(5)
「騒がしくしてすみませんでした」
赤信号で停まったところで、運転手さんに声をかけた。中年の、ちょび髭の運転手さんは振り返るときに迷惑そうな顔をしていた。「運転しとるときに走られると危ないがやですけど、……気ぃつけてぇな」
「はい。すみませんでした」
おとなしく席に戻る。……運転しているときに声をかけるのも本来はいけないのだろう。
「かばん、やろ。彼が言うとったのは。はよ確かめぃや」
「……えっと?」
信号を睨みつけ、生真面目に仕事をしてたかに見えた運転手さんが一瞬、こちらに目を向けた。ミラー越しに。だが、
「もうすぐ信号変わるさけ、はよ座りなさい」
「……はい」
おとなしく真後ろの席に戻る。
その席に、白のハンドバッグを置いたままだった。
――和貴の言う『かばん』ならば、桜井家に持っていったこのバッグに違いない。
チャックを開いてみるが、
「……なんにもない」
ハンカチ、財布、手帳、ポーチ。以外になにも入っていない。試しに、中身を全部取り出して底まで確かめてみた。ひっくり返す。からっぽ。
……失望しつつ、かばんを隣の席に戻す。
そのとき、
かすかに、金属のこすれ合うような音がした。
内ポケットを開いてみたが、実家の鍵が入っているのみ。
それで、外のバックルを外し、手を入れてみると、
ある二つの感触を私は確かめた。
紺色の上品な紙質の、プレゼントらしき薄い包みと、
先に読んで、と茶封筒に走り書きされた、……彼の、文字。
右からひかりが入り込み、のどかな田園風景を彩る緑の強さが倍加される。その眩しさに目を細めながら私は恐る恐る封を開いた。
『真咲さんへ』
ルーズリーフに書かれているのは、和貴の、字だ。……間違いない。
左利きの人間がボールペンで書いたゆえ、すこし字がこすれている。
『現在夜中の、うんにゃ、朝の七時十分です。隣で爆睡するきみのことを見ながらこれを書いています。正直、僕も眠い。泥のように眠い』
……和貴ったら。
眠たげにまぶたをこする彼のことが目に浮かぶ。
『きみが起きるまで起きていたいんだけれど、念の為、保険をかけます』
なんのことだろう。疑問をさておき、先を急ぐ。
『直接渡せないチキンでごめんね。松田さん、だっけ。これ買ったときに世話になったよ。あのひとから言わせると僕らは、日本人形とフランス人形だってさ。そこまで口割らせた僕ってすごくない? ま、そんな話はどうでもいっか。
僕がいなくて寂しくても枕を濡らさないように、きみにこれを捧げます。
真咲。
愛してる。
子リス和貴より。
追伸。
僕のケー番とメルアド書いとく。
なんで聞いてくれなかったんだよ。ちょっと寂しいよ。
それと、きみがピッチか携帯持ったら教えてね』
その下には、和貴の連絡先が記されていた。
あまりの眠気のせいか、私の知る和貴の文字よりも、ぐっちゃぐちゃだ。けども、私の眠るあいだにこんなメッセージを残してくれていたなんて……胸が熱くなる。
手紙を元のかたちに折りたたみ、膝の上に置き、隣席に置いていたプレゼントを広げる。……よく見るとこの包装に見覚えがあるような……
見覚えがあるどころではない。
――頬を引っ叩かれたかのような衝撃を感じた。
急いで開こうとするのに、シールを剥がしてから、ぷちぷちに覆われたそれを取り出すのに、ひどく時間がかかり、もどかしかった。――はさみでも持ってればすぐに開けたのに。どうにかテープの位置を探り当てて開き、しゃらん、と金属音を鳴らし現れ出てきたそれは、まさか。――
「う、そ……」
欲しくてたまらなかった。
後ろ髪を引かれる思いで諦め、二度の訪問で再び諦めていた。
手に入らないものだと。
和貴のことも、――
……触れる手が、震えてしまう。
赤と緑と茶に彩られた葉っぱに、チャーミングな子リスが傍に居るんだよと微笑みかける。
――いつ、手に入れたのか。
そこで思い出された。
プレゼント用に袋を貰いに戻ったあのとき。
その一年後。松田さんが私にかけた言葉を。
『或る方の想いが貴女にも届くと良いのですが』
点と点が一本の線となり繋がる。
幾度と無く愛され、幾度と無く求められたからだを抱きしめた。
「……言ってくれてよかったじゃん。……ばか」
どうしようもない想いが結晶となり、私のなかからあふれた。
「かず、き」
その言葉を口にするだけで、強くも弱くもなれる。
凍てついたひとびとのこころをも溶かすかのあたたかい笑顔。冷たく拒絶したときの威圧的な眼差し。後悔しても知らないよ、余裕を浮かべたときのあの表情。僕を信じて、と手を差し伸べたあの真摯な瞳のいろ。
愛していると言った。
どれを、とっても、
「和貴ぃ……」
ブレスレットを持ち上げれば、彼の代わりを務める、おどけたリスが私のことを見つめていた。
本物に、会いたい。
いますぐに抱きしめて欲しい。
それなのに、それらの願いは叶わない。
だからこそ、彼はこれを――
想いが伝わり、ブレスレットを包む手を濡らす。
人目をはばからず号泣する私を乗せ、このバスは一路向かう。
私の知らない、未来が。
夢が待つその先へと。
すぐ傍に愛する人が居ない、未来。
けれども――愛に満ちた未来へと。
ラジオからは控えめに美空ひばりの曲が流され、なぜだかすすりなく人間の声を聞く。一足早い草いきれの匂いがどこかから漂い、私のこころに新しい春を運んできた。
―完―