妖獣「トウテツ」を伏せよ――青蛙神の依頼
マオは、跪いて額を地に着ける。
『顔を上げよ』
頭の中へ直接、声が届く。
『そなたに頼みがあって参った』
音質は、やはりヒキガエルの鳴き声に近い。
「……?」
『泰山の地下から、トウテツが出て来た。
それを伏して欲しい』
穏やかな物言いではあるが、緊張感が伴っていた。
泰山(現在の山東省に存在)は、中国を代表する霊山である。春秋戦国時代、「斉」と「魯」の国境付近に位置した。
後世になると、「秦」の始皇帝を初めとする皇帝たちが、自らの就任を天地の神に報告する「封禅の儀」をおこなう特別な山として名を馳せるようになった。
人間の生死を管理する「泰山府君」が祀られており、地下深くには人間に仇なす魑魅魍魎が抑え込まれているとされている。仏教伝来後は、それを「地獄」と呼んだ。
その中に一匹の妖獣が、封じ込まれていた。「饕餮」である。
沖縄のシーサー(獅子)を全体的に平たくして、頭に牡ヤギの太くて巻いた角を付けた感じの姿かたちをしている。性格は、極めて獰猛だ。人を食らう。
トウテツについても、神殿で学んだ。「殷」や「周」の時代から、存在しているらしい。
「どうして我なのでしょうか?」
とてもではないが、自分には荷が重すぎると思った。
禍禍しきモノではあるが、カミに等しい力を持つ。天下に名高い英雄や勇者に頼むべきであろう。
『そなたが不審に思うのも、無理からぬことだ。
だが、急を要する。放置しておけば、世の邪気を集めて強大な力を得るであろう。
また、トウテツの方から、そなたを狙ってやって来るはずだ』
「はぁ?」
襲われる理由が、思い至らない。
『そなたの剣が、ヤツを呼び寄せる。
なぜならオロチを封ずることができるほどの霊力を秘めているからだ。
己に向けられれば脅威ではあるが、食らうことができれば力となる。
獲物は剣の守り人で使い手でもある、そなただ』
要するに「倒さなければ、食われる」ということのようだ。
「承知いたしました。力を尽くして手向かいましょう。
ですが、とても勝ち目があるようには思えないのですが……?」
『剣と己を信ぜよ』
「……」
とにかくやるしかない。今ここで死にたくないし、皆を蓬莱へ連れて行かなければならない。腹を決めた。
『もう間もなくやってくる。
準備せよ』
それだけ言い残し青蛙神の姿は、フッと消え去った。
泰山は、距離的に近い。
マオは仮小屋に戻って、聖剣を取り出し背負った。
キャンプ地からできるだけ離れるため、海岸線に沿って走る。
岬の上へ出た。草地の広場となっている。
ここを戦場とすることにした。
「魔」の気配が、色濃くなった。
マオは、背負った剣の包みをほどき、片手で握り締める。
呼吸を整え、身構えた。
「グウォォォォ――」
低い唸り声が、林の中から響いてくる。
「バキバキバキッ!」
木々が激しく揺れ、灌木が踏み折られる音とともに異怪な風貌のモノが、姿を現した。
雄牛を三倍大きくしたほどの巨体だ。三トンは、あろう。
青黒い身体で、全体的なイメージとしては獅子に似ている。
しかし、頭部が、醜悪であった。
首はなく盛り上がった肩と胸の間に頭部が埋め込まれている感じだ。巻かれた山羊が、横に張り出している。
目は真っ赤に焼かれた鉄のようであり、パックリと避けた口からは、杭のような歯が並んでいた。唇の両脇からドロッとした涎が垂れ、地に落ちるとジュッと音を立てる。小さな白煙が、上がった。硫酸か塩酸のようだ。
マオの前で、歩みを止めた。
口角を上げ、ニヤッっと嗤ったような表情を見せた。
「白、出でよ!」
帯に吊るしてある木彫りの仔犬を、片手で取って前へ抛る。
たちまち仔牛くらいの白い犬が、立ち上がるように現れた。
「グルルルルゥ――」
牙をむき、威嚇する。
だが、大きさから見て、劣勢は否めない。
「ガゥ――」
一声唸りを上げて、シユウが跳躍する。
踏み潰さんとする勢いだ。
ハクも、同時に跳んでいた。
喉元へ、噛みつこうとした。
「ギャイン!」
頭を下げられ、角で打ち払われる。一振りで、飛ばされた。
しかし、宙で一回転し、四肢でスタッと地に立つ。
トウテツの視線は、マオに向けられた。
口を大きく開け、踏み出して一飲みにしようとした。
「ガツッ!」
上下の顎が、音を立てて噛み合わされる。
だが、……。
マオは、大きく跳び退っていた。
地獄の獣はガチガチと歯噛みしながら、再び姿勢を低くし襲撃態勢を取る。
「トオゥ――」
ハクに騎乗し剣を振り上げたマオが、獣の眼前に在った。
眉間に一撃を食らわす。
「キンッ!」
金属音を上げて、剣が跳ね返された。
ハクは、獣の腹部横に着地する。
もう一度、剣を振るって胴を撫で切った。
傷一つ付かない。
(刃が、通らない――)
絶望的な気持ちに襲われた。
獣が、振り返る。
