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婚約破棄が順調すぎて  作者: 枯枝折子
9/11

承~4

テオドラの中には、たまり続けた、悲しみや鬱憤という名の氷結や、たくさんの言葉が渦を巻いていた。

一度決壊すればそれはとんでもない威力をもって自分自身もおじ様も傷つけてしまうだろう。漏らしていい言葉を選んでいるうち、やはり自然と無口になってしまう。

おじ様を迎えるはずだった。

それまでに心を少しずつ落ち着けておく必要があったのにと、先に領主館にお着きだったおじ様を恨めしく思った。


滞在一日目、夕食をする間、二人はともに言葉少なくぎこちない、いつもの二人だった。

料理の感想についてしか話題がない。

夕食後テオドラは書斎にこもり、領主として幾つかの決済済みの案件や財務諸表に目を通しながら、二つの書類箱から中身を取り出した。


……これを、おじ様の前に積み上げて、一からこんこんと状況を説明するの?

そんなことできるわけがない。何を考えてこの資料を用意したのだったか。

当時のテオドラの心境がさっぱりわからない。軽くめまいを覚えながら、テオドラはそれらをまた箱の中に戻し、鍵をかけた。

おじ様に会えば、感情が先行するせいで理詰めの計画などきれいに吹き飛んでしまう。……なんて無能なのかしら。

頬がカッとして熱いのは、季節が夏だからだ。今夜は涼しい湖畔も、少し蒸している。雨が近いのかもしれない。

埃と汗を流したいからと、熱めのお風呂を用意してもらい、髪も洗ってさっぱりしたところでその夜ははやばやと休んだ。


翌早朝は、雨が窓を打つ音で目を覚ました。

今はまだもう少し……と二度寝を決め込んで、次に目を覚ますと正午近かった。顔がむくんでいる気がして部屋の外に出られず、朝食兼昼食は寝室で摂った。そして午後は書斎にこもって多少の執務を執って過ごした。

まるで、籠城しているかのよう。

休憩のお茶も書斎で済ませた。湖に面した書斎の窓からは、朝から続いているらしい雨が、木立の葉を打つ様子がよく見えた。湖面も揺らいでいる。

長く続く雨など、この季節には珍しい。

外の散策もできなくて、おじ様も退屈でお過ごしだろうと、お茶もご一緒しなかったことを後になってから悔いた。


「お茶もご一緒できずに申し訳ありませんでした。今日は退屈でお過ごしになったのでしょう?」

夕食時にそう切り出して、非礼をおじ様にわびた。

「……いや、そう退屈でもなかったよ。手紙を幾通か友人宛てのを書いたし……帝都で買った本も読み進んだ」

「……どんなご本?」

会話を長く、少しでもと思い、テオドラはあるかなしかの勇気を絞り出した。

「戯曲だ。一昨年帝都で流行した舞台の戯曲本が今年になって出版されて……」

「おじ様も。……おじ様も舞台を観劇されたの?」

「劇場には行っていないよ。友人たちから面白かったと聞いたころには千秋楽が終わっていて……流行には疎くてね」

少し恥ずかしげにおじ様は弁解をされた。……流行に疎い?

「だから、ドレスの青縛りだったのですわね」

「……『青縛り』? 二つ前の冬に帝国で仕立てたドレスのことか」

おじ様が流行に疎いとおっしゃったついでに、テオドラは思い出した。

「ええ。あの頃、帝国社交界のはやりのお色は赤やピンクの暖色系や、オレンジや黄色といった明るい華やかなお色だったそうなのよ?」

「……そうなのか? ただ、君の瞳が青だから、青のドレスはよく映えるだろうとそれ以外が思い浮かばなかったんだが、さすがにすべて青でと申し付けたのはまずかったか。……いや、でもあのあと帝国の令嬢や貴婦人方は、みんな濃い青やでなければ水色を好まれていたようだった……」

