなものかまるで知らなかった。ただ、幼心にその仕事は父には圧倒的に不向きである、と感じ取ってはいた。
おそらく父には、向き不向きを考える余裕なんてなかったのだろう。
この世界の平民は通常、親と同じ職業に就くものだ。そうでなければ、地域のコミュニティーの中で斡旋してもらう。
だが、名家の娘を誑かして故郷を捨てた(という扱いをされている)父には当然のことながらそれは望めない。
病弱な妻と幼い娘を抱えて生活していくためには手っ取り早くそれなりに稼げる仕事が必要だ。腕っぷしだけで始められる遊撃士はまさにその典型で、そういった人々の受け皿的な居場所でもある。
「ただ、親父はなんつーか……あんまり強い人じゃなかったんだよな」
「強くないのに、遊撃士になったんですか?」
「ああ、そういう意味じゃなくて」
そういう意味では、充分に強かったはずだ。武芸の才だけなら、おそらくマグノリアよりも上だったろう。
「強くないってのは、精神面での話。優しすぎるっていうか優柔不断っていうか、こう、腹を決めなきゃいけないときもいつまでもグダグダと悩んで結局踏み切れない…みたいな」
断片的な記憶から読み取っているだけなので、マグノリアにもよく分からない面はある。だが、娘の目に映る父親の姿は、いつも沈んだ表情だった。
「お前もそろそろ分かってると思うけど」
…と言いつつ本当に分かっているかは不安な師匠。
「遊撃士ってのは完全に自立した職業だ。ギルドに所属してるったって雇用関係にあるってわけじゃないし、それは依頼主も同じ。仕事を探すのも選ぶのも交渉も準備も対策も、全部自分で考えて自分でやらなきゃならない」
マグノリアがハルトに教えたいのは、戦闘技能よりも寧ろそっちである。
「誰かとパーティーを組むにしたって、曲者揃いだからトラブルも多い。人気のある依頼は早い者勝ちか、上手くギルド職員に根回し出来る要領良しが持っていく。そういうのが出来ないと、ロクでもない依頼をそうとは知らずに引き受けて、後になってこんなはずじゃなかったって後悔する羽目になる」
ハルトのような新人遊撃士が最初に直面する壁というのは、大抵その類である。右も左も分からぬヒヨッコが海千山千の連中に食い物にされる例は、マグノリアも多く見てきた。
魔獣なんかより、人間の方がよっぽど恐ろしい。
「で、結局のところ、ウチの親父は要領が悪かったんだろうな。他人のことばっか気に掛ける人だったし」
「優しい人だったんですね」
「それを優しいっていうのはどうなんだろうな。アタシは弱かったんだと思う」
優しさと弱さが両立しないとは言わない。弱くても優しい者はいる。だが、そのどちらを優先してしまうか、だ。
「ここぞと言うときに周りの顔色窺って動けなくなるような人間には、遊撃士なんて無理なんだよ。けど、弱くて要領悪い奴ってそこで思考停止しちまうんだよな。他に工夫したり考えたりして別の道を模索しようとか、考えない。今いる場所が辛くても、自分の力じゃ新しい場所に踏み出す勇気がない」
我ながら辛辣だとは思う。が、父のことを思い返して父が何故あんな道を選んだのかずっと考えて、出た結論がそうだった。
「だから遊撃士やってても稼ぎは良くなくて、ただ、そのうちに教会絡みの仕事を受けるようになってさ。そこで、今の教皇に拾ってもらったんだと」
「…拾う?」
グリードは、かつて自分が祝福した若者のことを覚えていたのだろうか。或いは父の武芸の才とそれに見合わぬ主体性のなさに、利用価値を見い出したか。
「で、グリード=ハイデマンの私兵として雇われることになったわけだ。“七翼の騎士”って言えば、分かるだろ?」
「あ…はい。師匠のお父さんも、そうだったんですね」
分かるもなにも、ハルト自身教皇から臨時に任命されてたりする。あれはティザーレに乗り込むための方便のようなものだったから、流石に今は違う…だろうけど。
「そっか、だから教皇さんは師匠に優しいんですね。自分の部下の娘さんだから」
「………………」
「師匠?」
「そうじゃないんだよなー…」
グリード=ハイデマンは、部下の娘だからという理由で特別扱いをするような人物ではない。
そもそも聖教会のトップに立つ教皇にとっては聖職者全てが部下みたいなものであり、いちいちその身内を特別視なんてしていられないだろう。
直属の部下だって、何百人いることやら。
「教皇にとっては、ある意味で親父は特殊な例っていうか…」
「特殊……特別、じゃなくて?」
「有り体に言えば、裏切り者ってやつだからな」
そのフレーズが案外すんなり出てきたことに、マグノリアは内心で驚いた。
自分の中で折り合いがついているというよりは、諦め…に近いかもしれない。
「……え?」
「十五年前の聖戦で……創世神の荒魂が現世界を滅ぼそうとしたって話は知ってるよな?」
本来それは極めて基本的な一般常識であり問うまでもないことなのだが、相手はハルト。自分の父親が思いっきり当事者であることに関わらず知らない可能性もあると思い、そう聞いてみたのだが。
「あー……なんか、はい。そういう話は聞きました」
知ってはいるようだが何故か歯切れが悪い。やはり父親に関して心中穏やかならざることでもあるのだろうか。
「そうか、知ってるなら話は早い。で、聖教会はそれに対抗した。魔王のせいで滅んでしまった和魂の遺志の下に団結して、滅びに抗った」
「………………」
