第二章プロローグ:灰色のパレット
世界は、音がしなかった。 正確にはしている。空調の、命のない低い唸り。廊下の遠くで、自動販売機が釣銭を吐き出す、気の抜けた金属音。だが、それらの音は、三上弥生の鼓膜を、ただ滑っていくだけだった。分厚いガラスを一枚隔てた向こう側で鳴っているようだった。 魂に焼き付いた地獄の網膜に比べれば、この、ビジネスホテルの殺風景な一室こそが、まるで出来の悪い嘘みたいに、現実味を欠いていた。
一週間。 あの円卓で、黒崎譲という道化師が自らを供物として、彼女を解き放ってから、一週間が経っていた。 彼女は、窓の外に広がるコンクリートとガラスでできた、灰色の森を、ただ、見つめていた。雨が降っていた。だが、あの日の絶望の味がした雨とは違う。ただ、汚れた空気を地上に叩きつけているだけの無意味な水滴。
ふと、右手が疼いた。 白い肌に、今も刻まれている、細く、醜い、一本の線。才能を、未来を、昨日までの親友を全てを奪っていった、あのカッターナイフの軌跡。 かつて、この傷は、絶望の象徴だった。 だが、今は違う。 これは、彼女がこれから描く、最初の“作品”の、サインになるのだ。
『行け。そして、あんたが、正しいと思う断罪を下せ』
あの道化師の、最後の言葉が、耳鳴りのように蘇る。 あの男の、あまりに美しく、そして、残酷な嘘。あの嘘は、彼女の魂を解放し、同時に永遠の呪いをかけた。憎悪という名の、たった一つの色しか、もう、彼女のパレットには残されていない。
彼女は、ベッドサイドのテーブルに視線を落とした。 そこには、いつ、誰が置いたのかも分からない、一枚の黒い封筒。 宛名はない。 その、夜の闇を切り取ったような漆黒は、あの地獄のギャラリーで使われていた、黒曜石のテーブルの色をしていた。
彼女はそれを手に取った。 傷のない、左手で。 封を切る。 中から滑り落ちてきたのは、一枚のカード。そこには、一つの名前と、一つの住所だけが美しい明朝体で、印刷されていた。 それは、彼女が決して忘れるはずもない、名前だった。 かつて、彼女を「天才」と呼び、そして、その才能を、塵になるまで踏みにじった、元親友の名前。
三上弥生は、静かに立ち上がった。 窓の外の、灰色の世界を見つめる。 黒崎譲は、言った。あなたの憎しみだけが、真実だった、と。 ならば、証明してあげよう。 その真実で、この、嘘だらけの灰色をした世界を、どこまで鮮やかな絶望の色で塗り潰せるのかを。
彼女は、クローゼットから、一着の新しいコートを、取り出した。 まるで、初めての個展に出かける学生のように。 彼女の断罪のパレットには、もう迷いはなかった。