「あの夜会で、わたくし一人が青のドレスだったの。それで、ギュスターブ様が予言をなさったんですわ。おじ様がわたくしに伝えてくださった、予言のことです。よほど悪目立ちしていたんでしょうね。それに、おじ様の瞳の色だもの」

あの夜の苦々しい嫉妬心や優越感が思い出されて、テオドラの胸はわずかに痛む。心の深淵に佇み、飛び込んだあの夜。


「帝国では今後青いドレスがはやりになるだろうって、ギュスターブ様がおっしゃったんです。たしか、それでは寒々とした夜会が続いて、お風邪を召してしまいそうですね、とか、そんなお話をしたんだったと思います。病を得たと伝えてほしいって、そのことですわ。わたくしとおじ様をきっかけに、……帝国で青が流行になったからと……多分、そうなんですわ……」

尻すぼみにだんだんと声を小さくして、少し饒舌にしゃべりすぎたと、テオドラは自分を恥じた。

かつて何でも他愛なくお話できた時のように、思いのままに口からこぼれ出る言葉を紡いで。

まるで、気安い間柄であるかのように、ぎこちなさも何もかも一瞬忘れてしまった。

心中うろたえるテオドラの前で、おじ様は音を立ててカトラリーを置かれ、慌てたように口元を掌で覆った。

なんだろう、この反応。あまりにもおじ様らしくなく、テオドラは目を見張る。

「風邪をひいた? 病を得た……? なんだ、そんな話を、あの時……青が流行して、寒々しい夜会が続く……?」

「おじ様?」

まるで、テオドラの心中のように、おじ様はあからさまにうろたえておいでだ。

「……おじ様?」

テオドラもナイフを置いて、正面に座る人をじっと見つめた。

「あ、……いや、なんでも――――いや。……ああ、何と話せばいいのかわからない。勘違いをして、僕は……」


ブドウ酒の入った銀杯をごくりと呷って、おじ様は目元を赤らめた。動揺を収めるために、それしか方法がないとでもいうように。……大人はずるい。テオドラは思った。

「あの夜……いや、あの冬、というべきか。君の君らしい笑顔をたった一度見たのが、ギュスターブと話している時だけ、だった。頬を少し赤らめて、まるでギュスターブに恋をしたかのように見えた……。風邪をひいたとか、病を得た、という言い回しが……帝国の社交界では……戯れに恋に落ちたとか、……物狂おしい恋に落ちたとか、そんな隠語として話されるんだ。だから、ほんのわずかの間君と話しただけでギュスターブが君に病を得たと伝えてくれというから……彼との間にも何かがあったのかと邪推して、僕は……いや、もちろん君に、アンリ殿がいるのはわかっているが……」

「それも!」

誤解なんです!

叫びかけて、テオドラは口をつぐんだ。声のボリュームを下げて、続ける。

まさかおじ様の中で、テオドラの恋愛がそんな壮大で荒唐無稽なものになっていたとは、思いもしなかった。


「おじ様は思い違いをされていらっしゃるわ。わたくしとアンリ殿の間には、港湾建設や築港の仲間、という以外に表現する言葉がありません。あとは、普通にカミーラのお兄様とか、ユージェニー様のいい方、とか……。港の仲間ですけれど、アンリ殿は違うのです。テオドラが未来を夢に見る、夢の方ではありません」

絡まった誤解の糸を解こうと、何とか言葉を選んで選び出す。

「ユージェニー、様、とは……?」

「マチルダ侯爵家の二の姫様で、最上級生のお姉様です。サロンでご一緒下さる、わたくしのお友達の一人。アンリ殿とは幼いころからの仲良しで……学院をお姉様が卒業されたらすぐにご結婚されるお約束だそうです。まだ内緒ですわ。クライシュテルス家がいまいちあか抜けない辺境だからという理由で、ユージェニー様のお父君がご縁談に消極的なのですって」