両眼が、燃え盛っていた。
(林へ逃げ込むか)
いったん身を引くことにする。
片手の指を二本立て、呪を唱えて風を起こす。
大量の木の葉が渦を巻き、マオとハクを囲う。
風の速度で、林へ向かった。
しかし、トウテツが立ち塞がっていた。
「グウォォォ!」
咆哮とともに術は破れ主従は、その姿を獣の前に晒した。
ジリジリと、距離を縮めてくる。
左右に跳んで交わそうとしたが、ことごとく遮られた。巨体の割には、敏捷であった。
落ち着いて、ゆっくりと追い詰めていく。ネコが、ネズミを弄んでいるかのようだ。
後退るしかなかった。
背後は、断崖絶壁だ。逃げ場は、失われた。
『トウテツの急所は、百会よ。
風伯の力を借りて、飛びなさい』
突然、頭の中に声が響いた。若い女性の声だった。
「百会」とは、頭頂にある重要なツボである。百の経絡が集まり、交差しているという。
「風伯」は、風の神だ。マオにとっては馴染み深いカミで、日頃から世話になっている。だが、自分自身が飛ぶことを願ったことはない。
印を結び、瞑目して呪を唱える。
「……我を大樹の高みへ誘い給え!」
そう締めくくり、剣の面を額へ当てる。
剣が、青白く発光した。
地上から突風が吹き上げ、マオは軸回転しながら宙に持ち上げられた。
止まった。カッと、目を見開く。
眼下にトウテツと、対峙するハクが見えた。
剣先を下にして柄を片手でギュッと握り、もう一方の掌を柄底に当て、急降下する。
ハクが激しく吠え立て、獣の目を引きつけた。
頭頂が、直下に定まった。
股を開き、両膝を少し屈して着地態勢を取る。
「――突!」
剣が鍔まで、頭骨に埋まっていた。
その間、数秒の出来事だった。
ジュワっと、臭い粘液が湧き出してくる。
すばやく剣を抜き、ヒラリと地に降り立った。
――妖獣の巨体は、ドドッと一気に崩れ去った。
土煙のようなものが消えると、跡形も残っていない。
ただ青銅製らしい「獅子の置物めいた物」が、転がっているだけだった。
片手で持ち上げられるほどの大きさだ。
(これが、トウテツの正体か……)
気抜けしたような思いがした。
よく見ると、頭頂に穴が開いている。
月の光が、強く射したような気がして辺りを見回す。
青蛙神が、前と同じポーズで立っていた。
マオは片膝を着き、軽く一礼する。
『よくやってくれた。
感謝する』
「……」
『これは、泰山の地底へ戻しておく。
おそらく浅はかな方士が、トウテツを使役しようと持ち出したのであろう』
「――その方士は?」
『食われたであろうな』
片方の口角が、上がった。
『ところで、そなたは、困りごとを抱えているようだな?』
「……はい。
我らは蓬莱をめざして旅を続けているのですが季節柄、後一月ほどで到達しないと渡海が難しくなるのです。
できれば、『斉』の東端から『倭』へ渡りたいのですが……」
「斉」は、山東半島を含む一帯にあった。
マオの言う「倭」とは、「山海経」に記された地名で朝鮮半島の南部を指す。ちょうど対岸に位置する。
航海の安全を考えれば、これまでのように陸地沿いに進むのが良い。だが、そうなると渤海湾を経巡ることになる。
日数が、かかる。それに加えて、「燕」の領域に入ることになる。この国は、漢民族と北方民族が住民の大半を占め、南方民族の越人とは言語や風俗習慣が異なり、昔から相容れない。トラブルが、予想される。
それに比べて「山海経」にある「倭」は当時、「燕」の支配下に置かれていた。しかし、沿岸地域においては同族である倭人が多く住み、意を通じ合うことができるようだった。
黄海を直接、渡りたい。だが、集めた情報によれば、幾晩も夜間航行を続けなければならないので、よほど天候や潮流に恵まれないと難破する可能性が、極めて高いらしい。
よって、マオは思い悩んでいたのだ。
『わかった。
願いをかなえてやろう。
東端に着いたら、我に祈れ』
青蛙神は、そう言って姿を消した。
古代中国において月には、「ヒキガエルが棲む」と考えられていた。
また、海洋民族は、月を畏れ崇めていた。
まず「月の満ち欠け」と「潮の干満」が深く関係していることは経験上、わかっていた。
また、海浜の生き物たちの行動に、大きく影響を与えていることも理解していた。
それらを「月の魔力(霊力)」によるものと考えたのだ。
その力は、人間にも及ぶ。女性の生理や出産は言うまでもなく、光を浴びすぎると狂気さえもたらすとされてきた。
西洋では、「気が狂う」ことを「ルナティック」と呼ぶ。狼男も、月光で変身する。
日本の南西諸島でも、洗濯物を夜通し干すことを「月晒し衣」と呼び、忌み嫌った。理由は、「月の精が宿る」からだという。
マオは、迷いを捨てた。
二日後、船団は山東半島の東端をめざして出立した。
去り行く船の群れを見送っていたものがいた。
木の枝に止まった二羽の白い小鳥である。