4−9
その後は表面上、何事も無く過ごした。ただ少し、前よりも隆二が茜の体調を心配して、口うるさくなったぐらいで。周りの隆二を見る目が一瞬、奇異なものを見る目になったぐらいで。
だけど、時は止まらない。茜の時は止まらない。隆二ひとりを残したまま、世界の時間は進む。
耐えられなくなった。
それは、本当に、ある日突然来た。
自分がここにきて、どれぐらいの月日が経っただろう? あの小さな子どもだった太郎も、今ではもう缶蹴りで遊んだりしない。
いつのころからか、茜は月日がわかるものを全て家の中から撤去した。そんなものない、とでも言いたげに。それは彼女の優しさだったのだろう。けれども、不明だということが、余計隆二の焦燥感を煽った。
今はいつで、ここにきてからどれぐらい経って、茜は今いくつで。あと、どれだけの時間が残されているのだろう?
永遠なんてないのは知っている。いずれ茜はいなくなる。それまであと、どれだけ残されているのだろう。
おいていかれる恐怖に耐えられなくなった。このままここにいたら、自分はどうなってしまうのだろう。
だから、逃げた。逃げたのだ。
少し行きたいところがある。外の世界を見て来たい。大丈夫、少し旅行するだけだから。
そんな風に告げた自分の言葉の裏の意味を、茜がわかっていなかったとは思えない。もう二度と、戻ってくるつもりがないことを彼女は察していたのだろう。もしかしたら、聡い彼女のことだ。もっと以前に覚悟を決めていたのかもしれない。
「人は簡単に『もの』になってしまう。だから貴方は、誰も殺さないと、自分も殺されないと約束をして」
茜はその時、幾つかのことを隆二に約束させた。
「決して生きた屍にならないで。貴方は生きていて。どんなにめちゃくちゃでもかっこわるくても構わないから、生きていて」
今生の別れのような約束。茜からのお願い。
「それから、」
茜はそこで、微笑んだ。
「私は此処で待っています。ずっとずっと。だから」
茜はよそを向いていた隆二の頬を両手で挟むと、無理矢理自分の方を向かせる。体勢を崩し、片手を畳の上についた。
「だから、絶対に帰ってきなさい。いつになっても構わないから」
告げられた言葉に返す言葉がない。何を言っていいのかわからない。
「……約束ぐらい、しなさいよ」
かすれたような声で言われて、申し訳ない気持ちになる。勝手に振り回されたのだ、怒ってもいいし、泣いてもいい。そんな風に言った自分が、今彼女を振り回している。感情を制御させてしまっている。
「……ああ」
小さく呟くと、茜はそっと隆二の額に唇でふれた。
「約束、だからね」
そのまま、頭をそっと抱え込まれた。抵抗はしなかった。出来なかった。
「……ああ」
「帰って、きなさいよ。待っているから」
「……ああ」
「本当に、わかっているの?」
「……わかっては、いる」
約束はできないけれども、わかってはいる。その言葉に、茜は特に何も言わなかった。意味がわからなかったわけ、ないだろうに。
「……ずっとずっと、待っているからね。ねぇ、——」
そうして、彼女だけには教えた隆二の本当の名前を呼んだ。茜がその名で呼ぶのは、あの時以来だった。最初の時以来だった。
ああ、そうか。これは本当に最後の挨拶なんだ。
「待っているから……」