承~2
言い過ぎたと後になってから気づいてももう遅い。ひとたび口からこぼれた言葉は訂正して非を認めたとして元には戻らない。訂正もせず、非も認めなければなおさらだ。なかったことにはできない。
正義も理も自分にあるとテオドラは思っていた。
翌日、残りのドレスが出来上がってくる前に、テオドラは帝都を一足早く後にした。枢密院の新年交礼会と、貴族院の開会準備を理由にした。
急ぎの仕事を思い出しましたといえば、不審がっても家族にテオドラを止めることはできない。
おじいさまには、朝に寝室を見舞って出立とお別れを伝えた。
おじいさまは少し難し気なお顔をされ、
「失敗したのか」
とだけおっしゃられた。結果だけを問われている。だからテオドラも簡単に応えた。
「失敗いたしました。ですが、道半ばです」
そうか、とひとこと。今日は一本にまとめてあるだけの髪を、齢を重ねた大きな手で撫でられて、テオドラはまた、少しだけ泣いた。
「おじいさま、テオドラは王国で王妃になります。立后いたします、必ず、勝ち獲ります」
「そうか、決心がついたようで何よりだ」
おじいさまとはそれだけで伝わる。そしてそれが、長いお別れの言葉になった。
雪の街道を、そりのついた馬車で西進し子爵領へ。女公領の公都で馬車を乗り換えて、宿場での休憩を取らずに公爵領へ入る。帝国から連れてきた馭者とはそこで別れ、さらに馬車を北進させて王都まで。五日の距離を三日と半日で踏破する、女装を解いたテオドラの一人旅は快適そのものだった。
一人で帰都したテオドラに、コンサルヴォは驚いた顔を見せたが、お寒かったでしょう、お早く火のそばへと暖かく迎え入れられる。帝国から出立の時に出した帰宅を伝える手紙より、早く着いてしまったらしい。自分よりも二人の馭者をねぎらってほしいと伝え、テオドラは三つの続き部屋の私室の一つ、書斎へとこもる。
旅の埃も落とさぬまま、国家機密の一つには違いない王国の地図へと見入る。
ユベール侯爵領。ロンズデール伯爵領。サヴィア伯爵領。
王国の南端から西の沿岸地方、海沿いを囲む三つの領だ。ユベール侯の次男、ロンズデール伯の六人いる孫の一人、サヴィア伯の長男。王太子デジレの側近でもある三人の顔を思い出す。二人の子爵子息はこの際捨て置く。三人の顔と掌握費の台帳、港の用地、築港にふさわしい入江。
次の夏、テオドラは子爵領へは出かけない。お祖父様の伝手を使って、ロンズデール伯領に滞在を申し出てみることにしよう。ほぼ沿岸地域の中心に当たる領都を拠点に、ユベール侯領や、サヴィア伯領へも足を延ばす。
国内視察とか休養のためとかいう理由があれば、テオドラが国内のどこにいても何かを悟る貴族はいない。テオドラの頭の中や心の内はテオドラだけのものであり、誰にも侵されることはない。冷たいものが、心や頭の中にどんどん降り積もっている気配はあったが、それは無視した。
今は途切れなく仕事がしたい。
学院の第二学年を迎えて、貴族院議会も開会中のテオドラは多忙を極めている。
昨日、学院へ通学した折に最終学年の卒業試験を終えた。実際の卒業年度とは問題が違うから席次や賞の対象には当たらないが、一年と一カ月で五年分のカリキュラムを消化した自分をテオドラは誇っていいと思っている。
第四学年になった婚約者とは、昨日一度だけ学院ですれ違い、一方的に、何か唾棄されるような言葉をかけられて、もう何度も頭の中で響かせていた言葉を再度唱えた。
コレとは無理。
吐き出されてつい嗅いでしまった息がお酒臭く、目のあたりが不自然に赤い婚約者をテオドラは嫌悪した。
あり得ない。
そして、おじ様への不信感を募らせた。
コレがお前の婚約者だから、コレのために貞淑でいろ? ……ないないないない。
鬱憤は、学院で上級生のお姉様が開かれる茶会などにときおり参加して晴らした。皆、普段は借りてきた猫のように大人しくどちらかといえば寡黙なテオドラが、激情をあらわにするのを見て多少驚き、それほど殿下の婚約者でいるというのは難しいお立場なのですね、と理解を示してくれた。
