第百六話 労働には適切な対価が支払われるべきである。
シエル=ラングレーにとって、それは大きすぎる誤算だった。
いや、そう言ってしまえば今回の件は全て誤算続きということになる。
彼の目的に、図らずもハルトたちが関わってしまったこと。
秘密裏に行動していたはずなのに、思いの他帝国の動きが早かったこと。
ハルトたちが、“黄昏の魔女”を知っていた…その行方を捜していたこと。
部品回収のために赴いた先で、悉くマグノリアやハルトと鉢合わせしてしまったこと。
そして何より、ハルトが見せた、彼の怒りがもたらした現象。
だが、それだけではなく。
ハルトの後方で何をするでもなく佇む神官の姿が、やけに薄気味悪かった。
その男は、仲間であろうハルトの怒りにもまるで動じず、彼の怒りが生み出した炎にもまるで動じず、ただただ静かにハルトを観察していた。
……そう、男が観察しているのは、敵である自分ではなく、男にとっての仲間であるはずのハルト。
感情の見えない不気味な眼差しもさることながら、男の全身から漂ってくる威圧感は、今までシエルが相対してきた中でも群を抜いて強大だった。
男が身に纏うのは聖央教会の法衣のはずだが、シエルには彼がただの聖職者だとはとても思えなかった。
おそらく、彼がその気になれば今のシエルには太刀打ち出来ない。そして男の方もそれが分かっているだろうに、敢えて沈黙を守っている理由はなんなのか。
シエルのことなどまるで意に介さず、ハルトを値踏みするかのように見つめる理由はなんなのか。
シエルは、ベルンシュタインの回収はひとまずお預けにすることを決めた。
今のハルトと、謎の幼女と、不気味な男を相手にしてそれを強奪するのは非常に困難を極めると判断したからだ。
魔女やマグノリアたちを無力化させた魔導具が手元にない今、彼らを連れ去り口を封じることも不可能。
だからせめて、シャロンだけでも連れていく。
なんとか隙を作り、ここから強行突破する。幸い、すぐに神官の男が動くことはなさそうだ。幼女の風刃は厄介だが、シエルならば避けられないことはない。
ハルトには悪いが、ここは本気を出させてもらう。
出来れば命までは奪いたくない。腕の一本くらいで済ませられれば……しかしそれでハルトが引き下がってくれないのであれば。
そう考えて、シエルは明確な殺意をハルトに向けた。
ハルトもシエルの態度の変化に気付き、静かに構える。
ハルトの攻撃は、シエルの想像を遥かに超えていた。
以前に一緒に依頼をこなしたときとは、明らかに違う。あれからそう時間も経っていないというのに、この短期間で一体ハルトに何があったのだろう。
いや……何かがあった、などという類の話ではない。
もし疑問に思うべきことがあるならば、それは「ハルトは一体何なのか」という点に尽きる。
だが、それを問い詰める余裕はなさそうだ。
武器を失ったシエルは、術式でもってハルトに対抗しようと魔力を練り上げる。
だが、次の瞬間。
降ってわいたような新手の殺気に、シエルの集中が阻害された。
ハルトのそれよりも、もっと明確な方向性と輪郭を持った殺気。
その気配が、以前にハルトの周囲をあからさまにコソコソしながらうろついていたものと同一であることに気付き、シエルは内心で舌打ちした。
……潮時だ。ハルトだけでなく、不気味な神官に例の男。この面子を相手にして生き延びられる保証はない。
彼は自分の命を一つの道具として考えているが、しかしここで無駄遣いするわけにはいかなかった。
ここは、シャロンも諦めて撤退するしかない。
一度決めたらシエルに迷いはない。懐から魔導具を取り出すと、思い切り地面に叩きつけた。
音はなかった。ただ、眩い閃光が辺り一帯を白一色に塗り尽くす。
「……シエル!」
突然の光に視界を奪われたハルトが叫ぶのが聞こえた。
だがシエルはそれには答えず、全速力でその場から離れた。
