「ガイア仮説」から考える地球の環境変化と災害
二〇二〇年(令和二年)八月初旬、カイトは熱田神宮の境内を友人と二人で歩いていた。
久々に夏空が広がり、セミの声が響き渡っている。長かった梅雨も、ようやく明けた。
福沢海人、十九歳。東京で生まれ育ったが、大学は名古屋を選んだ。今は文学部史学科の二年生である。とくに目的があって選んだわけでなく、たまたま偏差値が見合っていたのと、比較的自由そうな校風に惹かれて、なんとなく決めただけだ。百年近い歴史を持つミッション系の大学である。
一年間住んでみて土地柄も、けっこう気に入っている。「偉大なる田舎」と言われる名古屋のローカル色が、肌に合っていた。
「今年の雨、長い上に凄かったな」
空を見上げながら、隣の高木勇也が言った。ユウヤは同じ大学で、経済学部の学生だ。
「だよね。
五十年、百年ぶりの豪雨だもんな。
九州なんか、大変だったみたいだし……」
カイトも、うなずく。その声には、実感がこもっていた。
父親の出身地が鹿児島県で自分自身も小学生の頃、一年間、住んでいたことがある。
それもしても、「五十年、百年ぶり」という言葉は、毎年のように耳にしている。
大学は、夏休みに入った。それで、ユウヤが仲良くしている教授のところへ遊びに行くことになった。
教授の家から、ほど近い神宮の杜で落ち合う予定である。午前十時の約束だ。
神宮の杜はクスノキなどの照葉樹が多く、涼しそうな木陰が所々にあった。
二人が語らいながら歩いていくと、木陰の下のベンチに腰を掛けている人が見えた。
脚を組み、文庫本を広げていた。痩身で「逆さ瓢箪頭」……と言っては失礼だが、額が広く頭頂付近まで前部が禿げ上がっている。白いものが目立つ髪はモシャモシャで、長めだ。
何だか気味の悪いイラストが描かれた黒いTシャツ、白の半ズボンといった格好。
「先生!
お待たせしました」
ユウヤが、声を掛ける。
「オッ」
男は眼鏡を指で押し上げ、軽く手を挙げた。
一般教養科目の教授で、「地球環境」が専門分野だ。とくにジェームス・ラブロックが唱える「ガイア仮説」の研究者で、その分野では国際的に名が通っているようだ。大学では「地球と生命」という授業を担当している。
二人が通う大学には「三奇人」と呼ばれる教授たちがいて、その内の一人であるとのこと。 ユウヤの所属するサークルの顧問だ。
サークルの実態は、日本よりも世界で知られる女性グループのファンクラブである。
ヘビーメタルとアイドルを融合したような特異なスタイル、驚異的なボーカルとダンス、バックバンドの超絶テクニックで、ファンを魅了しているらしい。
教授自身も熱狂的なファンで、国内で公演があるときは、大学の講義を放り出してでも参戦するという。名前を記すと差しさわりがありそうなので「A教授」としておこう。
そんなチャランポランな人間でも、大学側は解雇するようなことはしなかった。A教授に実績があったからである。大学は、実力本位で教員を集めていた。要は研究論文の数と国際的な評価さえあれば、かなり自由に動けた。
A教授の講義は、学生たちに人気があった。講義というより「放談」といった調子で、気軽に聴けたからだ。興が乗ると、お気に入りの曲の一節を踊って歌うこともあった。
ユウヤも「超」が頭に付くくらいのファンなので、意気投合したらしい。サークル活動以外でも、校内で顔を合わせると、時間を忘れて話し込むとのこと。
カイトには「オタク」の心理はよくわからないが、先生と生徒の立場や齢の差を超えて話に熱中できるなんて、うらやましいと思った。
それでA教授に興味を持って、ユウヤと一緒に来たというわけだ。
昭和の香りが漂う家屋の門をくぐる。ここに独りで暮らしているとのこと。掃除や洗濯も、自分でやっているらしい。案内された書斎は、窓を除いて三方が本棚になっていた。さすがに学者の家である。
「適当に座ってよ。
今、お茶を入れるから」
教授は、キッチンへ向かった。
「へぇ――、すごい量の本だね」
カイトは周囲を見回しながら、ユウヤに向かって言う。
「いちおう教授だもんね」
初めて訪れたはずなのに、なぜか自慢げに答える。
「やっぱり地球環境に関する本が多いみたいだ」
「そりゃ、そうだろう。
日本でも指折りのガイア仮説論者だからな」
「ガイア仮説って何なの?」
「別の言葉で言えば、地球システム論といったところかな」
「地球システム?」
「人間の身体と同じように地球自体が自己調整機能を持っているのではないか?