おじ様はまだ帝国にいて、今年の夏は子爵領で過ごす旨連絡があった。
テオドラは夏は自領ではなく、ロンズデール伯領へ行く。返事は出した。承知しましたと一言だけ。それだけのやり取りすら煩わしいと思った。
あの冬の日から、心に冷たいものが蓄積され続けている。
大公殿下は、ご公務や執務にさわりがなければ午前中に開かれる枢密院会議にお顔を出される。
政治向きでない異母兄国王を積極的に諫めようとはなさらない方だが、枢密院の仕事は高く評価してくださっている。
父上が大規模な軍事演習に引っ張り出されて不在のある日の朝、テオドラはお早く登院された大公殿下と二人きりでお話をした。
「――――大公殿下は、王族による親政についてお考えになったことはおありですか」
「……親政? 貴族院も枢密院も、十分機能している現状で? 参与、それはまったく考える必要のない話ではないかな」
殿下の頭におありの王族というのは国王陛下と王太子以外の何者でもないらしい。
「いいえ、例えば……義姪としてうかがいます。ジョージ義叔父様が即位されたと想定されてみて、いかがですか」
「私が? ……即位自体がないな。現状お前の叔母様を立后させることができない。大公家は六人の姫がいる天の国だろう、今も一人また妊娠中だが、それが王子という確証もない。むしろ姫でいいと思っている。叔母様の立后がない。後宮を作ることもない。……私の即位自体が不可能だ。故に親政もない、私の御代は来ない。だが……ドーラ、お前が何を考えているかはわかってしまった。私ではなく例えばウィルなら、あり得なくはないか。ただ、いかんせんまだ年若い」
「……ねえ、義叔父様。王家は国民や貴族全体からの求心力をすでに失っております。誰のせいとは申しません。そしてデジレ様の御代、あの方の隣にいるのが私であるなら、さほど遠くなくわたくしの手は血で汚れることでしょう。わたくしが、短慮で癇性なのを、義叔父様はご存知でいらっしゃるはずだわ」
「……恐ろしいな、ドーラ。それは……私たちに対する脅しめいて聞こえる」
テオドラは思い切って、核心を伝えた。
「もし、血が流れない王位の簒奪が適うなら、年若い国王の摂政をお引き受け願えますか? ……もし、誰の血も流れずに、それが可能なら」
「――――そうだな、余地はある、とだけ言っておこうか。本当に……お前の頭の中というのは一体どんな仕掛けで動いているんだろうな。もう十五になったのだったか」
ドアがガチャリと開いて、おう、これは殿下、参与ちゃんおはようございます、とディシルバ海軍大臣が豪快に入室してくる。
「おはようございます、閣下。……義叔父様もうお忘れに? 先日かわいい贈り物もお言葉も贈っていただきましたのに。義叔父様、陶器でできた素敵な猫さんをありがとうございます。あれほど見事な陶器のお人形は初めて見ました」
テオドラは猫派だ。公爵家にはお祖母様のお膝の上が定位置の老猫がいて、テオドラとも時折戯れてくれる。
「だろう。叔母様の女公領のお品だよ。帝国製は本当に意匠が優れているから」
大公殿下もテオドラの意図を悟って、話を続けてくれる。
先ほど議場へ入室してきたディシルバ公爵は、テオドラと大公殿下が無防備にも不穏な会話を繰り広げていたとは想像もつかないだろう。二人はすでににこやかに、誕生プレゼントについての話に興じている。
「……ディシルバ閣下は軍事演習にはお出かけにならなかったのですか。海軍と合同とヒンクシー公爵から伺っていたのですが……?」
「ああ、あれはジラルド殿の仕切りでな。張り切っておりましたぞ、私が口を挟もうものなら貴方は軍部を代表して枢密院に出向けと、ジラルド殿の独壇場だ」
「そうでしたか。父がわがままで申し訳ありません……」
しぶしぶ、仕方なく出かけていく、という風情だったのだが、元武官の血がざわざわと心騒がせるものなのだろう。
