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ヒトの値段  作者: 窓末
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第三話:氷と道化の自画像

スポットライトという名の無慈悲な指先が、あの冷たい目のメガネの女を捉えた。彼女は、それまでの誰とも違う、まるで自分の出番を待ちわびていたかのように、静かに、そして滑るように立ち上がった。その動きには、一分の無駄もない。ギャラリーの空気が、彼女の登場だけで数度下がったような錯覚を覚えた。



「神楽坂怜」


声は、磨き抜かれたガラスのようだった。感情という名の不純物を、極限まで取り除いた、硬質で透明な声。彼女は、円卓に座る俺たちを、まるで解剖すべき検体でも見るかのように、一人ひとりゆっくりと見渡してから、その唇を開いた。


「一つ。私は、リーマン予想の証明まで、あと数ステップの地点に到達している現役の数学者である」

ざわ、と場が揺れた。リーマン予想。その単語の意味を正確に理解している者は、この中に一人もいないだろう。だが、その言葉が持つ、知性の圧倒的な質量だけは、誰にでも感じ取れた。


「二つ。趣味は、バッハのフーガを逆から演奏すること。そこに現れる数学的対称性は、宇宙の構造にもっとも近い」


もはや、共感を求める気など微塵もない。彼女は、自分の世界観という名の、難攻不落の城壁を、俺たちの前に築き上げていた。理解できない。だからこそ、恐ろしい。


「三つ。私は、生まれてこの方、一度として『運』というものに頼ったことがない。私の世界では、全ての事象は確率と期待値に支配される」


言い終えると、彼女は深々と、しかしどこか芝居がかった優雅さでお辞儀をし、再び席に着いた。 ギャラリーは、水を打ったように静まり返っていた。感動でも、感心でもない。ただ、圧倒的な知性の奔流に打ちのめされた後の、呆然とした沈黙だった。 面白い物語か? いや、これは物語ですらない。彼女が提示したのは、論文の要旨だ。 嘘は、どこだ? ほとんどの参加者が、思考を放棄していた。だが、俺だけは、彼女の言葉の裏に隠された、巧妙な罠の匂いに気づいていた。彼女の三つの告白は、一見するとそれぞれ独立しているようで、実は一つの巨大な論理構造を成している。そして、その構造を支える土台の、ほんの一点だけに、意図的に作られた、致命的な亀裂がある。リーマン予想、バッハ、確率論。その全てを理解できずとも、彼女が「完璧な論理」という物語を演じようとしていることだけは分かった。そして、完璧を演じようとする人間ほど、その綻びは大きくなるものだ。 この女、底が知れない。


次にスポットライトが切り取ったのは、絶望を煮詰めて固めたような、中年男の姿だった。彼は、禿げ上がった頭を力なく垂れ、まるで絞首刑の宣告を待つ罪人のように、重々しく口を開いた。


「……鬼頭満だ」 声は、安いウイスキーで焼かれたように、ひどく嗄れていた。 「元々は、IT系の会社を経営していた。一つ。部下に裏切られ、会社は潰れた。二つ。慰謝料で、家も財産も全て妻に持っていかれた。三つ。今日、この場所に来る直前まで、多摩川の橋の上から、汚ねえ川面を眺めていた。飛び込むかどうか、一時間ほどな」


それは、告白というより、怨嗟の独白だった。彼の物語には、獅子堂のような虚飾も、神楽坂のような知性もない。ただ、生々しい、腐臭を放つほどの現実だけがあった。嘘はどこだ? 会社が潰れたことか? 妻に捨てられたことか? それとも、死のうとしていたことか? どれもが、あまりにリアルで、嘘だと思いたくなかった。あるいは、全てが嘘であってくれと、誰もが願った。彼の絶望は、物語として消費するには、あまりに味が苦すぎた。獅子堂が、汚物でも見るかのように彼を嘲笑し、三上弥生は、自分のことのように顔を青くして俯いている。


ギャラリーの空気は、鉛のように重かった。 その時だった。 次のスポットライトが、まるで舞台の転換を告げるかのように、軽やかに俺を捉えた。


俺は、わざと大げさに肩をすくめ、困ったように頭を掻きながら、ゆっくりと立ち上がった。これまでの重苦しい空気を、俺という道化がリセットしてやるのだ。


「えーっと、黒崎、譲です。しがないコンサルタントでして、皆さんのような立派な経歴は、何も……」


人好きのする、少し頼りない笑みを顔に貼り付ける。声も、自信なさげに、少しだけ上ずらせる。これが、俺の十八番のペルソナだ。「無害で、御しやすくて、少しだけ馬鹿な男」。


「一つ。僕は以前、友人に騙されまして、大きな詐欺の被害に遭ったんです。それ以来、ちょっと人間不信気味でして……ははは」 自嘲的な笑いを混ぜるのがポイントだ。同情と、わずかな優越感を相手に与える。


「二つ。まあ、その時の借金がまだ残ってまして、正直、この訳の分からない状況でも、報酬と聞くと目が眩んでしまう自分が、情けないんですけどね」 金に困っている、という情報は、相手を油断させる最高の撒き餌だ。金で動く人間は、御しやすいと思わせることができる。


「三つ。そんな僕ですけど、一つだけ趣味がありまして。下手なんですけど、コインを使った手品を、夜な夜な一人で練習してるんです。いつか、誰かをあっと驚かせられたらな、なんて」 物語に、少しだけ夢を。少しだけ、可愛げを。これで、俺の自画像は完成だ。「過去に傷を持つ、金に困った、少しドジな善人」。


俺が席に着くと、場の空気は、明らかに弛緩していた。獅子堂の目が、俺を完全に見下しているのが分かった。鬼頭は、俺に興味すら示さない。何人かの参加者は、同情的な視線を向けてきた。 計画通り。 俺は、このテーブルに、いくつもの見えない種を蒔いた。弱者の物語という名の、甘い毒の種を。


だが、一人だけ。 あの氷の女、神楽坂怜だけが、俺の物語の、あまりに「出来すぎた」構造に気づいたかのように、そのガラス玉のような瞳で、俺の奥底を探るように、じっと見つめていた。


スポットライトが、再び動き出す。 次に選ばれるのは、誰だ。どんな自画像が、この歪んだ展覧会に飾られるのか。 俺は、これから始まる本当のショーを前に、内心で、静かに、そして深く、笑っていた。

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