「君とアンリ殿とは長期旅行に二人で出る仲だと……彼のために君はデジレとの関係を終わらせたいと――――」

おじ様は口元を抑えたまま、テオドラとは目を合わせずに、絶句した。

「政務で出かけた長期の視察旅行でした。官僚方や海洋地質学の教授もご一緒の、視察団の一員として出かけたんですわ。わたくしが主導いたしました。我が家からは侍女が二名付き添ってくれましたし、三台の馬車で出かけました。あちらは従僕や補佐役もご一緒、そういう旅には、出る仲間です」


「――――なんて、ことだ。なんという誤解を僕はして……しかし、兄上が……兄上のおっしゃることに間違いはないと……。――――アンリ殿にもとんだ失礼を……」

「ジョージ義叔父様は、言葉が足りなかったとお思いのようでしたわ。まさか未婚の男女同士が二人だけで長旅なんて考えもしないだろうって。おじ様がそれを言葉の額面通りに受け取ってしまうとは、とお考えのようでした、よ……? 学院からあとで流れた噂は、デジレ殿下の周辺が流した悪意あるものでしたし……」

え、ちょっと待って、おじ様。アンリ殿とも何かおありになった?

それはひょっとすると、テオドラに絡んできたときのようなことを?

「おじ様、アンリ殿にも何かおっしゃったのですか」

「あ、……ああ。先般の王宮での夜会の折に、アンリ殿に会って。……彼がこの夏は恋人のご実家に結婚のお許しを得るために出かけるのだと清々しく笑っていたから――――」

「ユージェニーお姉様の、マチルダ侯爵領にですわ」

「こうしゃく領には人を食う熊が出る。彼女の父上が貴方をお許しになるはずがない、こうしゃくは恐ろしい方だ、と脅迫した……君の、父上に。ジラルド兄上に会うために、ヒンクシー領へ入るのだと思っていたから」

テオドラは、おじ様が泥酔して戻られた王宮の夜会の夜を思い出した。

貴族社会とは苦労の連続だと、かつて乳母のジェラルディン夫人が言っていた。

アンリ殿は王弟殿下からそんな恐ろしい言葉を授けられ、生きた心地がしなかったことだろう。

そして、わけがわからなかったことだろう。なぜマチルダ侯爵家へのご挨拶を、王弟殿下から咎められるのか。

ケニントン公が、ユージェニー様に思いを寄せているからのライバル視なのか、とお疑いになったかもしれない。

テオドラは、遠いマチルダ侯爵領にいらっしゃるだろう盟友、アンリ殿のことを思った。

今頃はどうされているだろう、ユージェニー様との結婚のお許しは無事頂けたのだろうか?

「おじ様! なんてことをなさっているんですか!」

「まったくだ――――」

おじ様は目に見えてわかるほどに落ち込まれ、食事中の席を立った。

「失礼、今夜はこれ以上は……」

銀杯だけを取り上げて掴み、給仕に言い残して力なくダイニングを出ていく。

せっかく珍しくお話が続いていたのに、なぜこういう結末を迎えてしまうんだろう。

まるで、持久力や忍耐強さを試されているかのようだ。一進一退、という言葉をテオドラは思い浮かべた。

時間は、ある。まだ二日目。


翌朝は、目が覚めても二度寝へ流されることはなかった。雨は上がっていたけれど、湖畔の領主館の周りは深い霧に覆われている。何かが、外気をかき乱すような、何かを振り切るような音がするのに導かれて、起き上がったベッドから夜着に薄手のガウンをひっかけたまま、隣室の書斎へ移動した。

