島の主産業は――貿易と陶業「カムィ焼」
白い砂浜の先には、サンゴ礁の海が広がっていた。
手前のリーフ(環礁)の中は、エメラルドグリーン。その向こうは、コバルトブルーの外海となっている。
礁湖の入り江状になったところに丸木舟が数艘、係留されていた。波除の側板が付いた準構造舟だ。十人は、乗れるだろう。
リーフを出たところに大型の木造船が、待機している。
(懐かしいな。
この光景は前回と、ほとんど変わっていない)
高校生だったカイトは、ここで一五歳のミーカナ(美華)と出遭った。
「自由奔放」と言えば聞こえはいいが実際は、気まぐれでお転婆な少女であった。裕福な家庭のお嬢様にありがちなタイプである。カイトも、さんざん振り回された。
だが、今となっては、甘酸っぱい思い出になっている。
(――成り行きで女王なんてやっているが、さぞかし窮屈な思いをしているだろうな)
三百年の時間差はあるが、カイトにとっては同時代に息づく愛しい存在である。
丸木舟から、大型船へ乗り移る。
(これも昔と、ほとんど変わっていないな)
新羅様式ではあるが、船底に島の巨木から削り出した一枚板を使用している。船体を支えるキール(竜骨)の役目を果たし、また、分厚いため座礁にも強い。
船は、長さ十七メートル、横幅五メートルくらい。全体的にずんぐりとしている。
マストは前と中央に二本、窓に懸けるブラインドのような帆が取り付けてあった。
中央に、小屋がある。中への出入り口のようだ。
水夫たちが、出港準備に追われている。
カイトたちは、甲板の後部にある屋形に案内された。中は、三畳間くらいである。
「グワーン、グワーン」
銅鑼の音が、響き渡った。
「エイヤ――、エイヤ――」
綱を引く掛け声とともに、帆が上がっていく。
帆は、横木と横木の間に編んだ竹の網が張られ、横長の面が上下に何層か連なっている。
船は、ゆっくりと動き出す。
沖に出ると、濃いブルーの海――。
フウカは、窓枠に手を掛けて外を眺めていた。
島に沿って、航行しているようだ。
「世話になる。
行き先は、秋利神か?」
カイトは、お茶の準備をしている女官風の中年女性に声を掛けた。
「さようでございます」
手を留めて、丁寧に答える。
秋利神は島で最も大きい川の河口にあり、「トカム」の王宮と港があったところだ。平地が少なく斜面ばかりの地であったが街が形成され、賑わいを見せていた。
現代では川の上流にダムが設けられて海へ流れ出る水量も少なく、人家はまったくない。とても人が住んでいたとは思えない場所である。
(今は、どうなっているのかな?)
ちょっと気になった。
島の経済全体には、さほど懸念を抱いていなかった。
鉄器生産と陶器「カムィ焼」が、あったからだ。ただ盛りを過ぎて凋落していることは、想像できた。
鉄器生産は、朝鮮半島から壱岐島経由で伝えられたと以前、説明を受けていた。
半島南部(釜山の周辺)では、古くから製鉄が盛んであった。半島南部沿岸から島々を含む北九州沿岸地域を生活及び活動範囲とするアヅミたちが、五世紀頃から「対馬・壱岐ルート」で、鉄製製品や原材料となる銑鉄(鉄鉱石を高炉で還元し鉄素材としたもの)を日本へ運び込んでいた。
徳之島の「トカム」では当初、銑鉄を買い入れて鉄製品に仕上げていたが、砂鉄を原料とする「たたら製鉄」に切り替え、生産を続けた。
有利だったのは製鉄に必要な木炭が、大量に生産できたことであった。島には樫や椎といった広葉樹が豊富だった。また、島の半分は古生層からなっており、いたるところで花崗岩が地表にも露出していた。花崗岩は磁鉄鉱を多く含み、砂鉄の母体となった。
「カムィ焼」は類須恵器とも呼ばれる陶器で、一一世紀から一四世紀にわたって琉球列島全般に流通していた素焼きの陶器である。
表面は青灰色で硬く、波型文様が刻まれている。壺を中心とし、貯蔵容器として使われた。
この陶器の生産拠点が、徳之島であった。地下式の穴窯跡が、数多く残されている。
様式は日本の陶器とは異なり、朝鮮半島南部から発掘される陶器と類似する。そのことから、「高麗の陶工が、徳之島へ製法を伝えた」のではないかとされている。
高麗は初めて朝鮮半島を統一した国ではあったが栄えたのは初期だけで、周辺の国々から度重なる侵略を受けて属国となるなど、不安定な国情が続いた。最後は、「元」によって滅ぼされた。
そんな状態であったので、小さくとも陶業を営むのに適した条件が備わった徳之島は、陶工たちにとって魅力ある土地であったことであろう。
とくに豊富な森林資源は、欠かせないものであった。
焼き物は、膨大な量の薪を必要とする。それも、火力が強いものだ。
一般的には、赤松が使われた。樹脂を多く含み、高温を出すことができる。また、火勢があり、炎の長さは一〇メートルにも及ぶ。窯の内部全体に、高温を供給できるのだ。