走りながら、後方へ意識を向ける。
……大丈夫、追撃はない。
ベルンシュタインもシャロンも手に入れられなかったのは痛いが、しかし“黄昏の魔女”の身柄がこちらにある以上、聖獣は必ず自分たちの下へやってくる。
シャロンに関しては、どのみちティザーレを出ることはなくアンテスルに帰るしかないのだから、時間さえかければ何とでもなる。
問題は……
シエルは走りながら、ハルトの様子を思い出す。
あの分だと、ハルトは自分のことを探し続けるだろう。正確には、師のことを。
あんな連中に押しかけられては、自分たちの目的が阻まれてしまう。シエル一人で彼ら全員を止めることは、悔しいが今のままでは不可能に近い。
幸い、ハルトたちには自分が今所属している先もその居所も知られてはいない。ロワーズを虱潰しに調べられてしまえばどうなるか分からないが、彼らが自分の居場所を突き止めるまでには相当の時間がかかることだろう。
その間に、出来るだけの備えをして、出来るだけ計画を先に進めておくしかない。
……それも全て、世界の平穏のために。
こんな、仮初めの、束の間の平穏ではない。
誰もが笑って明日を迎え、誰もが未来に怯えることのない、真の平穏のために。
自分が再び目覚めた意味は、きっとその道程の中にあると、シエル=ラングレーは信じていた。
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視界を覆っていた光は、何の余韻も残すことなく消え去った。
消え去った後に、シエルの姿は何処にも見えなかった。
「………逃げられた…」
剣の柄を強く握り締め呟くハルトに、シャロンが身を寄せた。
彼女は、この状況に全くついていけてない。ハルトたちの本当の目的というのも知らないし、自分だって侯爵の裏切りで大きくショックを受けているし、突然現れて自分を助けたと思ったらハルトたちと諍い始めたシエルという少年が一体何者なのか、何故自分を求めるのかも分からない。
分からないことだらけの中で、それでもシャロンが唯一信じられるとしたら、ハルトだけだった。
「……シャロン…ごめんなさい。なんか、驚かせちゃいましたね」
謝るハルトの口調はいつもどおりの穏やかなものに戻っているようだったが、響きの中にほんの僅かに怒りの残滓が含まれていた。
「ううん……言い忘れてたけど、ありがとう、もう依頼は終わったはずなのに、助けてくれて」
「何を言ってるんですか。依頼が終わったんだからボクたちもう友達ですもん。助けるのなんて当たり前ですよ」
友達なら助けるのが当たり前、という理屈は、損得勘定に支配された社交界で生きてきたシャロンには馴染みのない考え方だ。
しかし、ハルトが言うならそんな気がしてくる。
今まで、ただ一人信頼出来ると慕っていた侯爵に裏切られたばかりだというのに、出逢って間もないハルトをここまで信じ込んでしまうだなんて我ながらバカだな、と思わなくもない。
けれども、もしここでハルトにまで裏切られてしまうのであれば、それはもうしょうがないものとして諦めるしかないのかな、と奇妙な悟りを開いてしまったシャロンである。
「それで…シャロン、ボクたち、これから行かなくちゃいけない所があるんです。それで、その……」
「私は大丈夫よ。行くべきところがあるなら、貴方はもう行かなくちゃ」
シャロンの身を案じるハルトを遮って、シャロンは気丈な笑みを見せた。
これ以上、彼らを自分の都合に巻き込んではいけない。
これ以上、彼らに迷惑をかけたくない。
どのみち、依頼の期日はもう過ぎたのだ。追加報酬のアテもないシャロンに、これ以上ハルトたちを拘束し続けることは出来ない。
「けど……侯爵がどうしてシャロンのことを殺そうとしてたのか分からないし、どうしてかシエルまでシャロンを狙ってるみたいだし……」
ハルトの懸念は尽きない。