マグノリアは、ふと聖堂の奥に飾られている神像に目を遣った。
建物と同じで、長い間放置されボロボロになっている。が、僅かに穏やかな面影が残っていて、これは間違いなく和魂の方を表現してるんだろうな、とぼんやり考えていた。
「そりゃそうだよな。いくら神さまの希望だからって、世界が滅ぼされたら自分も死んじまうんだから、そりゃ抵抗するよな」
合理的なマグノリアは当然そう考える。合理的でなくとも我が身可愛い者は皆、そう考える。
「けど、そうじゃない連中ってのもいたんだよ」
「そうじゃないって……抵抗しなかったって、ことですか?」
「そういう奴もいたけど。そうじゃなくて、寧ろ積極的に荒魂に従った連中ってことさ」
ハルトは、よく分からないような顔をしていた。まだ生まれてもいなかったのだから実感に乏しいか。
「荒魂に従って、新世界の礎になろうとした連中。自分の家族や友人、隣近所まで殺して回って信仰を示そうとしたのもいる」
「…………!?」
彼らは、相手が憎くて殺したのではない。寧ろ愛おしいからこそ、慕わしいからこそ、救いのためにそれらを手に掛けたのだ。
新たな世界に、苦痛も絶望もない真の平和の中に、生まれ変わることが出来ると信じて…或いはそう思い込んで。
「その中に、アタシの親父、ヨシュア=フォールズもいたわけだ」
「師匠の…お父さんが?」
構図としては単純。現世界を守る和魂の使徒たちと、新世界を築こうとする荒魂の尖兵たち。聖教会は前者のはずで、そこに属する七翼の騎士や勇者と呼ばれる者たちもまたそうだった。
そうである、はずだった。
「親父は、聖教会と仲間たちを裏切って荒魂の方について、で、負けた。そのときの相手は、お前の親父さんだったらしいけど」
「父上が?」
マグノリアも噂程度に聞いただけだ。
父の参加したその大規模な戦は、英雄の名に相応しい活躍を見せた剣帝のことばかりが後世に伝えられていて、その他大勢でしかなかった裏切り者の存在は、誰にも顧みられることはない。
「え……じゃあ、もしかしてボクの父上が師匠のお父さんを……」
「ああ、そうじゃないから安心しろ」
自分の父が師の父の仇なのでは、と顔色を青くしたハルトを、マグノリアは安心させる。
「そのときは、ただ捕えられただけ。事態が事態なもんで、教皇としても敵の捕虜には恩情をかけるつもりだったらしい」
「けど……」
「ただ、親父は死んだ。罪を赦すと言われても、それを拒んで自分で自分を終わらせた」
幼いマグノリアは、父が姿を消した原因も知らなかった。
ただある日突然いなくなって、そのうちに世界中が混乱して、それでも周囲で状況を正確に把握している人はいなくて、ただ不安な日々を過ごしていただけ。
そして聖教会の使者が訪ねてきて初めて、父の裏切りと死を知らされた。
「酷い話だよな、遺言も遺書もなかった。幼い娘一人残して逝くのに、アタシにも周りにもなーんにも言わずに」
娘の存在を知っていたのもグリードくらいで、そうでなければ彼女は完全に忘れ去られていたことだろう。
…その方が、良かったのかもしれないが。
「今も分からないんだよ。どうして親父が一人で逝ったのか。今の世界が嫌だったんなら、どうして娘であるアタシも連れて行こうとは思わなかったのか」
愛されていなかったわけではない。寧ろ、母親のいない分、深い愛情を注いでもらった記憶は残っている。
だからこそなおさら、父の選択が分からなかった。
愛しさゆえに家族を道連れにする者が多かったあの状況で、父は自分だけが新世界へ行こうとした。
「アタシのことなんかどうでも良かったのかな。自分さえ良ければそれで良くて、もしかしたらアタシのことはお荷物にしか思ってなかったのかな」
「それは……違うと思います」
ハルトはおずおずと、しかしはっきりと言った。
「ボクは親子のこととか全然分からないんですけど…前に母が言ってたんです。大切にされたことのない者は、誰かを大切にすることが出来ない。真っ直ぐに愛されたことのない者は、真っ直ぐに誰かを愛することが出来ない…って」
「なんだか聖職者みたいな言い方するおふくろさんだな」
マグノリアはつい苦笑した。
愛には愛が、憎しみには憎しみが、優しさには優しさが、剣には剣が、返ってくる。それは、よく教会の説法で語られる内容だ。
そしてそれは多分、真実だ。全てではないかもしれないけど。
「師匠は、ボクのことを心配してくれるし親切にしてくれるし、いい人です。だからきっと、お父さんも師匠のことを大切にしてくれてたんだと思います」
「随分と乱暴な理屈だな…」
乱暴、というか安直な考え。だが、言われて嫌な気持ちはない。
「師匠のことがどうでも良かったとかそういうんじゃなくて……師匠のことを尊重してくれたんじゃないですか?」
「尊重……ねぇ」
「どちらの世界を選ぶのか。父親である自分が勝手に決めるんじゃなくて、ちゃんと師匠に決めさせたかった…とか」
「そんな立派なこと考えてたのかねー?」
優しいハルトは何とかマグノリアが傷付かないような答えを見付けようとしてくれているが、彼女自身は単純に父は臆病だっただけではないのかと、疑っている。
…が、そんな風に考えてみるのも、悪くはないかもしれない。
その方が、あの頃の父に対しても自分に対しても、優しい気持ちを抱けるような気がした。
マグノリア姐さんの過去です。ようやく書けました。




