5.戦場に降り立つ女神
クローディアス領――。
帝国の最西端、国境線に連なる岩山地帯。
ここは、隣国セイレートと常に刃を交える、血塗られた最前線だった。
空には黒い煙が立ちこめ、遠くで火の手が上がっている。
焦げた土の匂い。
割れた地面。
倒れたままの城壁の破片。
全てが、この地が今なお戦場であることを物語っていた。
そんな荒れた戦場の一角――。
甲冑を纏ったひときわ目立つ男が、冷たい風を切るように立っていた。
髪も目も、闇を思わせる深い黒。
陽光を吸い込むような艶のある髪は短く整えられ、鋭い黒の瞳は敵を射抜くように光る。
大柄で、筋肉質な体格。
肩幅は広く、無駄な肉の一切ない引き締まった身体。
重厚な鋼鉄の甲冑を身にまとっているにもかかわらず、
その姿勢は驚くほど軽やかだった。
剣を片手に持ち、戦場の中央に堂々と立つその姿は、
まるで戦神そのもの。
リックウェン・クローディアス。
――辺境伯家の唯一の生き残り。
そして、この地を守るたった一人の若き当主。
「来い」
低く、静かな声が戦場に響いた。
次の瞬間、隣国セイレートの兵たちが一斉に飛びかかる。
しかしリックウェンは、動じなかった。
鋭く踏み込み、剣を振るう。
無駄のない動き。
重たい鋼の刃が、風を切って唸りを上げ、敵を一閃する。
──強い。
単純な力任せではない。
リックウェン・クローディアスの剣捌きは、無駄なく、鋭く、洗練されていた。
計算され尽くした動き。
積み重ねた技術。
剣を振るうたび、敵は一人、また一人と地に伏していく。
甲冑越しでもはっきりとわかる、隆々とした筋肉の躍動。
鋼のように鍛えられた肉体は、今もなお、戦場の最前線で力強く生きていた。
そのとき――。
空を裂くように、魔法の火球が飛んできた。
周囲の兵たちは当然のように魔法で対抗するが、
リックウェンには、それができない。
彼は剣を握りしめ、力任せに火球を叩き落とした。
轟音とともに爆ぜる火花。
煙が立ちこめる中、リックウェンは眉ひとつ動かさず前を睨み続ける。
(……使えないのは、俺だけか)
兵たちは平然と魔法を使って戦っている。
魔法が使えないのは、この戦場で、リックウェンただ一人。
それでも、彼は指揮を執る。
的確な号令を飛ばし、兵を動かし、敵の動きを読む。
「右翼、回り込め! 弓兵は後退、再配置!」
怒号が飛び交う戦場で、リックウェンの声だけは冷静だった。
──この戦い。
彼にとっては、単なる領地防衛ではない。
セイレートとの戦争は、彼にとって両親の仇だった。
けれど。
(……いつ終わる、この戦いは)
胸の奥で、ぼんやりと思う。
(いつまで、俺は剣を振るい続けなければならない)
両親が死んでから、
クローディアス家が代々受け継いできた「戦の神の加護」は、ぷつりと途絶えた。
そして、この一年。
じわじわと、確実に、クローディアス家は疲弊していた。
兵の数も、物資も、足りない。
国からの援軍も、期待できない。
──父上。母上。
リックウェンは、剣を支えながら、かすかに目を伏せる。
(俺にとって、厳しく、辛い存在だった)
幼い頃から、死ぬほどの鍛錬を課された。
息をする暇もなく、剣を握らされた。
だけど、それでも――。
(……それでも、俺は)
その想いを言葉にする前に、兵士が駆け寄ってきた。
「閣下!!」
リックウェンは顔を上げる。
「次はどうした」
低く問うと、兵士は肩で息をしながら叫んだ。
「後方より……! フォードレイン大公家の支援軍が到着しました!!」
「……なんだと!?」
リックウェンの瞳が見開かれる。
思わず、手にしていた剣をぎゅっと握り締めた。
フォードレイン――。
帝国最古にして最強の、あの魔力の一族。
なぜ今、この戦地に?
リックウェンは、信じられない思いで前線を見つめた。
そして、次の瞬間――。
戦場に、不釣り合いなほど鮮烈な存在が現れた。
燃えたぎるような赤い髪が、陽光に煌めき、
紫の瞳が、戦火の向こうできらめく。
細身の馬に跨り、風を切るように駆けるその姿は、
血と硝煙にまみれたこの地には、あまりに妖艶だった。
若い娘――
それは間違いなく、ただ者ではない気配を纏っていた。
彼女は軽やかに手綱を引き締め、周囲に向かって高らかに声を上げた。
「皆! 魔石は持ったわね?」
その声音は、よく通った美しい声だった。
「はい!!」
兵たちが一斉に叫び返す。
声に込められた熱量が、明らかにこれまでとは違った。
彼女は、にやりと笑うと、腕を高く振り上げた。
「――いきなさい!!」
号令と同時に、兵たちは一斉に駆け出した。
「おおおおおおおおっ!!」
怒号とともに、まるで暴風のような勢いで、敵軍へと突撃していく。
そして――。
次の瞬間、リックウェンは目を見開いた。
見たこともない光景が広がっていた。
兵たちが持つ魔石が、一斉に光り輝き、
小さな魔法が、一瞬で何倍にも膨れ上がる。
火球は竜巻となり、氷の槍は巨大な氷柱に変わり、
雷撃は地を這うように敵軍をなぎ倒す。
ありえない。
魔石の増幅効果とは思えない規模だった。
わずか数分。
敵軍は為す術もなく、制圧されていった。
リックウェンは、呆然とその光景を眺めていた。
息をするのも忘れそうだった。
(……あれが、フォードレインの力……)
圧倒的だった。
何もかもが違った。
そして――。
馬上に立つ彼女。
紅の髪をなびかせ、紫の瞳を鋭く輝かせ、
誰よりも堂々と、戦場を見下ろすその姿。
(……ははっ)
喉の奥から、思わず小さな笑いが漏れた。
あまりにも、非現実的すぎて。
(……女神が現れた)
リックウェンは、初めて戦場で膝をつきそうになるのを必死に堪えながら、
ただ、その赤い閃光を見上げ続けた。




