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世界一清らかなる「保身(おそうじ)」

「――は、ひじり様!? 一体、何をされているのですか……っ!?」


一ノ宮クランの廊下に、ジークリンデの悲鳴のような絶叫が響き渡った。


駆け寄ってきた彼女が見たのは、スウェットの袖を捲り上げ、バケツと雑巾を手に床へ這いつくばっているひじりの姿だった。


ひじりは、前世の百貨店時代に叩き込まれた『開店前衛生チェックマニュアル』に従い、一ノ宮クランの薄汚れた床をガチで磨き上げていた。


 洗剤の濃度、雑巾の絞り方、タイルの目地に沿った完璧なストローク。


全ては「いつ鬼の監査官カレンが抜き打ち資産査定に来ても、『私は真面目で清潔で無害なマスコットです』と言い訳できるようにする」という、小市民の必死の保身である。


「あ、ジークリンデさん。いや、ちょっとここ、お偉いさんの視察が入るにしては埃っぽかったので。汚いと減点クビされちゃうじゃないですか。すぐ終わりますから、そこ通る時気をつけてくださいね。滑るんで」


ひじりは額の汗を拭いながら、営業スマイル(デパ地下仕様)を浮かべた。


「げ、減点……!? クビ……!?」

 ジークリンデは衝撃のあまりよろめいた。


彼女の脳内フィルターは、すでに限界突破の領域で稼働していた。


(そんな馬鹿な……! 国宝級の価値を持つ男性が、なぜ自ら雑巾を握り、床に膝をついて掃除などを……!? 否、これは『お偉いさん』――すなわち本庁のトップどもの理不尽な重圧に、ひじり様が怯えていらっしゃるというコトか……!?)


さらに、昨日ひじり君の動画を勝手にバズらせたクランの狂信的な女性職員たちも、物陰からこの光景を目撃して涙を流していた。


「見て……ひじり様が、私たちのために共有スペースを清めてくださっているわ……」


「なんてこと……。普通の男なら私たちが掃除してても『埃が舞うだろ不快だ』って怒鳴るのに、ひじり様はご自分で……。あんなに健気で、美しいお姿で……っ」


「本庁のバカどもが変なプレッシャーをかけるから、ひじり様が『完璧でいなきゃ居場所を失う』って不安になっちゃったんだわ! 私たちが至らないばかりに……!!」


ひじりが「マルサ怖い!」と床を磨けば磨くほど、周囲の女性たちの間では【本庁の圧政に健気に耐え、自ら周囲を清める聖母】という大誤解の神格化がガンガン進んでいく。


そんなクランの狂熱的な空気の中に、最悪のタイミングで「それ」はやってきた。


「――一ノ宮クラン。本日より国直轄の警護体制を……ん?」


カチャリ、と正面玄関のドアを開けて入ってきたのは、本庁の冷血監査官・冷泉カレンだった。


昨夜の動画バズを受け、総長からの命令である「ひじり様の口座の非課税手続き完了」と「公式の警護要請」を直々に伝えにきたのだ。


だが、玄関に一歩足を踏み入れた瞬間、カレンは凍りついた。


一ノ宮クランのロビーから廊下にかけて、チリ一つ落ちていない。それどころか、床のタイルが鏡のようにピカピカに磨き上げられ、カレンの顔が鮮明に映り込んでいる。


 前世の百貨店で、数々の厳しい衛生監査を潜り抜けてきたチーフ(ひじり)の執念が、異世界の薄汚れたクランの建物を、一瞬にして高級ホテルのエントランスレベルに変貌させていた。


「な、何だこの清浄な空間は……。魔導具による浄化魔法でも、ここまで均一に、完璧に空間が清まることはないぞ……っ!?」


驚愕するカレンの視線の先で、スウェット姿のひじりが、バケツを持ってペコペコと頭を下げた。


「あ、冷泉さん! お疲れ様です! すみません、今ちょうどワックスがけが終わったばかりで……! 抜き打ちの視察(ガサ入れ)ですよね!? 衛生管理はバッチリ合格セーフだと思うので、どうか口座の件は穏便にお願いします……っ!!」


ひじりは(うわあ、噂をすればマルサ(カレン)が来た! 頼む、これだけ真面目に掃除したんだから、1,000万の件は許して!)と、完全に恐怖で顔を引きつらせていた。


だが、カレンの目に映ったのは、全く別の景色だった。


鏡のように清められた空間の中心で、どこまでも謙虚に、自分たちを労うように頭を下げる美少年。


 そしてその後ろでは、17区最強の女騎士ジークリンデが、「ひじり様をこれ以上脅かすなら、本庁相手でもここで刺し違える」と言わんばかりの、凄まじい殺気を放ってカレンを睨みつけている。


(……ああ、そうか。なるほど……そういうことだったのか、ひじり様)

 カレンの胸に、特大の『納得(勘違い)』が落ちてきた。


(彼は、昨日の一晩1,000万バズという自らの偉業(※放流したのは職員)に驕ることなく、むしろ『本庁の組織の規律』を重んじ、我らが来る前にこれほどの礼節と清浄の空間を用意して待ってくれていたのだ……。そして、自分がどれだけ巨大な存在になろうとも、私は一介のしがない一ノ宮の男に過ぎません、と、その姿勢スウェットで示している……!)


カレンの目から、またしても熱い涙がじわりと溢れ出た。


 激務と汚職と横暴な男たちに塗れた本庁で生きてきたカレンにとって、ひじりのこの「徹底した低姿勢とお掃除(プロの保身)」は、もはや高潔すぎて眩しすぎる聖人の輝きだった。


「ひじり様……。貴方というお方は、どこまで深く、我ら本庁の規律をリスペクトしてくださるのですか……っ! この冷泉カレン、貴方のその『清らかなるお心』に、二度まで救われました……!」


「え? いや、ただの雑巾がけ……」


「ご安心ください! 貴方の平穏と、その清らかな口座(1,000万)は、国家が総力を挙げて『完全非課税・不可侵』としてお守りいたします!! 誰一人として、貴方を査定(減点)することなど許しません!!」


「へっ……? 非課税……?」


ひじりが呆然と立ち尽くす中、カレンは感動に震えながら、すぐさま端末で本庁の総長へと緊急通信を入れるのだった。


『総長! 一ノ宮クランはもはやただの建物ではありません! ひじり様の手によって完全に浄化された、国家指定の【重要文化聖域】です!! 直ちに立ち入り制限の引き上げを!!』


「なんでだよぉおおおおお!! 怒られるどころか、なんかクランの扱いがさらにヤバいことになってるじゃんかぁあああああ!!」


マルサを回避したはずのひじり君の、ピントのズレた絶望の悲鳴が、鏡のようにピカピカな廊下に虚しく響き渡るのだった。

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