第十九話:最初の色、あるいは奈落のスケッチ
三上弥生は、アトリエを借りた。 都心を見下ろす、高層マンションの一室。窓から入る北向きの光は、かつて彼女が愛した、対象の色を正確に捉えるための光。だが、今の彼女にとって、それは、ターゲットの人生を、冷徹に解剖するための無影灯でしかなかった。 部屋の中央には、イーゼルではなく巨大なコルクボードがいくつも立てかけられている。そこに、無数の写真と、付箋と、人物相関図が、赤い糸で結ばれている。まるで、猟奇事件を追う刑事の捜査本部。あるいは、神の視点から、人間たちの運命を操る、悪魔の設計図。 最初のターゲット――「水野沙織」。 かつて、弥生の親友であり、そして、彼女の右手に生涯消えない傷を刻んだ女。
沙織の人生は、順風満帆、そのものだった。 大手広告代理店でPR職として成功し、社内でも一目置かれる存在。婚約者は、新進気鋭のIT企業の若き役員。SNSには、高級レストランでの食事や、ブランド品、そして、幸せそうな笑顔の写真が溢れんばかりに投稿されている。 彼女は、弥生から奪った「光」を、存分に浴びて生きていた。 弥生は、そのコルクボードを無感情に見つめる。 これから、この完璧に構築された幸福を、一枚ずつ剥がしていく。それが、彼女の最初の“作品”制作だった。
彼女は、まず、絵の具を買った。 いや、違う。彼女は、莫大な金で、人を、買ったのだ。 興信所の調査員。ハッカー。ゴシップ専門のフリーライター。彼らは、弥生の意のままに動く、ただの「画材」に過ぎない。 弥生は、ターゲットを、直接は狙わなかった。 彼女が最初の筆を入れたのは、沙織の婚約者、そして、彼女が心血を注いでいる一大プロジェクトの、その周辺だった。 ハッカーが、婚約者の会社のサーバーからごく僅かな不正の痕跡を盗み出す。ライターが、その情報を、あたかも別の取材で得たかのように、匿名で業界紙の片隅にリークする。興信所が、プロジェクトの競合他社に、「水野沙織の周辺で、不穏な動きがある」と、真実とも嘘ともつかない情報を流す。 一つ一つは、小さな石ころ。 だが、完璧に計算された角度とタイミングで投げ込まれた石は、やがて、巨大な雪崩を、引き起こす。
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警視庁捜査一課のオフィスで、後藤浩介は、淹れたてのコーヒーよりも、ぬるくなった事件報告書を、うんざりした顔で眺めていた。 (またか。痴話喧嘩のもつれ、金の恨み、ありきたりな人間の、ありきたりな欲望の果て……) 彼の仕事は、物語の残骸を、片付けることだ。そこに、美しい謎も、知的な挑戦もない。 その時、部下の一人が、雑談めかして、彼に話しかけた。
「そういえば、後藤さん。例のIT企業の、内部告発の件ですが、どうもキナ臭いんですよ」
「ああ、あの役員の、インサイダー疑惑か」
「ええ。タレコミがあったんですが、証拠が弱すぎて、事件化は見送りになりました。ただ、妙なんです。その役員の婚約者、大手広告代理店のやり手らしいんですが、彼女が担当してた、数億規模のプロジェクトが、このタイミングで、競合に取られたそうで」
「……ふうん」
後藤は、興味なさそうに、相槌を打った。 だが、彼の脳裏で、何かがカチリと音を立てた。 内部告発。プロジェクトの失敗。その二つの点が、あまりに出来過ぎたタイミングで、一本の線として繋がって見えた。まるで、脚本家が、そうなるように書いたみたいじゃないか、と。
彼は、その取るに足らない事件報告書のコピーを、誰にも気づかれずに、自分の引き出しの奥へと、滑り込ませた。 それは、彼だけが気づいた、まだ名前のない物語の最初のページだった。
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その夜。
三上弥生は、アトリエの窓から、沙織の住むタワーマンションを見下ろしていた。 双眼鏡の先で、沙織がリビングで誰かと激しく口論しているのが見える。おそらく、婚約者だろう。 やがて、男は、何かを叫びながら、部屋を飛び出していった。
一人、残された沙織は、テーブルの上のものをヒステリックに床へと叩きつけている。 彼女の完璧な世界に、最初の大きな亀裂が入った瞬間だった。
弥生は、その光景を、静かに、ただ見ていた。 喜びも、達成感もない。 ただ、真っ白なキャンバスに、最初の一色――濁った、絶望の灰色を、塗りつけた時のような、冷たい、静かな、手応えだけがあった。
彼女はゆっくりと、自分の右手に視線を落とす。 古傷が、歓喜するように、ズキリ、と疼いた。 まだだ。 まだ、スケッチは、始まったばかり。この作品を、本当の傑作に仕上げるには、もっと多くの色が必要なのだから。