書斎のカーテンをそっと開いて窓の外を見下ろせば、濃い霧の中で模造の木剣を振るう黒髪の後ろ姿が見えた。

名匠による彫刻のような上半身は裸だった。見事な筋肉が細身の体を覆っている。

見たことのない剣の扱いは、帝国騎士団流の物なのだろう。

拳銃や銃剣を武器として使用するようになった王国ではそれ自体がすでに珍しい剣技に、テオドラは見とれた。

『生前』日本の殺陣の形とも違う。洋式、というべき剣遣いは見慣れないこともあってことさら美しく感じる。

そんな騎士道の精神に触れた方がなぜ、と思いもする。

アンリ殿に対する、いささか常識的ではないような振る舞いのことだ。

恋人の実家へ結婚の許しを得るために出かけるとうきうきしたアンリ殿の行き先を、おじ様はヒンクシー領だと思った。おじ様の中で、アンリ殿の恋人とは『二人だけで旅に出る』テオドラに他ならず、事実、脅した。

こうしゃく領には人食い熊が出るぞとか、(テオドラの)父上は怖いぞ、とか、(テオドラの)父上は貴方を許さないぞ、とか。

そういえば、デジレの側からも婚約破棄の噂は吹聴されている。おじ様もそれをどこかからお聞きになったのかも。

そんな時、テオドラの『昵懇』の方と信じ込んでいるアンリ殿がタイミングよく恋人の実家に、などとお話なさっているところを聞きつけた? ……それで脅した。

――――それはやはり、真実テオドラとデジレが結ばれてほしいと思うが故の暴走?

そして、まさかギュスターブ様との間にも色事の存在を疑われていたとは。

おじ様にとってテオドラとはなんとはしたない、恋に奔放な娘と思われているのだろう。

……そこも是正しなければ。自分の潔白を、どうやって証明すればいいのか。

思い悩む三日目が、そうして始まった。


「朝食の席にふさわしい話題とも思えないのですけど」

前置きして、テオドラはおじ様に朝食時にはふさわしからぬ話を持ち出した。

おじ様は稽古のあとで汗を流されたらしく、髪はまだしっとりと濡れ、薄い白いシャツやひざ下丈の砂色のスラックスをお召しだった。

それは『生前』風に言えばカプリパンツやクロップドパンツと呼ばれるだろう、リゾート風の装いだった。足元は仔牛の革の柔らかい靴。こちらも子爵領でお過ごしの際の定番だ。

喪中のテオドラは、黒や藍や濃紺といった装いになる。

夏場であれば白を重ねていてよく、白の薄手のレースの下着に、少しでも涼しげに見えるよう苦心して今日は濃紺のドレスを重ねていた。


「おじ様は、夏が終わったらアンリ殿に謝罪をされるべきだわ。本当は今すぐにでも。ギュスターブ様にもよ。わたくしとの間に色恋を疑われて、お二方ともご迷惑を被っているのですもの。おじ様は真摯に謝罪なさって下さいね」

「しかし……ギュスターブはともかく、アンリ殿は……その、不実ではないか。君の心を惑わせておいて別の方を結局選ぶなど……」

「わたくし、アンリ殿に心惑わされたことなど一度もありませんけれど。昨夜も申し上げましたわよね、アンリ殿は友人のカミーラの兄君で、単に港の会合の仲間だと。政策が近いだけの親しい仲間なんです。政務の旅は共にしても、こうしてくつろいで朝食を共にした機会が昨夏は幾度もなかったわ。お互い未婚ですもの、そこはわきまえて寝室で摂るようにしていました。ご一緒の朝食だって、それは宿の都合で同行の官僚方や教授もいらしての席でしたし」

「しかし……」

おじ様はまだ納得がいかないご様子だ。


「おじ様は、なぜアンリ殿が、わたくしの夢の方だとお疑いなの」

「それは……」

口ごもり、続けようとした言葉を、おじ様は飲み込んでしまわれる。テオドラは生乳で作られた特産の『湖畔のヨーグルト』をスプーンで口にしながら、続きの言葉を根気強く待った。沈黙が長く続き、どれだけ我慢すればいいのかと一度スプーンを置いて南からきたオレンジジュースのグラスに手を伸ばし、一口飲み下してグラスを置いた。