「いやいや、参与ちゃん、助かっておりますぞ。この年で軍事演習の指揮とはちと辛いものがございますからな。机仕事の方がいささかましです。海の上は何しろまだ風が強い季節ですしな……」
海軍大臣であるディシルバ公爵は、軍籍にあるもののどちらかといえば文民であり、旗艦の総大将である弟君が海軍の総指令官であることが多い。数代前に王妃様を出された家系で、テオドラのお祖母様や帝国のおばあさまのご実家方の血筋に当たられる。
ディシルバ公爵のお孫様の長姉姫が、テオドラの次弟か末弟とやがて縁づくのではないかというお話が、貴族の間でささやかれている。いずれにしろまだ幼い子供たちのことだ、と、テオドラは自分こそほぼ生まれた瞬間に王太子の婚約者とされていたことなど構わず、他人事のように構えていた。
大公殿下とは以来、二人きりで密談する機会を幾度となく設けた。
テオドラは必ず父上には内緒で、と前置いてから自分の思いを義叔父である方に語ってお聞きいただいた。
三つの港湾都市計画、それを成し遂げるための『掌握費』の回収。王太子殿下との婚約を解消すること。
解消とともに、公爵家からの貸付金を国王の私財から回収し、同時に退位を迫ること。国王退位にはデジレ王太子の廃太子も同条件下で行われるべきで、その際には王弟殿下を擁立して、大公殿下には後見摂政となっていただきたいこと。
テオドラはすでに王太子妃教育が済んだ国内唯一の令嬢であって、すべての政略の駒になれる人材であること。
後宮が必要なら、復活すればよいともお話しした。健全な王族が育つためには継承権者の確保が重要だとも。
王室の典範によれば、直系の男子から立太子することが定められているが、男系をさかのぼって定められる旧王族の男子であっても貴族に婿入りなどした時点でその家の女系を引き継ぎ子孫にわたっての継承が困難となる。
例えば、デジレが王太子のまま即位して次の国王となった場合、王弟殿下はケニントン公爵として国内貴族のどこかに婿入りするか、生涯独身でいるか、王籍を離れて領地返上の上一代公爵として貴族令嬢を娶る選択をしなければならない。
国内貴族に婿入りの場合その子孫に継承権は与えられず、一代公爵も婚家の地位や財力によってのみ継承権が維持できるという条件の狭さだ。辺境の子爵などが外戚となった場合、その子孫は王族としての教育が不十分となり、継承不適格とされてしまう。
生涯独身を誓った王子はほとんどが聖職者となり、それは前国王の弟君などが数名いらっしゃるがいずれも年齢からいって継承が難しい。還俗して若い王妃を娶って、という道がどうあっても困難だ。
大公殿下は一代大公という位置づけだ。今後ご子息が産まれた場合、持参金として受けた叔母様の女公領のみが継承される土地になり、王位継承権はその子孫に受け継がれる。姫君方の誰かが婿取りして爵位を継がせることになれば、それは男系ではない時点で王位継承権者からその子孫たちは外れることになる。
現状、継承順位第一位のデジレ王太子、第二位の大公殿下、第三位のケニントン公爵までが即位可能とみられる権利者で、四位以下の聖職にあるご老人たちにそのお役目が回ってくるとは考えられない。
有力な国内貴族は主に男系で続いてきており、王女の受け入れ先にはなっても、王子を婿取りして女系に、という大改革が行われた事例も過去になく、辺境の王子の子孫が突然現れても継承不適格、有力な後ろ盾を得るのが困難と見られている。継承可能である王子が、圧倒的に少ない。
典範の改正まで踏み込むか、後宮を復活させるか、そこまで真摯に考えていると説いた。
「でも政略として利用すれば良いといっても……お前の思いもあるだろう。いや、ウィルを慕っているのはわかる。ドーラがそれほど真剣に王権について思いを馳せていたのにも驚いたが……」
