第百十七話 二千年越しの宿願
シエルは、絶句したままその場を動くことが出来なかった。
それは、確実にとどめを刺したはずのハルトが…とても生きてはいられない深手を負って絶命したはずのハルトが起き上がっている、という現象に対する驚愕ではない。
彼には既に、目の前にいるハルトがハルトではないことが分かっていた。
では……それは、一体何者なのか。
シエルの脳裏を、かつて一度だけ見た光景がよぎった。それはまるで走馬灯さながらに。
あれは……二千年前。現代よりも、神と人との距離が近かった時代。
その頃、まだエルゼイ=ラングストンと呼ばれていた彼がそれに出会ったのは、偶然に過ぎなかった。或いは、それのほんの気まぐれか。
それは、彼ら廉族には然程の関心を抱いていないようだった。
地上界とそこに住まう生命に嫉妬と憎悪と敵意を向ける魔界の民とは一線を隔し、それにとって重要なのは創世神ただ一柱だけで、自分たちなど路傍の石ころと何ら変わらない。
それでも、路傍の石ころを何の気なしに蹴とばしただけのそれの他愛ない気まぐれで、彼のいた部隊と彼の戦友たちは皆、消えてなくなった。
彼が生き延びたのは、ただの偶然でしかない。そしてその命も風前の灯火なのだと、それの視線を受けたエルゼイは自分の中に去来したのが絶望なのか覚悟なのかよく分からないままに、自分の運命を悟った。
抵抗する、という選択肢など端から持ち合わせていなかったかのように、エルゼイはそれを茫然と見詰めるしかなかった。
流れる黒髪。蒼銀の瞳。破壊と殺戮に酔いしれる嗜虐の美貌。
それは何もせずとも、ただそこにいるだけで、場の空間を支配し、圧倒し、蹂躙する。
自分たちとは明らかに異なる存在。決して手の届かない…望むことすら赦されない高み。
これが創世神と対をなす魔王なのかと、麻痺した頭で考えるのがやっとだった。
死の覚悟は、とっくの昔に済ませていた。御神のため、世界のためならばこの命惜しくはない、と。
そんな彼の覚悟など、それの前では何の意味も価値もないガラクタ同然の感傷に過ぎなかった。
結局彼は、一矢報いるどころか闘志を見せることすら叶わなかった。彼を守って死んだ戦友の思いに応えることも、御神への信仰を示すことも出来ず。
そのときの悔しさと己への怒りが、その後の彼の原動力となった。
あの頃と同じ空気を、シエルは感じていた。
体が重い。息が苦しい。逃げることも抗うことも赦されない、見えない鎖に縛り上げられているような。
「どうして……」
どうして、それがここにいるのか……ハルトの姿で。
帝国の計画は、未だ何の根拠もない夢物語に等しい漠然とした段階であるはず。
祈りも生贄も儀式も、何一つ代償もなく神格を抱く存在に関わることなど、出来るわけがない。
ならば、それは何故、どうやって、今この場に顕現したのか。
それは、ゆっくりと立ち上がった。
キョロキョロと辺りを見回すと、ルガイアに視線を固定する。
……いつの間にか、ルガイアは跪き頭を垂れていた。王に平伏する臣下の如く。
それを見たシエルは、彼が従っていたのはハルトではなく、それであったのだと知る。
「……ルガイアか、久しいな」
それが口を開いた。ハルトの声…であるに関わらず、全く別の声のように聞こえた。
「お久しゅうございます、陛下。この日を、一日千秋の思いでお待ち申し上げておりました」
ルガイアの声は、歓喜に震えていた。ハルトに対するときとは、声色も表情も態度も何もかも違う。
「それで、この状況は?」
それ…魔王は、自分が今いる場所に疑問を持ったようだった。
ここは魔王が君臨する魔界でも魔王城でもない。戦いの痕跡と見知らぬ廉族、機械人形、そして自分の衣服を真っ赤に染める鮮血の跡に、何かが起こったと考えるのは当然のことだ。
主君に対するルガイアの返答は実に簡潔だった。
「…は。そこの廉族と金属製の人形は、敵にございます」