おじ様はいまだ言葉を選んでいる。

「――――アンリ殿は、麗しい男性だ。同じ男の僕の目から見てもそうだ。魅力的な人だ。王立学院に在学中も、女子生徒なら誰でも一度はアンリ殿に恋をすると言われていたほどの人だ。君にもわかるだろう、冬の神のように美しいと。そうだろう、見事な銀髪に黒の瞳をお持ちだ」

「……そうでしょうか?」

諸女子生徒たちや、ユージェニー様の審美眼に疑問を持つわけでもなく、客観的に見ると確かにそういう方だし、おじ様さえも麗しいとお思いになるほどの方なのかもしれないが。

今テオドラの前にいて、困惑げに眉根を寄せている、黒髪に群青の瞳のその人より心を揺さぶる方には、テオドラはこの世界で巡り会ったことがない。

いつだって、美丈夫ぶり貴公子ぶりではおじ様こそが至高であり究極だ。

人柄も、声も指先も、テオドラにとっては目の前の方こそが最上だ。

思うことは多々あるにせよ、何より最愛の方だ。

「誰だって、少女なら心を奪われる、そういう方だ」

「……それはおじ様の思い込みです。現にテオドラはアンリ殿に心を奪われたりしていません。本当よ? それは、わたくしの好きな方に対しても、ひどいおっしゃりようだと思うわ。わたくし、そう軽々しく思う方を変えたりしないもの。ずっとその方だけをお慕いしているんですもの」

「そう、か……お前にとっては、そうなのだな……」

そうおっしゃって、おじ様はまた口をつぐまれ、何かを熟考されている。納得はされたのだろうか。アンリ殿はテオドラの思い人では決してなく、惑わされたり誑かされたりしたことも一度とてないと。

「確かに、……私の勘違いでとんだご迷惑をおかけしたようだ。クライシュテルス家に、思い違いをしていたことと、ひどい脅迫を……気鬱になられがちの折にむやみにお心を惑わせるような言動をしたことを謝罪する手紙を、書こう……。もちろんギュスターブにもそうしよう。病を得たと口にしたあいつの襟首を絞め上げたのも間違いなく僕がやったことだ」

「おじ様……ギュスターブ様にもそんなことを……?」

「あいつは軽薄だ。君にふさわしいとはとても思えない。だから……そうだな、ついカッとして、手を挙げた……」


テオドラは愕然としながら、捨て置けない言葉もまた耳にした。テオドラにふさわしい、人。

婚約者に対して不実なところだけはそっくりな婚約者が、テオドラにはいる。

「……わたくしにふさわしい方って、どんな方。デジレ殿下がそうだとおじ様はおっしゃりたいのでしょうけど、あの方はご自分で恋人を選ばれたわ。学院内で、誰の目にも見えるように堂々となさっているそうよ」

