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『輪郭を持たぬもの』

風が止み、森の奥が静かになる。


白と灰のまじったやわらかな毛並み。

目元はすこし切れ長で、それでいて澄んだ琥珀色のまなざし。


「……」

湊は、声にならない声でその名を呼ぶ。


「ルゥ……?」

すると、ねこは、静かにうなずいた様に見えた。


チヒロも息を呑み、前のめりになって覗き込んだ。

「やっぱりこの子……どこかで見た気がする……」


湊は、その言葉にふと目を伏せる。

「昔──火事の夜、屋根裏で……この子を見かけたんだ。」


「え……?」


「閉じ込められてた。助けようとした。でも……怖くて。

あのとき……逃げてしまった」


チヒロが小さく息をのむ。


「……ずっと、後悔してた。あのあと──もう生きていないと思ってた。

なのに……」


湊の声は震えていた。けれど、その震えを隠すように目を上げる。


「……あのとき見たこと同じなんだ、この子。大きくなってるけど。」


チヒロは、ルゥの姿を改めてじっと見つめてから、ぽつりとつぶやく。

「この子……わたしのおばあちゃんの家の縁側にも、来てたことある。」


「え?」


「目が同じだった。……そのときも不思議だったの。

姿が見えたと思ったら、いなくなって。……でも、どこか安心してた。」


──時を超えて、場所を超えて、ふたりの記憶の中に、断片的に現れていた存在。


それはきっと、まだ“ルゥ”と名を与えられる前の、輪郭を持たぬもの。


「……もしかして、見つめたから。

わたしたちがこの子を、“そうだ”って思ったから──」


湊が、つぶやくように言った。

「その瞬間に、存在が決まるのかも。……光みたいに。」


ルゥは、そっと尻尾をゆらした。

それは、まるで

──“ありがとう”

そう言っているかのようだった。


ルゥは小さく鳴いた。


けれどその声は、音というより“ひかりの揺れ”のようだった。


チヒロは膝を折り、そっと手を差し出す。

ルゥはためらいもなく、その手のひらに額をすり寄せた。


「……ほんとうに、生きてたんだね」

その言葉に、湊はそっと頷いた。


──いや、違う。“生きてた”のではない。

“存在していた”のだ、この世界の、あらゆる間隙のなかに。

忘れられた祈りのように。

誰にも気づかれぬまま、けれど確かにあった、願いのように。


「……チヒロ」

湊は、思い切ってその名を呼んだ。


自分の声が、胸の奥でふるえているのがわかった。


「ごめん。ずっと、言えなかった」


「うん」


「ほんとうは──火事のあと、

チヒロが泣いてるのを見て、声をかけたくて、でも……」


「こわかったんでしょ?」

チヒロの声は、不思議なくらい柔らかかった。


「……うん。……自分のせいだって、思ったから」


「わたしも。自分のせいで、全部なくなった気がしてた」

ふたりのあいだに、風が通った。


静かで、あたたかく、やわらかな風。

ルゥがしっぽを一度だけ、からりと振る。


その瞬間、まるで何かが切り替わるように──

森の気配がわずかに揺れた。


ざわり、と枝葉が音を立て、ひとすじの風が湊の頬を撫でてゆく。


どこか遠くで、まだ知らぬ扉が静かに開いたような──

そんな予感だけを残して、森は再び、いつもの静けさに戻っていった。




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