ルガイアの言葉を受けた魔王の視線が、シエルと霊装機兵に移る。
蒼銀の双眸に射竦められ、シエルは自分の心臓が凍り付く錯覚に陥った。
パルムグレンは……先ほどから、一言も発していない。恐怖に忘我しているのか、はたまた錯乱しているのか。
〖あ……あぁ………うわぁあああああ!!!〗
パルムグレンの、絶叫。魔王の放つ威圧に、恐怖が限界を超えてしまったのだ。
完全に理性を手放して、ただ目の前の恐怖から逃れることしか考えられず、彼は最も愚かな行動を取った。
制御術式を解除しての、最大出力。
胸部の文様が今までとは比較にならないほど深く強く紅に輝き、機体は紅蓮の炎を身に纏った。
制御術式は、操者の身体を保護するための安全弁。それを解除した今の霊装機兵は、人間で言うならば火事場の馬鹿力、といったところか。自身の身の安全など考えない無謀さで、パルムグレンは魔王へと突き進んだ。
しかし、正しく炎の化身となって魔王へ躍りかかった霊装機兵だったが、その刃が魔王に届くことはなかった。
魔王の足元から伸びた影…黒い刃が、空を一閃する。
ただそれだけで、霊装機兵の上半分は、裁断され地面に落ちた。
金属の中で最も硬度が高いといわれるアダマンタイトに、あらゆるエネルギーを吸収・封印するという白銀水晶を用い、技術の粋を集めて長期間の研究の末開発された、魔導と科学の結晶。
地上界の新たな英雄となるはずだった霊装機兵は、一瞬のうちにただの金属のガラクタへと変わっていた。
魔王の攻撃は操縦席の頭上すれすれを掠めていたため、幸運なことにパルムグレンには傷一つなかった。
「あ……あ、あ…………」
しかし、見せつけられた存在そのものの違いに、パルムグレンの戦意は打ちのめされ踏みにじられていた。彼はもう戦うことが出来ないだろう。
運よく生き延びた非力な生命には然程の関心を払わず、次に魔王が見たのはシエルだった。
魔王が、自分のことを取るに足らぬ虫けらではなく敵だと認識したことに、業腹だが誇らしさに近い感情を抱くシエルは、ならばそれに応えなくてはなるまい、と己を鼓舞する。
魔王がここに復活したこと、その原因、ハルトとの関係…分からないことは多々あったが、魔王が自分の敵としてここに立っている以上、やるべきことは決まっている。
「オレはもしかしたら、このときを誰よりも待ち望んでいたのかもしれないな…」
魔王の復活を阻止するために、それを企む帝国を阻止するために、活動しているつもりだった。二千年前の惨劇を二度と繰り返させないために、戦っているつもりだった。
けれどもいざ魔王を目の前にしてみると、絶望の中に歓喜が混ざっていることに気付かされる。
…自分は、このときを待ち望んでいたのだ。
再び魔王と相まみえ、そして今度こそそれを滅する機会を。
シエルは静かに剣を構えた。
魔王は余裕からか、彼が動くのを待っているようだった。
「……いくぞ、魔王」
シエルは駆けた。
二千年前の屈辱と、二千年間の孤独とが集約した現代こそ、全てを終わらせるのにお誂え向き。
これを千載一遇の好機に変えなければ、きっと永遠に自分は解放されることがない。
体内の魔力を呼び水に、周囲の霊素を集め、自分の中で循環させる。体内に巡るうちそれは次第に馴染み、自分そのものとなる。
世界に溶け込み、世界を取り込み、己を一振りの刃と成す。
それは、天地大戦において幾度となく彼らの窮地を救ってきた、希望にして絶望の光。
「【天戟】!!!」
一条の光、一振りの刃。
世界と繋がる、流れの一筋。
それが、今のシエル……エルゼイ=ラングストンだった。
なんかシエル君が主人公みたいになってます…。
あと、やけに二千年前が強調されてますが、考えてみたらエルゼイ=ラングストンたちが活躍してたのは正確には千何百年か前でした。
まぁ天地大戦っつったら二千年前、が定型ということで…。




