10.始まりの色は、熟れた果実の赤
ドレスショップ【エスレドーレ】。
重厚な扉を開けると、甘い香りと共に、鮮やかな色とりどりのドレスが目に飛び込んできた。
店内は、まるで夢の国のように煌びやかだった。
その中で、ひときわ派手な赤と金のドレスを纏った女性が、私たちを見つけて駆け寄ってきた。
「まぁ、まぁ! エリーナヴィアス様!
ようこそ、いらっしゃいました!」
大仰な身振りで歓迎するのは、ここの有名なデザイナー、マダム・エリッサ。
エリーナヴィアスは微笑みを浮かべながら軽く会釈する。
けれど、マダム・エリッサの視線が隣に立つリックウェンに移った瞬間――。
その動きがぴたりと止まった。
「今日は……あら……!」
彼女の目が大きく見開かれる。
それに気づいた私は、堂々とリックウェンの腕に手を添えた。
「婚約者のリックウェンよ」
にっこりと微笑んで宣言する。
マダム・エリッサの顔が、みるみるうちに蒼白になる。
「も、もしや……クローディアス辺境伯様……?」
まるで悪夢でも見たかのような顔だった。
(……わかりやすい反応ね)
内心ため息をつきつつも、私は表情を崩さずに続けた。
「マダム、デビュタントに着ていく衣装を依頼したいのだけど」
できるだけ事務的に、はっきりと告げる。
「は、はい……」
マダム・エリッサは明らかに動揺を隠せず、声を震わせた。
そんな様子をよそに、私はリックウェンの腕にぎゅっと絡める。
少し戸惑う彼に、甘えるように視線を向けながら言った。
「お揃いにして下さらない?」
マダム・エリッサの目が、さらに大きく見開かれる。
「は、はいっ!?」
悲鳴のような声だった。
リックウェンも少し驚いたように瞬きをして、
それから、どこか気恥ずかしそうに視線を逸らした。
「……っ、構わないが」
低く、少しだけ掠れた声。
普段は堂々としている彼の、そんな照れた様子が、やけに新鮮だった。
マダム・エリッサは、必死に微笑みを取り繕いながら、私にそっと耳打ちしてきた。
「エリーナヴィアス様……今一度、婚約者をお考え直しになられた方が……」
ささやく声に、私は小さく笑った。
そして、ポーチから小さな包みを取り出す。
中から、きらりと光る魔石を一粒――。
それを、マダム・エリッサの手のひらにそっと乗せた。
すぐに、マダムの顔色が変わる。
この魔石――フォードレイン家の血を受けた者の魔力が宿る特別な品。
これ一つあれば、平民の家などいくつも買えてしまう代物だ。
目の前のマダムの緑の瞳が、あからさまに輝いた。
「マダム。私は、これからもこの店を利用するわ」
さらりと言うと、マダム・エリッサは深々と頭を下げた。
「か、かしこまりました!!」
それまでの態度は跡形もなく消え失せ、
彼女は勢いよく採寸の準備を始めた。
リックウェンはそのまま別室に案内され、
私も店員に促されて、店内奥のソファーに腰を下ろす。
ふかふかのクッションに沈みながら、
差し出された豪華なVIPカタログをめくった。
(……デビュタントの衣装って、毎度困るのよね)
ページをめくりながら、苦笑する。
(最初は皇太子が相手だったから、白を選んだ。
無垢と純潔を象徴する、清らかな白)
次に、公爵家の跡取りを選んだときは――。
(あのときは、向こうから贈ってきてくれたから、楽だったわね)
淡い思い出がよみがえる。
でも。
(もう、私の心は――あの頃みたいに純粋じゃない)
自然と、ページをめくる手が止まる。
目に留まったのは、情熱的な深紅のドレスだった。
(赤……悪くないかもしれない)
そんなことを思いながらカタログを眺めていると――
「……ふぅ」
小さなため息とともに、リックウェンが戻ってきた。
シャツの襟を軽く整えながら、
どこか苦労したような顔で。
きちんとした仕立てのシャツとジャケット姿は、
普段の無骨な甲冑姿とはまた違った大人の色気を漂わせていた。
私は思わず、その姿に見惚れそうになりながら、
さりげなく尋ねた。
「赤でも、いいかしら?」
リックウェンは、一瞬考えるように私を見た。
そして、少しだけ眉をひそめる。
「……真っ赤は、少し……」
苦手なのだろうか、微妙に言葉を濁す様子が、可笑しくて。
私はくすりと笑いながら続けた。
「じゃあ、黒を混ぜるわ」
リックウェンは、小さく頷いた。
「あぁ。それなら」
(なんだか可愛いわね。こんなに大柄なのに。)
そこへ、マダム・エリッサがいそいそとカタログを手に戻ってきた。
「エリーナヴィアス様、いくつかご提案がございます!」
彼女が広げたカタログには、
赤と黒を基調にしたドレスがずらりと並んでいた。
どれも、華やかでありながら、凛とした強さを持っている。
私は一着ずつ目を通しながら、
リックウェンにちらりと視線を送った。
彼もまた、真剣な顔でドレスに目を通していた。
普段は無骨な印象なのに、今はまるで本物の貴族のような、静かな気品すら漂っている。
そのギャップが、なんだかおかしくて。
(……ふふ。まるで、本物の婚約者みたい)
私は思わず、口元を緩めた。
そして、一枚のドレスを手に取る。
真紅に金糸の刺繍が施された、美しい一着だった。
「これにしようかしら」
軽い調子で言うと、すぐにマダム・エリッサが反応した。
「でしたらこちらに、さらに金の刺繍を加え、
こちらの装飾もお付けするのはいかがでしょう?」
矢継ぎ早に提案されるが、私はあまり深く考えずに頷いた。
「それでお願い」
少しだけ、適当に流すような言い方だった。
すると、隣でリックウェンが眉をひそめた。
「……デビュタントだろう?
もう少し考えても、良いんじゃないか?」
「え?」
驚いて彼を見ると、リックウェンはまっすぐな目で私を見つめていた。
その瞳に、からかいも、押しつけもなかった。
ただ、私自身をちゃんと大切に思ってくれている真剣な光だけが宿っていた。
(……そうね)
私はそっと息を吐く。
「じゃあ……」
もう一度、カタログに視線を落とし、ゆっくりとページをめくる。
その時――。
ふわりと、耳に届いた。
リックウェンの、小さな鼻歌。
さっきより、もっと静かに、
まるでこの小さな空間だけに響くような、優しい旋律。
(……不思議)
その音を聴いていると、胸にずっと引っかかっていた
苦い記憶が、少しずつ、少しずつ溶けていく。
誰かに裏切られた記憶も。
利用され続けた過去も。
全部、どこか遠くへ流れていくような――そんな感覚。
(……新しい私になれる気がする)
自然と、手が動いた。
選んだのは、深く、豊かな赤。
まるで熟れた果実のように、濃密な色合いのドレスだった。
赤だけれど、ただ情熱的なだけではない。
芯の強さと、気高い気品を併せ持った色。
それを手に取った私に、マダム・エリッサが声を上げる。
「まぁ! さすがエリーナヴィアス様!」
すぐに彼女は、お揃いのデザイン案を広げてくる。
「でしたら、こちらの黒と金を取り入れた男性用礼服をご用意できます!」
振り返ると、リックウェンが静かに、けれど確かに微笑んでいた。
それを見て、私もそっと微笑み返す。
(うん、これでいい)