「政略としてでも、利用されるのがおじ様や義叔父様ならば、本望なのです。テオドラはそれを望んでおります。王位を維持されるにふさわしい王族とは、誰の目から見ても大公殿下や王弟殿下であるとずっと思っておりました。国王陛下ご夫妻やデジレ殿下が、ある日突然別人のようにおなりでない限りは、とも思いましたが、それはもはや不可能であろうと結論に達しました。デジレ殿下はずっとあのまま」
テオドラは一度言葉を止めて、眉根を寄せたままの大公殿下のお顔の様子を覗った。
「わたくしの方が廃され、別の方が王太子妃になったとして、何から何までかの方の罪を枢密院が背負うつもりでなければ。……そして名目だけで実体のない国王など廃せと、庶民の間からも革命の声が聞こえてくるでしょう。貴族からも。それを削ぐための国軍の創設でもありましたが、軍部から反乱があればヒンクシー家も主導することとなりましょう。わたくしがすでに廃されていうという名分がありますから」
「デジレの罪、か。娼婦殺しの件についてはジラルド兄上から聞き及んでいる……」
「娼婦への堕胎強要と感化院への遺棄もですわ。ですから、本音を言えば、デジレ殿下の妃にはなりたくない。おじ様のお嫁さんにはなりたい。……わたくしのわがままなのです。幼い頃は、なにしろおじ様こそがわたくしの婚約者なのだと嬉しがっていたほどなのですもの」
ほんの生後一年あまりですけどね、それに今は、自分でもこの思いを持て余しているんですけどね、とは微笑みの中に隠した。
「王権のない国創り、というのも考えました。諸国民に主権があり、庶民の代表が国家の代表となって政治を行う、という。ただ現状では国民の間に知識階層が少なく、貴族主導でそれが行われると貴族間での派閥争いやいらぬ騒動が増えてしまうと予測が立つのです。主権が王族や……枢密院にあってもまだいい、ただ国の頂点にある方は、人品、人格、それにふさわしくなければ」
「まったく、その通りだ。私は異母兄上の享楽や贅沢を諫めてこようとはしなかった。自分とは所詮かかわることのない方だからと。政に口を出されることがないならばとずっと考えてきたが、外交も人任せの国の頂点とは、誉められるものではないな。求心力を失っているとお前は言ったが、それは王族への尊敬や畏敬の念といった国民の気持ちの集合のことなのであろうな……私自身の不断も見識不足もはなはだしい。私を見て、お前はさぞかし歯がゆく思ったことだろうな」
「そうですね。義叔父様はなぜあの国王陛下をご覧になりながらご自分が立とうとはお思いにならないのかと。ただ、叔母様や姫君たちとの大公家という家庭をすでにお持ちなのですもの、お気持ちは解ります。貴族院や枢密院の仕事を尊重してくださっていることもよく判っておりましたが、わたくしの事まで救ってくださろうとは、きっとお考えにならなかった。ご自分にはかかわりのほとんどない、甥御の婚約者に過ぎない娘だから。……違いますか? わたくしに何かあった場合、次に大公家の姫君が王太子妃にと望まれる可能性も否定できないですし」
大公殿下は絶句してテオドラを見た。
「……そこまで見透かされていたとは……」
「それが、大公殿下の政略と判ります。大公家を護るためにそうなさっていたと。だからわたくしはわたくし自身の救済を行いたい。それがわたくしの政略です。なんとしても、デジレ王太子との婚約を穏便に解消し、最低でもあの方を廃太子とする。国王にはご退位いただき、王弟殿下が継承されたらその隣にわたくしが立つ。王弟殿下にお好きな方がおいでなら、後宮にいくらでも姫君を迎え入れればいいのです。わたくしはそのための駒となりどこへなりと動きましょう」
夏には沿岸地域への視察を控えていた。大公家は叔母様の出産をまもなく迎え、この夏は子爵領でお過ごしになることはない。
テオドラが大公殿下にお話ししたテオドラの政略については、随所をぼかしたうえでおじ様に伝わるのだろうなと思っていた。
大公殿下とテオドラの指針は、実に王権に対する自己保身の意味を持つ表裏であり、思惑は一致していた。