ここで感情のままシエルを追い、魔女と師匠の居場所を突き止めて(彼女らの現状については極力考えないようにした)シエルたちの企みを暴くとしても、その間にシャロンの身に何かあったら自分は後悔するだろう。
危険な状況に置かれていることが分かり切っている友人を、一人きりにさせておくなんて。
「……ねぇ、ルガイア」
「ハルト様、私にお任せ願えませんか」
ハルトが言い終わる前に、ルガイアからの申し出。正に今、ルガイアにシャロンのことを見ていてもらおうと思っていたハルトは、自分の考えが読まれていたことにビックリ。
何より、ルガイアが自分からシャロンの護衛を申し出るということにビックリ。
……なのだが、ルガイアはそういう意味で言ったのではなかった。
「幸い、この付近に頼りになる戦力が一つございます。その者にシャロン=フューバーの護衛を命じましょう」
「え……この近くに?誰?ルガイアの部下か何か?ボクも知ってる人?」
健気な一本気ストーカーの存在にはまるで気付いていないハルトは、ルガイアの言っているのが誰だか見当すらついていない。ここまで報われないのも憐れなものである、レオニール。
「とりあえず、その者のところにシャロン=フューバーを連れて行きますので、ハルト様はクウと共に宿にお戻りください。この場に長く留まるのも危険です」
「そ……そっか。うん、分かった。……それじゃ、シャロンのことを頼むよ」
ルガイアが自信満々に推薦する護衛なのだから、きっと相当の手練れなのだろう。ならばここはルガイアとその護衛を信じることにして、ハルトはシャロンに手を差し出した。
「なんか、色々バタバタしててゴメンナサイ。これからルガイアがシャロンを守ってくれる人のところに連れてってくれるから、その人のところで今は大人しくしていてください。変に動くと、危険かもしれない。全部終わったら、今度こそボクがシャロンをアンテスルまで連れて行きますから」
差し出されたハルトの右手を握り返そうとして、シャロンはふと動きを止めた。
「……シャロン?」
「…………ねぇ、ハルト」
おもむろに胸のブローチを外すと、それをハルトに握らせる。
「これは?」
「だって、まだ報酬を支払ってなかったじゃない。ドサクサ紛れで忘れるところだったわ、ごめんなさい。こんなんじゃお金の代わりにはならないかもしれないけど、売ればそれなりにはなると思うから…」
最後の最後で報酬のことを思い出したシャロン。一方のハルトは、言われるまで完全に忘れていた。言われなければ思い出さなかったに違いない。
それどころか。
「えぇ?そんな、これ大事なものじゃないんですか?報酬なんていいんですよ、ボクとシャロンは…」
「友達だからこそ、はっきりさせておかないといけないこともあるの!」
まさかまさかの無賃金労働を申し出ようとしたハルトを、シャロンは慌てて遮る。このボンボンは、労働の対価というものを一体どう考えているのやら。
「今はどうであれ、私は依頼主として貴方たちを雇い、貴方たちは遊撃士として私の依頼を受けたの。その関係をきっちりと終わらせてからでないと、対等な友人にはなれないわ」
「そ…そうですか……」
商品(サービス)の提供と対価の支払いの双方の完遂をもって契約は終了するものだが、その鉄則に疎いハルトは、シャロンが力説してくれてようやくそんなものなのか、と理解した。
理解して、シャロンの手から大人しくブローチを受け取った。
「…それじゃ、これはありがたくもらいます。大切にしますね」
「…え、いえ、売らなきゃお金にはならないわよ…?」
「ボクがもらったんだから、売るか売らないかはボクが決めます!」
ハルトとシャロンは、互いに顔を見合わせてそれから笑った。そんな二人は、どこからどう見てもただの友人同士にしか見えなかった。
書いてる人間にも忘れられがちなレオニール。とことん不憫な子です。