――って、こと」
「地球が意識を持っているということ?」
「そうじゃないんだ。
『地球と生物が、相互に影響し合って環境を作り上げている』、そのシステマティックなつながりを『一つの生命体として見なし、考えてみよう』ということ。
事実関係に基づいて、仮定しているだけなんだ。『地球自身が、意思を持っている』と言っているわけじゃないんだよ」
「でも、生命体なら意思を持っているよね。
だったら『意思の働き』じゃないの?」
「身体を考えてみると、わかると思うんだ。
君は確かに意思を持っている。
でも、意識して心臓を動かしているかい?
毛穴を開け閉めして汗を出したり、引っ込めたりしているかい?
病原菌が入ってきたら白血球などを指揮して、意図的にやっつけようとしているかな?
それらは、ほとんど身体自身が自動的にやっていることだろ?
人間の身体だって『自然界の自動システム』の一部なのさ。
個人の意思なんて、あまり関係ない」
「……?」
「身体は一つの巨大な街で、そこには様々な役目を持った器官があり、細胞たちが自分たちなりに働いていると考えてみたらどうだろう。
そうした一生懸命働いている彼ら彼女らの一人一人の動きを知っているわけではない」
「そんなマンガがあったよね」
そう言われて、ちょっと納得できた気がした。
「正直言って、まだ勉強を始めたばかりだから、正しい説明かどうかわからない。
まぁ、僕は、今の時点で、そう理解しているといった程度かな」
「うーん、話を聴くと、『そうなのかな』とも思うんだけど……。
なんとなく言いたいことはわかったが、理解したとは言い難かった。
「ガイア仮説も、一歩間違えるとスピリチュアリズム(心霊主義)に陥る危険性があるから、気を付けないといけない。
でも、『地球に独自の意思があるかないか』の議論は、気にはなる」
ユウヤは唇の端を上げて、ヘンな笑いを見せた。
「人間が地球環境に悪影響を及ぼすほど増えたら、自動的に調整されちゃうのかな。
……あ、はは」
カイトも、あいまいな笑いをもらした。
「お待たせぇ――」」
飲み物とお菓子を乗せたお盆を捧げ持ち、A教授が姿を現した。
「どうも」
ユウヤが、ペコっと頭を下げる。
「話が、はずんでいたようだな」
教授は、ソファへ腰を下ろす。
「初めまして。
文学部史学科二年の福沢海人です」
自己紹介をする。
「そうかい。よく来たね。
うれしいDEAYH!」
最後を叫ぶような口調で言いながら両腕をXに組み、指でキツネを作っていた。
カイトは、突然のことにビックリした。
「は、ははは……。
相変わらずですね」
そう答えユウヤは、カイトの方を向いた。
「これは、僕らの仲間の挨拶のようなものだ」
釈明するように言った。
教授は澄ました顔で、アイスティーを口にしている。
「ようやく梅雨が明けたようですね。
数十年に一度という大雨が各地で降って、驚きました」
まずは当たり障りのない話題をと思い、カイトは言った。
初対面の緊張をほぐすためだけの軽い話のつもりだった。
「毎年、豪雨か旱魃といった状態が続くんじゃないかな」
教授も、サラッと答えた。
ここまでは、よく交わされる会話である。
「そうなんでしょうね。
温暖化の影響なんでしょうか?」
「まぁ、そう考えても間違いじゃないよな」
「これから世界の気候は、どうなっちゃうでしょうか?」
「二〇三〇年までに平均気温が、産業革命時から一・五度上昇するとされているね」
「十年後ですか。
どんなことが起こるんですか?」
「北極や南極の氷が解けて、海水面が上がる。
豪雨はもちろん、巨大な台風やハリケーン、水不足、旱魃などが、世界各地で多発する。
――といったところかな。
もう起きているけど」
ユウヤが口をはさんだ。
(よく言われていることだよね。
ちょっと厳しくなるかもしれないけれど、たいしたことないかも)
とくに気に留めなかった。
「カイト、『たいしたことない』と思っていない?