大公殿下自身が即位継承を望まれようとは決してなさらないことも分かった。大公殿下はよき夫であり、よき父であること、家庭人としての幸福をこの先も追求して行きたいとお考えらしい。そして、実弟が国王となるなら積極的に後見となるつもりがあると。
「デジレ殿下の生贄となること、自分の手が血に染まることはどうしても避けたい。おじ様の供物になれるものなら望んでそうなりに行きます。それがテオドラの本心です」
夏が到来して貴族院が閉会を迎えたころ、テオドラは幾つかの補講を受講しながらロンズデール伯領行きの準備を整えた。
海岸地形に興味があると王立博物館や公文書館であらかじめ情報を収集しておき、同級の友人カミーラの兄君であり、自領にいくつもの漁村を抱える北岸地域のクライシュテルス伯爵家のご長男アンリ殿や、港湾管理者経験を持つ官僚二名と、知識の泉のような海洋地質学の教授を伴って用地選定のための視察、あくまでも政務の名目で出かけることとした。
調査費用はテオドラの拠出分については私費から充てる。
見知らぬ土地への気安い旅は、テオドラの心も癒した。
ロンズデールの領都に長期で宿を取り、馭者四名と侍女二名も同伴する旅だった。アンリ殿にも、補佐役や従僕が付き従っていた。視察団といっていい規模の旅の仲間が出来上がった。
男装とはいえ未婚のテオドラが侍女を連れずに旅に出ることをさすがに母上が許さず、馬車もできる限り男性とは共にしてはいけない、打ち合わせがあるなら短時間でも侍女を伴うことと言い遣っていたが、旅は気楽で思いがけず楽しかった。
子爵領の涼しい湖畔の領主館で過ごす夏も格別だが、南風が吹く沿岸地方の夏もまたよい。
王都から三日半、ユベール侯領ならさらにもう一日という、国内では遠方に当たる地域だが、気候も温暖で、港湾整備や開発が進めば、領民の増加も見込まれる将来性の高い地方だ。
テオドラは南方の海を気に入った。広いヒンクシー公爵領にも海はあるが、あれは北の海でどこか荒涼として物寂しい場所だった。
アンリ殿も、南方の海はいいなと感激しきりで、寒村も多い自領の現状を改善したいと希望を持たれた様子だった。研究熱心で議論好きで、使命感にあふれた方だ。二名の官僚や教授とも積極的に討議を交わされていて、同行を願い出て良かったとテオドラは思った。
この明るい西岸地域や南岸地方に港があれば……それも王家の直轄地で……北とは川や水路を整備して、物流をつないで……北にも大きな港を……と、やはり理想を追い求めればきりがない。
同行した官僚たち、教授の意見も聞きながら、築港からの都市建設について思索を深めていった。
そして、南岸のユベール侯領、西岸に当たるロンズデール、サヴィア両伯領からそれぞれ一か所ずつ、それを選定し、詳細な地形図を調べ上げたところで一月半、侍女や馭者たちも十分にねぎらいながら王都に戻ったころには夏が終わっていた。
大公殿下は夏の間中、子爵領にご滞在のおじ様から、テオドラがなぜ来ないのか、まだ来ないのか、いつになるのだ、とのお手紙を受け取っていたそうだ。そのたびに、公務や視察を兼ねて南岸や西岸を尋ね回っているようだ、とだけお返事されたらしい。やがてこう書いたと告げられた。『お前の御代に築港の用地を捧げたいといっていた』と。最後にその理由を『デジレとの婚約、やがての婚姻を心底厭うているからだ』とも。
おじ様からの便りはそれで途絶えたらしい。帝都に戻ったようだと大公殿下はおっしゃっていた。
帝国のおじいさまからも、母上へのお便りに同封されたお手紙が届いていた。
元気か、変わりはないか、と代書官によらずに書かれたお手紙だった。おじいさまはテオドラが友人カミーラの兄君らと長旅に出たことをご存知だった。この夏は南岸や西岸に旅をしました、で始まるお手紙を慌てて書きつけ、帝国へ送った。
それから数通の往復書簡を行き来させた秋、おじいさまが崩御された。
大公家には新たに姫君がお生まれになったばかり。