今度はテオドラが非礼を示していい順番のように思えた。すでに終わった朝食の席を先に立つ。

「ごちそうさまでした。どうぞ、おじ様はごゆっくりなさって」

侍女や給仕に言い置いて食堂を出ていく。

そのまま書斎に入って、鍵のかかった書類箱を開けた。どれを、どの順番で差し出すのが効果的かと考える。

まずはデジレがどれほど悪逆非道の塊かを示す娼婦がかかわる四件の事件の報告書。

これがいいと革の別ファイルに挟んで持ち出した。

いつもならおじ様も朝食後は湖畔側のサロンで外を眺めながらのんびりされる。時間はいくらでもある。血なまぐさかろうと、構わない。

先ほどは駆け上がった階段を今度は駆け下りて、サロンへ急いだ。

使用人たちによって朝の早い時間に磨かれているそこにはテオドラの他に動くものもなく、おじ様もいらっしゃらない。

ちょうど通りがかった、昨日遅くにこちらへ到着したおじ様の従僕に問えば、おじ様は朝食後、さっさと私室へ引っ込んでしまわれたらしい。

「もう!」

テオドラは手にしたファイルを振り上げかけて、やめた。

待つ。おじ様が降りてこられるまでここで待つ。

「おじ様に伝えて下さい。わたくしがお話ししたいことに少しでもご興味がおありなら、サロンに降りていらして、って!」

従僕はテオドラの剣幕に気圧されたようにわずかにのけ反り、おじ様の元へ上がっていった様子だった。

待つ。テオドラはいつまででも待つつもりだった。


おじ様はなかなか動かれない。お休みになってしまわれたのかもしれなかった。

早起きして剣の稽古をされた後でもあったし、午前中はお茶の時間も降りてこられなかった。

軽い軽食が供される昼食も、お部屋で摂られた。

それでも、テオドラはまだサロンにいる。

お茶も昼食も、テオドラはサロンで済ませた。

そのあいだ、デジレの手にかかって殺されてしまった娼婦や、堕胎させられ感化院へ遺棄された娼婦のことを考えた。

彼女たちの死に、悲劇にテオドラが全くかかわっていないかと言えばそうではない。慰謝料名目で、娼館の支配人にお金が渡されているからだ。

デジレと近習たちは、それらの事件をテオドラの持参金、ひいてはヒンクシー公爵家のお金で片を付けた。

彼らは、テオドラが娼婦殺しや持参金の使い道を把握していないとでも思っているのだろうか。

なぜ、こうも恥ずかしげもなく奔放にお金を食いつぶしていられるのだろう。

デジレの婚約者にはふさわしくないと、散々に貶めてけなしてなお有り余るようなテオドラの持参金を、自由自在とでもいうように。

やはり、お酒や薬物の乱用が、彼らから正常な思考を奪っているのかもしれなかった。

でなければこの恥ずべき行為を正当化できる可能性のある理由が、ない。

デジレに葬られたのは、追いやられたのは、テオドラとは境遇の違う女性たちだ。

何かが少し違えば、テオドラも彼女たちのように育ったかもしれない。

娼館で働くことになった経緯も事情もさまざまだろうが、同じ女性の扱われ方として、この状況は看過できるものではなかった。


性風俗、ことに売春はこの世界でも最古の職業の一つとされている。

男性の性の売買だって行なわれている国だが、厳然とした身分制度のある国で、どこまで人道理由の性風俗の規制が行えるものかとも考える。

人身売買の禁止。性の売り買いの強要の禁止。

教会聖堂側にも言い分があって、神々はたいてい性に関しておおらかで、姦淫行為は特別なタブーではないとされていても限度はある。

だから、女性だけに一方的な売春行為の更生が施される感化院などがある。

もっと女性の保護施設、駆け込み寺やシェルターとしての役割を、感化院には背負って貰えないだろうか。


浮浪児がいない王都、浮浪者がいない王都。

孤児院や保護施設、医療施設を充実させたところで、どうしても社会の制度上、性風俗に身を置く女性やあるいは男性というのも出てしまうもの。

それを天職で適職だと言い切れる女性や男性はきっとごく少数だろう。

デジレたちが過ごすような高級娼館でも、お菓子や宝石やドレスなどを貢がせて女王のごときお暮しを謳歌されている『姫君』だって、真実望んでそこにいるかといえば決してそうではないはず。

おだてに弱い貴族の坊ちゃんたちを手玉に取って溜飲を下げるような、そんな人生であるのかもしれない。

真実は、見えないテオドラにはわからない。


その中で、デジレの好きにされずに殺された三人と、寵愛が深すぎて妊娠し、相手が王太子であるがゆえに堕胎を強いられた一人。

堕胎の強要は、犯罪だ。殺人は言わずもがなだ。

簡単に人を殺して平然と、今も誰にも物言われない自分を貫くデジレへの嫌悪感が止まらない。

テオドラは三人と一人のために涙を流した。

その最中に、さっと侍女たちによって午後のお茶の用意がされ、

「殿下もお越しのようです」

と声がかけられた。だからテオドラは、私室から降りてこられ、テラスに続くサロンのサンルームに用意されたテーブルにおじ様が着かれた時、すっと革のファイルを差し出すことができた。