『他人事だし』ともね」
「えっ?
そんなことないよ。
豪雨が続くなんてなんて、コワいよな」
ズバッと指摘されて、動揺した口ぶりとなった。
「日本だけ見てもコロナと合わせて経済に大打撃を与えるはずけど、アジア各地でも豪雨災害は多発しているんだ。
バングラデシュでは洪水で国土の三分の一が水に浸かり、最悪四割にも及ぶと政府が発表している。
中国では、史上最大規模の豪雨災害に見舞われている。すでに四千五百万人以上が被災しているようだ。
とくに長江流域では、酷いらしい。映像なんか見ると一面、泥の海だ。
中流域にある最大の水力発電所『三峡ダム』も、最高警戒水位を超えた。
万一、ここが決壊したら、南京や上海も水没すると言われている。
一般家屋だけじゃない。工場は操業できなくなるし、田畑が広範囲でダメになり、農作物が腐ってしまう」
「それが、日本に影響するの?」
「ああ、甚大な被害がね」
「……?」
「中国は『世界の工場』と言われているくらい、関係する部品工場が多い。
自動車なんて、部品一つ欠けても生産がストップしてしまう。組み立て工場に備蓄は少ないし、すぐには代替もできない。
とくに長江流域は、中国のGDP(国内総生産)の四〇パーセントを占めているほどの生産拠点だ。そこが壊滅的な被害を受けたら日本はもちろん、国際経済も大混乱する。
おまけに製品の一大消費地でもあるんだ。コロナで耐えていた企業も、倒産するところが増えるんじゃないかな」
「それは困るよね」
「それだけじゃないんだぜ」
ユウヤは、だんだん乗ってきたようだ。語り口に熱がこもる。
「すでに穀物や野菜、豚肉の値段が上がっている。
とくに穀物が大ダメージを受けたら、アメリカからの輸入を増やすはずだ。
相場より高い値段で買い取ってくれるなら、アメリカも喜んで輸出するんじゃないかな。ここ一、二年の間はね。
その分、他国へ回す量が減る。日本も、大量輸入国だ。たちどころに影響が出る。食糧が、高騰し、手に入りにくくなる。とくに畜産農家は、飼料に困るだろう」
「踏んだり蹴ったりだな」
災害対策で国の財源が痩せ細っている上に企業の力も衰えてしまっては、立ち行かなくなる。
(しかも、数年間続くようなら……)
世界情勢に疎いカイトでも、何となくわかった。
「まだまだ序の口だがね。
破局に向けて、第二幕の始まり始まりィ――DEAYH!」
教授は、またキツネポーズをとる。
「地震と火山、それに二〇五〇年問題ですね」
苦笑いを浮かべながら、師匠に応える。
「何か起こるの?」
「日本だけじゃなく地球全体も今後、壊滅的な打撃を受けると予想されているんだ」
「少し脅してやろう」といった悪戯っぽい話しぶりから、急に声が沈んだ。
「地震や火山噴火の話題は週刊誌で、よく取り上げられているけど、切羽詰まっているの?
何か新ネタがないときの『埋め記事』じゃないの?」
「南海トラフ地震」や「富士山の噴火」なんて話は、ここ数年、定番みたいに取り上げられている。
いずれも「もう間近だ!」と危機感を煽っているが、「なるほど」とは思っても実感はわかない。「また言ってるな」といった感じだ。
「確かにね。
週刊誌側としては、お手軽なネタかもしれない。
煽るには、格好のネタだからな。
だが、大げさな表現はいただけないけど、データ自体は確かな場合が多い」
ユウヤは手の指を組み、膝の間において話し始めた。
教授の顔からも、ニヤニヤ笑いが消えている。
腕と足を組み、中空をジッと見つめ、何か考えているようだ。
「まず差し迫っているのは、南海トラフ地震だ。
ほぼ確実に起こるよ」