叔母様は姫君たちとともに王都に残られたが大公殿下とヒンクシー公爵一家は帝国を訪った。もちろんテオドラもだ。
母上は憔悴していて、父上は厳しい顔をしている。弟たちも以前のようにはしゃいではいけない旅なのだと知っていた。
死の直前まで書簡のやり取りをしていたテオドラには、おじいさまの死があまり実感できていない。突然だった。
けれど、帝都に着いてやはり憔悴された皇后陛下、おばあさまに問えば、兆候はおありだったらしい。自分の死期をご存知でいたのではないかと。
旧知の間柄の方々に書付を送ったり、私物を整理させて下賜されたりと、終わりを知って動かれていたのではないか、とおばあさまはおっしゃった。その合間に、テオドラとも書簡を交わされていたのだ。
もうおじいさまと言葉を交わすことができないのだ、死によって、住む場所が分かたれたのだとテオドラは知った。
でも、いずれまたどこかで出会うかもしれない。『生前』の記憶を持つテオドラにとって、死はかつて体験したこともあったもの。
またどこかで、お会いできるのかもしれない。慰めと分かりつつも、どなたにも、テオドラは話した。おじいさまはどちらにでもいらっしゃると。
けれど、喪失の悲しさが癒えるのには少し時間がかかりそうだと思う。
国葬が行われ、伯父上の即位、妃殿下の立后、二歳年下の従弟殿下の立太子が略式で行われ、直系親族は一年間の喪に服することとなった。テオドラもそれに倣った。
家族は皆口数が少ないながらも、国葬から続く儀式を乗り越えた。連帯感が一層増したところで、帰国となった。
おじ様もご一緒に国へ戻られるという。お話する機会はそうなかった。おじ様は相変わらず国賓待遇にあり、家族と行動されることは多くはなかった。
ふいに向き合うことがあっても、交わす言葉がなければ会話にもならない。
テオドラは心の中にある冷たくて硬い物が、夏を経ても解けていないことを知った。これでは、おじいさまがおっしゃっていた意固地で頑なな、男の子が手を伸ばしづらい、女の子そのものだ。
おじ様は何度か物問いたげにテオドラを見つめ、けれど何もおっしゃることはしない。
きっとテオドラがそうさせないせいだ。それも仕方がない。何かを言われたとして、テオドラにはそれを受け止める余地がない。
テオドラは十五歳、おじ様は誕生日が過ぎて二十歳になっていた。
帰国されてから、おじ様は王都郊外の屋敷に居を構えられた。
大公家の離宮には週末ごとに帰宅し、しばしば公爵家の屋敷にも顔を出された。
テオドラの三人の弟たちにとって、『父上の従弟君のウィル兄様』は素敵で身近な、かっこいい大人の男性の見本であり、いろいろな遊びを知っている先生のような人であるらしい。
今日は来て下さるかな、明日はどうかなと朝から大騒ぎし、大きい子も小さい子もウィル兄様ウィル兄様と、おじ様の帰国をもしかしたら国で一番喜んでいる。
前庭で剣技の真似事をされたり、暖炉の前で帝国でのお暮しをねだられてお話されたり、それが時には建国王の冒険譚だったり、雪が積もれば外で雪遊びに興じられたりとしているらしい。
これらは執事長のコンサルヴォから聞いたものであり、テオドラと顔を合わせるのはおじ様が夕食を公爵家で取られる時、それもごく稀にであった。
社交期でもなく、貴族院も閉会中であったが、テオドラには、夏の旅の仲間たちとの意見交換や事後調査の報告会ががあり、休日でもパワーランチやパワーディナーの方が優先順位が高い。
喪中であり、そう華美な場所に出向けるわけでもなく、父上にはいまだ詳細をお話していないことだから公爵家に招くことができない。
仕方なくクライシュテルス伯爵家を会合の場所とさせてもらっていた。楽しげにたびたび出迎えてくれる友人カミーラとの仲もより深まった。
その年の神々の日々が終わり、貴族院が開会され、王国の社交期が始まった。
貴族院にはおじ様も週に一度程度臨席されていた。そしてまた、帰国して最初の社交期に、適切な頻度で夜会にもお顔を出されているらしい。これは枢密院で耳にした。