琉球列島の島々の沿岸には琉球松が、群生していた。これは、赤松に属する。それを見た島を訪れた陶工たちは、驚喜したことであろう。
歴史研究によると、製鉄と陶業、そして、炭焼きの技術は、セットで移動しているケースが、多いようだ。それらに共通して必要なのは、森林資源である。
徳之島は、内部に原生林が広がっている。関係者たちにとっては、願ってもない環境であったと言えよう。
さらに言えば、生産拠点としての条件が揃っているだけでは、産業として成り立たない。流通システムが、整っていなければならないのだ。
多くの取引先と大型船を持ち、航路となる海の天候や潮流の変動に関する知識と対処する技術が、必須である。
とくに「カムィ焼」は、大型船で運ぶ必要があったはずだ。日用品なので、大量に運搬して売りさばかないと利益が出ないからである。
また、南島路は黒潮の影響もあって潮流や風向きを読み違えると、とんでもないところまでへ運ばれてしまう。また、「七島灘」などの難所が、所々(ところどころ)にある。小型船では、なかなか乗り切れない。
こう考えていくと、すべての条件を備えた「商団」が、徳之島に存在していなければならない。他地域の船が立ち寄って仕入れていくだけでは、安定した生産と流通が維持できない。
数時間後、「トカム」の玄関口である秋利神の港が見えた。
斜面が段々畑のように造成されており、建物が点在している。高台になるほど造りが良くなり、屋根も瓦葺となっていた。
出迎えらしい人々が、集まっていた。
「さぁ、降りるよ」
カイトに促されてフウカも、艀に乗り移る。
港に降り立つと宮廷風の衣装をまとった人々や兵士たちが、一斉に跪く。
ただちにフウカは、豪奢な輿の中へ放り込まれた。
カイトは、馬に騎乗する。
石畳の坂道を揺られながら登っていく。
(私、どうなるのよ……)
フウカは、不安な気持ちになる一方、未知の世界に対する期待でワクワクする気持ちも湧いてきた。
やがて坂を上り切ったのか、平地へ出た。
輿が下ろされ、引き出される。
ついキョロキョロと、周りを見回してしまった。
正面には、赤い朱塗りの門があった。
開かれた扉の前に三〇歳代後半くらいの貴婦人が立ち、浜で出迎えてくれた若い女性三人も並んでいた。容貌から見るに母と娘の関係なのであろう。
丁重に招き入れられ、南国らしい樹木や花で満たされた庭を進む。旅する蝶「アサギマダラ」が、花々に群がって飛んでいた。
「ここが、トカムの宮殿だよ」
カイトが、解説してくれた。
確かに立派な建物ではあるが、普通の屋敷である。「宮殿」は、大袈裟だと思った。
「御屋形様が、こちらでお待ちです」
案内してくれた侍女(?)の指示で、部屋の中へ入った。
客間なのであろう。大きなテーブルが中央に在り、中年男性が座っていた。
ゆったりとした漢服、上に袖なしの長羽織を着ている。
髪は頭上で束ねて折り、根元を飾り紐で巻いてある。
太い眉毛と整えられた髭、目には柔らかな光りが宿っていた。
年齢は、四十歳くらいに見える。
後でカイトが教えてくれたところによると、男女とも宋国の服装とのこと。
「中国人なの?」
その時、フウカは尋ねた。
「いや、安曇氏系だから、日本人と思っていい。
新羅の王族の血が、少し入っているけどね。
あんな格好をしているのは、商売上の都合さ」
それが、カイトの説明だった。
男は立ち上がって両手を前で重ね、頭を下げる。
「どうぞ、こちらへ――」
正面の上席を譲られた。
「先祖より語り伝えられてきた方々をお迎えできましたこと、心より嬉しく思います。
当代の国主を務めさせていただいています『徳義高』と申します」
男は、そう言って深々と腰を折った。
(この人が国王なのか。
誠実そうな人だな)
フウカは、好感を持った。
それと同時に、浜でこの時代の人たちと会った時から感じていた疑問があった。
(何か、この人たちの話しぶり……、私たちの時代と同じみたいだな)
そう言えば、話している口の動きと伝わってくる内容が、一致していない。
翻訳機を通じて、会話しているようである。音声が耳からではなく頭へ直接、流れ込んできていた。ならば、こちらの話も翻訳されて伝わっているのであろう。
(まぁ、いいか。別に問題はないし、便利だし――)
割り切ることにした。
「当初から、こんなことを申し上げることは失礼かと思いますが、だいぶ以前と印象が異なりました」
出された薫り高いお茶を一口飲んでから、カイトは言った。
「――どのように、でしょうか?」
こちらを、うかがうような顔だ。
(当たり前じゃん。三百年もたっているんだら――)
フウカは、脇で聞いていて思った。
「街に活気がないように思えました。人や家屋も少なくなっているようですね」
ズバッと、述べる。
「確かに……、そうお感じになられたでしょう。
正直申して、もはや国としての体はなしていません。
いちおう対外的には名乗っておりますが、実態は、島の一商団に過ぎないのです」
「……」
