第百二十七話 自分のことを忘れられるのって想像以上にダメージ受ける。
「……なんだったんだろうな、あいつ」
「心境の変化でもあったんじゃない?」
部屋で時間を潰しつつぼやいたマグノリアに、アデリーンはつれない返事。魔導オタクにとって大切なのはハルトの内面ではなく体質だったり特性だったり彼女の知的好奇心を満たしてくれそうな何某かだ。
今この部屋にいるのは、マグノリアとアデリーン、クウちゃん、セドリック公子、そしてハルトが目を覚ましたことを聞きつけてヒルデガルダもやって来ている。彼女はハルトとは直接の面識はないとのことだが、やはり共に旅をしたこともあるという剣帝の息子は非常に気になるようだ。
「心境の変化って……そういうやつか、あれ?なんか、らしくない態度だったじゃないか」
「知らないわよ。ただ、らしくない態度だってんなら、らしくなくなるようなことでもあったんでしょ」
らしくなくなるようなこと。
ハルトに心境の変化を及ぼすような何かがあったというなら、間違いなくマグノリアたちとはぐれた間に起きた事なのだろう。
「し……死ね、クソ?」
「だーからー、すいません何言ってんのかさっぱりなんで」
相変わらずセドリック公子が煩い。いや、音量も態度も控えめなのだが、マグノリアとしては弟子の見慣れぬ姿が気になって、彼の何を言ってるんだか分からない話に付き合う気分にはなれないのだ。
マグノリアの知る限り、ハルトは誰に対しても友好的な少年である。
あからさまな敵であればその限りではないが、あからさまに怪しげ、というレベルの相手ならすぐに胸襟を開いて信じ込んでしまう。
ハルトと出逢う切っ掛けになったリエルタの魔導具屋とか、何かを隠してる風だったトーミオの村長とか、怪しいと前情報があったはずのボルテス子爵とか。セドリック公子だって最初は随分と敵意剥き出しだったのにそれに気分を害する様子もなかったし、いつの間にかツンケンしていたシャロンお嬢様とも随分と仲良くなっていた。
それがハルトの長所でもあり短所でもあり、恥ずかしいから本人にも誰にも言わないが密かにマグノリアが気に入っている点でもあるのだが。
先ほどハルトの見せた、エリーゼへの態度。
彼があれほど冷たい声と表情を他人に向けるとは、あまりに意外だった。
しかも彼女は、ハルトが恋い慕うメルセデスの双子…外見も声も本人と見紛うほどに瓜二つの少女なのだ。
よしんばメルセデスとの明確な違いがあってハルトがそれに気付いているとしても、好きな相手とそっくりな人に向ける態度ではないだろう。
さらにエリーゼはハルトに明らかに好意を寄せていた。自分の知らない間に二人の間に諍いがあったとも思えない。
どうにも気になるのだが、気にしているのはマグノリアだけのようだった。
ここでモヤモヤ考えていても意味がないので、後で教皇に報告だけでもしておこう…ハルトの様子については僅かな変化・異常でも漏らさず報告するよう言われている…とマグノリアが思ったところで、ハルトが部屋に帰ってきた。
「すいません、遅くなっちゃって」
「はると!!」
ドアが開いた瞬間、クウちゃんが文字どおり飛び跳ねながらハルトに突進し、勢いよく抱きついた。
ハルトが眠っている最中の静まり返った様子とは正反対に、満面の笑みにこぼれんばかりの嬉しさを全身で表現している。
「どうしたの、クウちゃん。もう、甘えん坊さんだなぁ」
「えへへー、クウちゃん、あまえんぼさん」
ハルトはそんな幼いクウちゃんを愛おしげに抱きしめると、彼女が甘えるに任せていた。こちらもまた、先ほどエリーゼへ見せた態度とは正反対である。
そのとき、ヒルデガルダがハルトに歩み寄った。気付いたハルトにまじまじと顔を近付けると、両手で頬をむにゅ、と挟んでさらにまじまじ。
「あ…あにょ……?」
ほっぺをむにゅっとされたハルトは戸惑いながら、ヒルデガルダとマグノリアの間で視線を行き来させる。
「あー…彼女が、“黄昏の魔女”ヒルデガルダ=ラムゼンだ。剣帝…お前の親父さんとも知り合いらしいぞ」
「…………そう、ですか……」
マグノリアが説明した途端、ハルトの表情が強張った…ような気がした。
「……似てる。確かに、おにいちゃんに似てる…………けど、違う」
ハルトの目を覗き込みながら独り言のように呟くヒルデガルダだが、それは当然である。父と子は別のものであるのだから。
「あの、すいません…もういいですか?」
ヒルデガルダの言い方が気に入らなかったのだろうか、ハルトは冷えた声で告げると彼女から身を離した。それはどこか、エリーゼを押し退けたときと似ていた。