テオドラのスケジュールは午前の枢密院会議と、午後の貴族院議会への出席と例年通り。
これに加えて海洋学、地質学、地政学の研究施設の訪問や有識者からの特別講義、『港の会合』にも時間を取られて、これも例年通りといえば例年通り、余暇を楽しむゆとりがない。
――――けれど、何かをしていなければ。常に余裕なく何かをしていなければ、何を見ても思い出してしまうその人の存在を、あるいは不在を感じて心が安らかでいられない。
拒絶したい気持ち。諦めや、自己否定や、自分自身の存在意義に訴えかけるような悲しみと、相反する渇望。
視線や言葉や、手や、まだ幼い頃に抱きしめられた時の感触、隣で過ごした過去の時間を懐かしんでそれをまた欲する、自分の卑しさへの嫌悪感。
消えないいとしさと、消えない罪悪感と、消えない心の中で凍り付いたもの。何もかもがぐちゃぐちゃと、踏みつければ音でもしそうに混じり合ってテオドラを息苦しくさせる。
――――だから、何かをしていなければ。
テオドラは本当はもう、おじ様のことなど考えたくないのだと、自分を納得させる必要があった。
でも……やはり、矛盾しているのだ。
テオドラは国王廃位、王太子廃位、王弟殿下の即位へ向けて計画を進めている。おじ様のことを常に考えている状態だ。
その時妃となる駒は自分しかいないこと。そして、あくまでも政略であるために後宮の復活も視野に入れている。
小さな自尊心のためだった。おじ様が真に思う方がいると想定して動く。保身のための、保険だった。
その噂は、新年度を迎えた学院から最初に聞こえてきたのだという。そしてそれが大人たちの貴族院や社交界に飛び火した。少人数のサロンのお茶会などでも耳にするといわれれば、出所を突き止めないわけにはいかない。
テオドラの不貞を疑うものだった。王太子殿下の婚約者ともあろう方が嘆かわしい!
わけがわからない。
テオドラとクライシュテルス伯子息、アンリが昵懇の間柄だ。週末ごとに密会を重ね、あろうころか視察旅行を伴にしたとか、しかもひと夏を! 実に嘆かわしい!
すべて事実だ。が、なぜ嘆かわしいのか。テオドラはわけがわからない。
久しぶりに登院した学院で、貴族院で、枢密院でも、テオドラは友人たちや同僚たちから詰問される口調で問い質された。
「本当なのですか、噂は事実ですか?」
「ええ、確かにアンリ殿とは親しくさせていただいております。週末ごとにお会いするのも、夏に一月半の旅程を共にしたのも事実ですわ。『港の仲間』と呼んでおりますの。北海岸にさみしい漁村を抱える領ですもの、我が家も、クライシュテルス家も。辺境までは開発がなかなか進まず、苦心しているところです。昨夏に南岸や西岸地域の海沿いの地形などの視察を経てその後も密に情報交換をしているのですが……、どういうことかしら。それらがすべてわたくしとアンリ殿二人きりの逢瀬だと思っていらっしゃるの? 不潔だわ。旅に同行された官僚や有識者の先生方とも時間を共にしておりますのに」
テオドラは憤懣やるかたない、という内容でありながら、相変わらず抑制のきいた声音で、諭すように、教え込むようにどなたにも訴えかけた。
「本来なら我が家にお招きするべきなのでしょうけれど、喪中ですので、会合の場所にクライシュテルス伯爵家の応接間をお借りしているのです。もちろん旅にもクライシュテルス家にも我が家の侍女が同行していますし、それさえ嘆かわしいとお感じでいらっしゃるなら、わたくしは一切の職責を離れるべき嘆かわしい人間だと皆さまに思われているということですわ」
行動自体に間違いはなく、否定することはしないが、それを嘆かわしいと思われるのは心外であると強調して応じれば、
「……大騒ぎをいたしまして申し訳ありません……」
皆が皆うなだれた。そして大変な失礼を、とテオドラに陳謝した。
よく聞けば、学院でのカミーラのちょっとした発言がきっかけらしい。それが、『生前』風にいえば『炎上』した、ということなのだろう。