「――――おじ様が、わたくしの婚約者として、未来の夫としてふさわしいとお考えの方は、こんなことをされる方よ」

大公殿下はあらましをご存知だったが、おじ様はそうではないのかもしれない。

デジレ王太子の噂は帝国にも聞こえるほどだとギュスターブ様はかつておっしゃったけれど、あの事件のころ、おじ様は帝国に留学中だった。

事件の詳細を聞かされてはいなかったのかも知れない。

「わたくしだって、あの方にかかれば、この紙の中の女性たちのように、きっと簡単にそうなってしまうのよ」

カップに手を付けることもせずに、おじ様はテオドラを見ていた。そして、報告書に目を落とされた。

……やがて、大きくため息を吐き出された。

「……ドーラ。……どれほど苦しんだ? ……この男のために、他の誰も思うべきでないと言った僕の言葉に」

テオドラは応えられず、少し冷めた紅茶に口をつけた。

お砂糖やはちみつを入れていないそれは、舌の上に渋みを残して喉の奥へ流れていく。

「――――君は敵だと言ったな。君の不幸を願う、僕は君の敵だと。自分もいずれこうなるかもしれないと、恐れたか? ……それで僕のことも嫌いになったか……」

「自分の婚約者が、ひどく乱暴な方だというのは、お会いする前から知っていました。初対面の際も、暴力を振るわれました。わたくしの外見がみすぼらしいと、いやだ、追い帰せ、とお言葉をいただきました。あの瞬間にわたくしはあの方を諦めたんですわ。うまくやっていこうとか、いつかは変わられるかもしれないといった楽観的な希望すら持ちませんでした。できるだけ関わらないように、そう心掛けて今日まで生きられていますの」

テオドラはまだ幼い頃の自分を思い出し、口元をほころばせた。

自画自賛になるが、テオドラは実に賢明な幼女だった。

「デジレの……素行の悪さは知っていた。学生身分のうちから娼館通いを覚えてしまった、ということも。……しかし、こんな……事件まで起こしていたとは」

おじ様は深刻におっしゃって、それきり口をつぐまれた。

テオドラは舌に残るタンニンのために、砂糖をまぶしたゼリー菓子を一つ取って口に運ぶ。それが甘くて、また紅茶を一口。

痛ましげなおじ様のお顔を見るに、やはり事件そのものをご存知ではなかったのだとテオドラは知る。

知っていて、それでもデジレの婚約者でいろ、とおっしゃるようなおじ様ではなかった、と安堵した。

そうだ、おじ様はそんな方じゃない。

「事件に関しては、わたくし側としても秘匿性がある程度は必要でした。娼館に解決のために支払った慰謝料は、わたくしの持参金口から出ているのですもの。婚約者の為したことですし、責任の一端はわたくしにもあるのでしょう」

「まさか――――」

絶句されるおじ様を見て、テオドラは罪悪感にかられる。

そしてまた、意趣返しの胸がすくような気分も意地悪く味わっている。

硬く氷を結んだ、胸の中にあるものがわずかに融ける。


「なぜ、僕は知らなかった? なぜ、君は僕に話さなかった、こんな……非情な……」

「おじ様は、政治的に覆り様がない婚約だっておっしゃいましたけど。わたくし、極めて政治的に解決する方法をずっと考えていましたの。ずっとよ。大公殿下とも、お話をすり合わせていました。そして、今ようやく好機が訪れている。おじ様もお聞きでいらっしゃったのでしょう、デジレ殿下に恋人ができたこと。ご存知でいらっしゃるのでしょう、私との婚約は破棄すると息巻いておいでのこと」

「ああ……ああ、不実だと。君に対して不誠実だと。娼館遊びとは比べ物にならない悪行だと、思っていた……。だが、いつかは目を覚ますはずだ、と。王太子妃となりうる人材が君しかいないことになぜ気が付かないのかと。なぜ誰も冷静になれと早く諫めないのかと……」

