3.愛など存在しない世界で
朝食の席。
銀器が静かに皿を叩く音だけが、食堂に響いていた。
長いテーブルの向こう側で、兄たちが食事をとっている。
天井のシャンデリアから差し込む光が、白い食器をきらりと照らした。
ナイフとフォークを動かしながら、私は無言でパンを口に運ぶ。
そんな中、長兄ヴォレアスがふと顔を上げた。
「……エリヴィ、大丈夫か? 顔色が悪いみたいだけど」
心配そうに眉をひそめる兄の声に、私はナイフを握ったまま、短く答えた。
「大丈夫よ。ほっといて」
乾いた声だった。
言葉の刺に気づいたのか、次兄ディレルまでが顔を上げる。
「え!? どうしたんだい、エリヴィ。やっぱりどこか具合が悪いんじゃないのかい?」
ふたりの視線が私に集まる。
(……本当に、よくもまあ)
私は心の中で小さく嘲笑った。
兄たちが心配するのも、無理はない。
最初の人生の私なら、きっとこう答えていたはずだ。
「心配ないですわ。でも……嬉しいです」
にこりと微笑み、健気に。
けれど、何度も人生を繰り返す中で、私は知ってしまった。
この二人は、私のことが大好きな"ふり"をしていただけだ。
私がどんなに苦しんでも、助けを求めても、
「嫁いだのだから」と、一度たりとも手を差し伸べてはくれなかった。
どんなに回帰しても、何度やり直しても、その事実だけは変わらなかった。
(だから、私は──この二人が大嫌いだ)
心の奥底に、黒い憎しみが積もっていく。
(早く……こんな家、出たい)
苛立つようにパンをちぎり、無理やり口に押し込む。
ナイフとフォークを音を立てて置き、椅子を乱暴に引いて立ち上がった。
何も言わずに席を離れ、部屋へと戻る。
ドアをバタンと閉めると、背中から深く息を吐いた。
(……やっぱり家を出るには、結婚しかない)
ふかふかのベッドの上で、私は枕を抱えたまま、うんざりとため息をついた。
この屋敷には、私を狙う者が多すぎる。
金に目がくらんだ貴族たち。
私の血筋を手に入れようとする商人たち。
地位を欲しがる男たち。
誰も彼もが、私を"所有物"として見ている。
このままでは、また何かに巻き込まれてしまう。
だから、結局はどこかの貴族の庇護下に入るしかないのだ。
(……私の結婚ルート? あぁ、教えてあげるわ)
ベッドの上で、私は体を横たえたまま、冷めきった目で天井を見つめた。
まず、最初は──皇太子。
国の未来を担う彼に嫁いだ私は、国の象徴として美しく着飾られ、
そして、国のために、命をすり減らされた。
次に、センドリード公爵家の子息。
彼は私を愛すると言いながら、
私の魔力を、家の繁栄のために使うことしか考えていなかった。
そして、一度だけ。
私は、夢を見た。
魔力の低い、心優しい平民の青年に嫁いで、
静かな家庭を築く未来を。
でも──。
様々な陰謀に巻き込まれ、
まだ恋心すら芽生えていないうちに、彼は殺された。
私は誘拐され、薬で朦朧とさせられたまま、
ギデモンズ侯爵に、無理やり嫁がされた。
意識が戻ったときには、もう、何もかも手遅れだった。
(……あのときの絶望感、忘れられるわけない)
その後は、六十五歳のサルバータ公爵。
財産目当てで後妻業を狙ったのに、結局はいいように魔力を吸い取られて。
最後は、モールスト伯爵。
彼もまた、私の能力を使い潰すためだけに、甘い言葉を囁いてきた。
(どれもこれも……結局は同じだった)
愛情なんて、どこにもなかった。
あるのは、搾取だけ。
どこに嫁いでも、私は利用され、命を削られ、そして殺された。
私は、ゆっくりとベッドの上で寝返りを打った。
真紅の髪がふわりと広がり、冷たいシーツの上に散る。
(……というか、こいつら馬鹿なの?)
小さく鼻で笑う。
(生命活動に必要な魔力を、奪うって)
魔力はただの力じゃない。
生きるために必要な、命の源なのだ。
それを根こそぎ奪っておいて、どうして私が生きていられると思ったのだろう。
(生かしておけば、もっと長く、私を搾取できたかもしれないのに)
ほんの少しでも、理性や計算が働いていれば、
私を"家畜"のように繋いで、寿命が尽きるまで魔力を吸い続けたはずだ。
でも、欲は欲を生み、制御できずに暴走した。
そして、あの石……。
──魔石。
それがすべての元凶だった。
魔石は、ただ触れるだけで持ち主の魔力を吸収し、
一度だけ、その能力を再現できる。
私の"増強・増幅"の能力は、金にも力にもなる最高の道具だった。
何度も、鎖で繋がれた。
冷たい鉄の輪が手首に食い込み、
逃げようと暴れれば、鞭で打たれ、
それでも無理やり、魔石に触れさせられた。
永遠に。
死ぬまで。
(……そして、また、回帰する)
薄ら笑いを浮かべながら、私はシーツをぐしゃりと握りしめた。
指先に力を込めすぎて、関節が痛む。
それでも、どこにも行き場がなかった。
白く広がる天蓋を見上げながら、私はぽつりと呟く。
「ねぇ、神様。私はいつ終われるの?」
誰にも届かない問い。
答えなんて、とうに期待していない。
「……もう、疲れたわ」
枕元に無造作に積まれていた求婚状の山に腕が当たった。
ドサッ、と音を立てて、机の上から床へと崩れ落ちる。
色とりどりの封筒が、まるで花びらのように散らばった。
──ああ、もう。
嘆いてばかりいても、仕方ない。
そう自分を叱咤して、私は重い身体を起こした。