8.知らなかった痛み
数日後――。
「……やっと、帰ってこれた」
エリーナヴィアスは重たい身体を引きずるようにして、自室へとたどり着いた。
玄関からほぼ一直線。ドレスの裾を気にも留めず、ふらふらとベッドに向かい、力尽きるようにドサリと倒れ込んだ。
天井をぼんやりと見上げる。
(結局、契約結婚はうまくいったけど……)
溜め息交じりに、心の中でぼやく。
(……条件が、だいぶ変わっちゃったわね)
思い返すだけで、頭が痛くなる。
サイドテーブルに置かれた、一冊の分厚い契約書。
それは、きちんとした魔法契約によって、すでに締結されていた。
◆正式な魔法契約書◆
一、互いに無理のない範囲で相手の自由を尊重すること。
一、子供は必ず授かることを目指すこと。
一、エリーナヴィアス・フォードレインの魔力を、いかなる目的にも利用しないこと。
一、互いの秘密は尊重し、強制的に暴くことはしないこと。
一、離婚は一切認めないものとする。
一、互いに同意のもとであれば、接触行為を許可すること。
……書面だけ見れば、かなり硬く、重い契約だった。
(まさか、あそこまで押し切られるなんて……)
エリーナヴィアスは枕に顔を押しつけ、ぐりぐりと転がった。
(なによ……もう……)
脳裏に、あの低い、心地よすぎる声がよみがえる。
特に、あの鼻歌――。
(……なぜか、あれを聴くと、意思が弱まるのよね……)
首元までシーツを引き上げながら、ぼそりと呟く。
(私、実はああいうのが、タイプだったのかしら)
気づくと、頬がほんのり熱を帯びていた。
顔は整ってるし、
体も――無駄なく鍛えられた、完璧なバランス。
そんなことを考えた自分にハッとする。
「……なに考えてるのよ、私!」
慌ててベッドの上でバタバタと手足を動かす。
(神に愛されない男? むしろ、あの豪運……愛されすぎてるでしょ)
思わず、ぷっと小さく吹き出す。
(私をゲットできる時点で、すごい運命力じゃない)
そのまま、顔をシーツに埋めた。
──悔しいけど。
あの黒い瞳を思い出すたび、心のどこかが、あたたかくなってしまう。
(未来では、たしかリックウェン……亡くなってたわよね)
ベッドの上で仰向けになったまま、ぼんやりと天井を見つめる。
(それでクローディアス領を誰が引き継ぐかで大問題になってたっけ。
結局、うち――フォードレイン家が防衛に出ることになったのよね)
今回は、私が自ら出向いた。
本来なら、もう少し先の未来で、ヴォレアス兄様が出るはずだった。
(まぁ、その時はクローディアス領地の半分は占領されてたけど)
思い出して、軽く肩をすくめる。
(というか、今のあの感じだと……本気で力を使えば、半分どころかセイレート国自体、丸ごと占領できそうだけど)
ふっと小さく笑う。
(まぁ、それはおいおい考えるとして……今は疲れを――)
ドンッ!!
突然、部屋の扉が勢いよく開かれた。
「エリヴィ!! どういうことだ!!」
怒気を含んだ声とともに、ヴォレアス兄様がなだれ込んでくる。
私はぐったりとベッドに沈み込んだまま、顔だけ横に向けた。
「何がですか……。今、疲れてるのでまた今度にしてください」
蚊の鳴くような声で答える。
だけど、兄様はまったく引かなかった。
「リックウェン・クローディアスと結婚するって本当か!?」
(……兵の誰かがチクったのね)
心の中でため息をつきながら、私は小さく頷いた。
「はい。でも、まだ婚約ですよ」
にっこり笑ってみせると、ヴォレアスの顔色がさらに悪くなる。
「デビュタントで、あいつと出るのか?」
「はい、そうですが?」
何が問題なのか分からない、という顔をして答える。
「もういいでしょう……寝かせてください」
そう言って、再び枕に顔を埋めようとした瞬間。
「エリヴィ……考え直すんだ!!」
ヴォレアスの声が、ひどく切羽詰まっていた。
「神から見放された男だぞ!
それに、エリヴィより五つも年上だ!」
その必死な言葉に、私はぱちりと目を開いた。
(……うるさい兄様ね)
心の中でそっとため息をつく。
(待って、どうしてこんなに……)
ふと、思考がひっかかる。
まさか――とは思うけど。
「お兄様、まさかとは思いますが、どなたかに……」
言いかけて、首を振った。
(いや、それはないわね)
もし、ヴォレアス兄様が誰かと組んで私を差し出すような約束をしていたなら、
私はこんなにも複数の相手と結婚を繰り返すことにはならなかったはず。
(ただ単に、心配しているだけ)
そう、結論を出す。
「……なんだよ」
ヴォレアスが、戸惑ったように眉をひそめる。
私は小さく笑った。
「なんでもないです。
結婚後も、それくらい私のことを思ってほしいものですね」
皮肉っぽく言ってみせた。
軽口のつもりだった。
だけど――
「それができないから心配してるんだろ!!」
ヴォレアスが、叩きつけるように叫んだ。
「え?」
私は呆然と兄を見つめた。
ヴォレアス兄様は、顔を赤くしていた。
悔しそうに、ぐっと唇を噛みしめている。
そして、しばらく迷ったあと、
絞り出すように言葉を続けた。
「なんだ……知らないのか」
声は低く、かすれていた。
「でも……そうか。エリヴィは、女だからな……」
ぼそりと、寂しげに呟く。
私は息を呑んだ。
ヴォレアス兄様は、拳を握りしめながら、続けた。
「フォードレイン大公家から一度でも正式に出たら、最後……
たとえどんな状況に陥ろうと、二度と一切の援助はできない」
その言葉が、胸にずしんと突き刺さった。
「そうでなければ……
家を背負うべき者たちが、利用され、搾取され続けるからだ」
兄様の声は震えていた。
怒っているのではない。
悲しみと、無力さに、震えていた。
私は――知らなかった。
そんな掟が、うちにあったなんて。
だから、今まで。
兄たちは――。
(どんな気持ちで私を……見送ったんだろう)
胸の奥がぎゅっと締めつけられる。
過去、何度も回帰した人生。
そのたびに私は、兄たちの無関心を恨んだ。
嫁いだ先で搾取され、苦しんでいるとき、
「なぜ助けてくれないの」と、心の中で何度も叫んだ。
でも――。
(違ったんだ)
本当は、助けたくても。
本当は、泣きたくなるほど苦しくても。
手を伸ばせなかっただけだったんだ。
「出て行って……」
ぼそりと呟くヴォレアス兄様の声に、私ははっと我に返る。
「え?」
思わず顔を上げたけれど、
彼はもう、私に背を向けていた。
「……疲れたの」
私は、小さな声で答えた。
そして、枕に顔を押しつける。
シーツの中に、すべてを隠すように。
堪えていたものが、あふれた。
ぽろり、ぽろりと、涙がこぼれ落ちる。
温かいはずの枕が、やけに冷たく感じた。
(知らなかった……。そんな、ルールが――)
拳を握りしめた。
けれど、どうすることもできなかった。