おじ様は報告書を見つめながら、混乱のさなかにある頭を、どうにか冷静に保とうとされているかのような呼吸を、幾度か繰り返した。

そうして言葉を、ようやく捻り出している。

「僕は愚かだ。――――なんと、愚かだったのか――――」

その夜、おじ様はダイニングに現れず、せっかく帝国で作った藍の女神風ドレスを着込んでも、テオドラは一人の夕食をやり過ごすしかなかった。

翌日も、五日目も、テオドラは終日一人だった。おじ様はお部屋からサロンや食堂にお出でにならず、人の出入りする気配はあっても、気が付けば外へお一人で出られたあとだったり、そのままお部屋に戻られたあとだったりした。

テオドラも一人の時間を使って、帝都のおばあさまや伯父様ご家族に宛てて、またご領地でめいめいに過ごしているだろう友人たちに宛ててのお手紙を書いた。

明日も時間があれば、家族や大公家へのお手紙をしたためようと決めていた。


六日目、朝早くおじ様は馬で子爵領を発たれ、テオドラは一人になった。

おじ様の従僕はこちらに残り、数日中にお戻りになるそうですとの伝言を受け取った。

その数日を、テオドラは領地の巡回視察や、工芸工房、各職業組合の支部などの訪問に充てて過ごした。

侍女や代官や、他の使用人たちがいても、心細いことに変わりはない。

王国陸軍流に銃剣を武器として扱う、数十人の領兵に領主館近くの屯所への滞在を願い出た。

時には彼らをねぎらいながら、また数日を過ごした。

おじ様が戻られたのは、テオドラが子爵領入りして二十日目の夜半過ぎ。早朝に領主館を出られてから十五日目のことだった。


翌日、おじ様が昨夜遅くにお戻りになったことを侍女から伝えられた。

が、テオドラにも予定はある。

領内の聖堂に併設された孤児院の慰問に朝の時間から出かけ、夕方近くに帰館した。

来年はこの領の聖堂にも王国の義務教育法に基づいた小学校が併設される予定で、今日は学舎の起工式も兼ねていた。

ゆったりのんびりが日常の辺境領では、雪の降り出す前に完成を急がせる必要がある。

特産樹木から切り出した、すでに乾燥がすんでいる木材を使って、学舎は建てられることになっている。ところどころには、石やレンガも使われる設計だ。

「やあ。――――おかえり」

帰りを出迎えて下さったおじ様は、最後にお目にかかった時より、幾分日焼けしたお顔をされていた。

「おじ様こそ。おかえりなさいませ」

まだ高い日をよけるための日傘を閉じて見上げれば、おじ様は少しお恥ずかしげにされた。

「義姉上の領に、行っていた。領主館へ、兄に会いに」

「……そうでしたか。ほっといたしました。明日には領兵をおうちに返して差し上げられますもの」

「領兵を集めていたのか?」

「……ええ。心細くて」

「僕がいなくて?」

「――――ええ」

一人がさみしかったと認めることが、少しも癪ではなかった。

「ご無事でお戻りで、安心いたしました」

その場ではすっとすれ違って、やり過ごすことができた。

私室に戻って用意されていたぬるめのお風呂を使う間中テオドラは泣いていたけれど、声は誰にも聞こえていないはずだった。

あとで目が赤いと誰かに指摘された時には、しゃぼんが目に入ったせいとごまかせばよいのだ。




読んでくださった方、ブックマーク、ご評価、感想などいただいた方、どうもありがとうございます。

ご指摘いただきましたように、文脈ごとに一行開ける、という作業をしてみました。

書いている分には、何行改行がなくても、文脈、文節に添っていればそれは絶対正義! と思いがちなのですが、読んでいただく方には絶対親切! を貫いた方がよさそうですね。


横書きで、文頭を下げるやり方が理にかなわないので……となると、やっぱり改行多発しないとすごく見にくい。

反省しています。

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