「もともと『トカム』は、寄留商人たちの話し合いで生まれた組織です。
王位も徳家が世襲してはきていましたが、さほど権力はありませんでしたからね。
今、島には他に三つの商団が、あります。
それぞれが港と倉庫を持ち、独自に動いています」
諦観しているような口ぶりだった。
「カムィ焼」も隆盛期は過ぎたが、まだ島々に需要はあった。南宋との陶磁器取引は、逆に増えているくらいだという。それでも利幅は、大きく減った。
現在の取扱品は、「カムィ焼」と肥前(現在の長崎県)の「石鍋」を中心に中国産陶磁器、そして、硫黄や夜光貝などの貝加工品、鉄器(主に農具)といったところだ。
問題は、商圏と税金にあった。
「トカム」を立ち上げた頃は、東シナ海に接する国々に船を送って手広く交易していたが、今では九州南部と沖縄本島との間を行き来しているだけだという。
商団としての税金は「津税」(一種の関税)が主で、鎌倉幕府の出先機関である薩摩国河辺郡の郡役場へ納めているとのことだった。
「この頃の郡司は、千竈氏だよな。
関係は、どうなんだろう?」
カイトは、そう思ったが、この場では問わなかった。
「沖縄の方ですが、天孫王朝時代は女王『美華様』がトカム出身でしたので、後ろ盾となって何かと便宜を図っていただきました。お陰でカムィ焼も一気に八重山の島々(石垣島など)にまで販路を広げることができたのです。
しかし、その王朝も黄昏を迎え、本島に拠点を置く各商団が力を持つようになり、トカムの販路を荒らすようになりました。私たちとしても、それを阻止することが、できませんでした。ですから現在では、那覇の大手商団へ品物を卸すだけとなってしまいました。
陶磁器など中国商品の仕入れも、同様です」
義高は、淡々と実状について語った。
「トカム」は、十世紀から徳之島に拠点を構え、南島路を行き来して朝鮮半島から日本、そして、中国大陸との間を結ぶ交易をおこなってきた。
商品は、初期において鉄器や「夜光貝」の加工品など、一一世紀後半からは「カムィ焼」の他、中国の陶磁器なども扱うようになった。
一三世紀に入ってからは不穏な情勢の朝鮮半島周辺の航路を避け、リスクはあっても南島路経由で中国大陸と日本との交易を継続しようという傾向が強まった。当時の南宋は、モンゴル帝国の圧迫を受けていた。
ちなみに宋は、青磁や白磁といった磁器生産が栄え、日本でも需要が高まっていた。よって、徳之島の商団も時流に応じて、そうした商品を多く取り扱っていた。(一四世紀頃と推測される徳之島の崖葬墓からは、副葬品として青磁が見つかることが多い)
義高の話は、さらに続いた。
フウカは飽きてきたが、カイトは熱心に耳を傾けている。
「日本側との取引も直接は、やれていません、
『坊津』で、博多津から出向いてきた商人と売り買いしています」
以前は、大宰府まで荷を運んでいたはずだった。手間は省けるが、当然のことながら利幅は減る。競売のかたちが取れないからだ。
一三世紀半ばの「博多」は、宋の商人たちによって牛耳られていた。なぜなら貨幣経済に精通していたからである。「宋人街」が形成され賑わうほど、隆盛を誇っていた。
当時、日本と宋の間に公式な貿易関係はなかったが寺社や地元領主、そして、宋商人たちによる「私貿易」のかたちでおこなわれていた。海外との取引には、貨幣が欠かせない。
しかし、鎌倉幕府は貨幣を発行していなかった。したがって取引には、主に宋銭が使われた。物と物とを等価交換するには、貨幣を介在させるのが便利だった。
日本人には貨幣価値というものが理解できなかったし、商取引の知識もなかった。また、海外事情にも疎かった。そのため、宋人たちの独壇場となってしまっていたのだ。
宋銭を宋人は、船底に敷き詰めて「重し」にするほど、大量に運び込んでいた。
大宰府が海外取引の窓口となっていた頃は、そこへ納めるだけでよかった。だが、その機能は衰えた。日本国内に販路を持たない「トカム」は、博多商人たちに頼るしかなかった。
このような様々な理由で「トカム」は、往時の勢いを失っていったらしい。
過去の栄光を知るカイトは、寂しい思いを禁じ得なかった。
「もう国王の地位を返上して、一商人に戻るつもりです。
余計な業務や責任を背負い込まなくてもよくなりますからね」
つまり「王国であることを止める」ということである。形骸化してしまった以上、続ける意味はなかった。
義高は、最後に「フゥ――」と長いため息をついて話を終えた。
「……ご苦労であったな」
カイトは、慰労の言葉を掛けた。
「トカム」の経緯と現状は、これでわかった。
だが、下世話に言えばグチに等しいものであり、カイトたちを心待ちにしていた理由とは思えなかった。
「我らに伝えたいことは、それだけか?」
問い詰めるような口調だった。
「――いえ、じつは、島の存亡に関わる情報が入ったのです」
義高は姿勢を正し、訴えかけるような視線を送ってきた。