控えめな拒絶を受けたヒルデガルダは、無表情のままハルトを見つめて黙っていた。
「…おい、ハルト……」
「なんですか、師匠?」
今といいエリーゼのときといい、何かあったのかとハルトを問いただしたかったマグノリアだが、自分を見たときのハルトは普段どおりの人懐っこい仔犬の表情に戻っていたので、ひどく戸惑ってしまった。
「あ、いや………その、お前、なんかあったのか?」
「何かって、何ですか?」
「いや、何もないならいいんだけど…………ってあれ、ルガイアは?」
そこでマグノリアは、ハルトに連れられて部屋を出ていったルガイアが戻ってきていないことに気付いた。
ハルトは事も無げに、
「ルガイアなら、教皇さんのところに帰らせましたけど?」
と、言ってのけた。
「え、帰らせたって……お前が?」
「はい。もう事件も解決したし、彼の役目も終わりでしょ?」
それは確かにそうなのだが、ルガイアは教皇グリード=ハイデマンの秘書官である。確かにハルトのことを知っているようだったし敬ってもいるようだったが、彼は教皇の命令でハルトの護衛に就いたはず。
それなのに、どうしてハルトが彼に命令することが出来るのか。
そしてどうしてルガイアがそれに大人しく従ったのか。
「いけませんでしたか?」
「いや、ダメってことはないんだけど……あいつがいいならそれで…」
しかし、何の疑問も抱いていなさそうなハルトを見ているとそれ以上追及が出来ない。
「ボクには師匠がいてくれるし、ルガイアは必要ないと思います」
「え、あ、そう……か」
マグノリアとしては、なんだかそろそろ自分の手には負えなくなってきてるんじゃないだろうか…と思い始めた頃で、強力な助っ人がいてくれるのとそうでないのとでは気持ち的にだいぶ違うのだが、ハルトはそんな師匠心なんて全く考慮していないようだ。
「はい。ボクには師匠とクウちゃんとアデルさんがいてくれれば、それで充分です」
トコトコと目の前にやってきて無邪気な顔でそんな可愛げのあることを言ってくれたりするもんだから、マグノリアだって悪い気はしない。
完全にほだされやがって、というジト目で彼女を睨むアデリーンだって、自分の名前も挙げられていたことに敢えて抗議はしなかった。
誰の命にせよルガイアが大人しく教皇のもとへ帰ったのであれば、自分がとやかく言う必要もあるまい。何かあれば教皇の方から言ってくるだろうから、そうでない限りはハルトの自主性に任せるべきだ。
そう考えて、マグノリアは深く考えることをやめた。
「ま…まぁ、そこまで言われちゃ仕方ないな。ただ、甘やかすつもりはないぞ、覚悟しとけよ」
「……はい!」
嬉しそうな声で返事をすると、ハルトはマグノリアにぽふっと抱き付いてきた。
今までそんなことはなかったので、マグノリアは面食らう。
「お、おい、何してやがる。甘やかすつもりはないって言ったそばから、甘えてるんじゃない」
「んー……えへへ」
なんだなんだ、これではまるでハルトに甘えるクウちゃんではないか。いきなりの幼児退行か。
ほんと一体、ハルトに何があったというのだろう。
思わずアデリーンの方を見たら、白け気味の表情で首を振っていた。いやいや何か勘違いしてないか。
「何はともあれ、ハルトが目を覚ましたんならさっさとこの国を出ましょう。教皇庁だって、いつまでもティザーレ王室を押さえておくことは出来ないだろうし」
呆れつつアデリーンが提案した。
「そうだな、これからサイーアに戻って……その後どうするかはそれから決めるか。ヒルダも家に帰さなきゃならないし、そしたら公王に任務完了の報告して、それで一件落着だ」
「死ねー…死ねクソ?」
またセドリック公子である。こないだからちょいちょい話の腰を折ってくるのは一体どういうつもりなのか。
相手が一国の王位継承者だからまだ遠慮しているが、そうでなければ相手にするのもめんどくさい。
「死ねクソ、死ね死ねクソゴミ……」
「あのですね、公子。ずっと言ってますけど、何言ってんだか分かんないですよほんと」
「自分の呪いは解いてもらえないのか…?だ、そうです」
…………………。
『……あ。』
ハルトの通訳を聞いて、マグノリアとアデリーンは同時に思い出した。
同時に思い出した、ということは則ち、二人ともド忘れしていたのである。
彼女らが今回の件に巻き込まれることになったそもそもの発端。
……セドリック公子にかけられた、魔女の呪いのことを。
危うく忘れるところでした、セドリック公子。