「うちの兄のところに、ドーラ様が毎週いらっしゃるのよ。私嬉しくって、ついついお菓子を作りすぎてしまうの……。ドーラ様は、私のお菓子がおいしいので会話も弾むわと喜んでくださるのよ」
すべて事実なのだが、それを、嘘、ほんと? と疑った誰かがいたらしい。否定されてカミーラはちょっとだけ憤慨する。
「本当よ! 兄は昨夏のドーラ様の視察旅行にも同行させていただいたんだから!」
すべて事実なのだが、それを二人っきりでと捏造して、悪意をもって噂を広めた者がいる。
一学年上の乳姉妹、ハートリー男爵令嬢マイヤに噂の出所を探ってほしいと頼んだ。それはおそらく王太子の周辺だからとあたりをつけて。
「ユージェニーお姉様もご協力くださるそうですわ。こんな勝手気ままな噂話など捨て置けませんとおっしゃって、お姉様にしては珍しく、お怒りのご様子なのです」
最上級生のユージェニー・マチルダ侯爵令嬢は、テオドラが参加する学院内サロンの主催で、ほんわかとあたたかな、『みんなのお姉様』だ。珍しくお怒りのご様子、テオドラは理由を知っている。
ふう、とため息をついた。
夏の視察というのが、そもそもロンズデール伯を通じて出かけた旅だった。ユベール侯領、サヴィア伯領にも出向いた、見かけは政務である。
領主館に招かれ肩肘の張らない昼食会に顔を出したこともあった。
いわば彼らの懐近くに飛び込むようなもので、多少のリスクは覚悟していたのだが、こんな弊害を生むとは思っていなかった。
悪意が介在しているからだと、多少の偏見をもってマイヤやユージェニー様達に動いてもらったところ、やはり、王太子殿下の婚約者であるのにけしからん、と大声でしきりに話すのは王太子の近習、ユベール侯の次男、エイデンであるという。
彼はテオドラがいかに不誠実な婚約者であるか、いかに王太子殿下にふさわしくないかを、誰の耳にも聞こえるように、テオドラがきっぱりと切って捨てた後も一大キャンペーンのごとく喧伝し続けているという。
マイヤから報告を受けて、さらに探ってもらえば、少し前から王太子には互いに思いを交わす恋人ができていたということが分かった。
学院内ではひそかに噂になっていたらしい。奨学生の女子生徒に王太子殿下が夢中らしいと。
恋人? 現在進行形でほぼ一日おきに娼館を満喫している男に?
これはこれは、とんだ純愛物語ですこと。
有能なマイヤによれば、相手は留年して一年卒業が遅れたデジレや側近たちと同じ、最上級生になったばかりのマリアンヌという名の奨学生だという。
学院内にあっては同じ庶民の奨学生からも遠巻きにされている少女で、女子の友達がいなく、多少見目良いデジレの近習たちを皮切りに徐々にデジレに近づいた狐であるとマイヤは伝えてきた。
「本当はもっと適切な言いようがあるのでしょうけどね、メスの豹とか、メスの猫とか。……不適切ですわね、ドーラ様猫ちゃんお好きですし」
幼馴染であり、気心の知れたマイヤの言葉は詳しく説明されなくてもなんとなくわかる。
「本物の肉食女子がとうとう登場なさったのね。……喜ばしい限りだわ」
「それ、適切なお言葉ですわ。肉食、女子、まさにそんなご様子の方ですの。ユージェニーお姉様も首をかしげておいでですわ。席次もいたって平凡な方で、なぜ奨学生になれたのかもわからないと」
……いわばそれは、テオドラが待ち続けていた瞬間でもあったのだ。なんという好機。
娼館通いを続ける男が、学院内で恋人を選んだ! 庶民の肉食女子、マリアンヌ嬢、万歳!
テオドラは内心で小躍りした。ガッツポーズを作った。こぶしを掲げて祝杯を挙げた。
――――やっぱりご自分にふさわしい女性を連れてきた。
マイヤの口ぶりから察するに、ずいぶんと野心を胸に秘めた少女であるらしい。ますます結構なことだ。
ユージェニー様の不信もわかる。奨学生として入学しながら、次第に貴族令息たちとの交友に時間を割くようになり、卒業できなかった女子生徒の前例をテオドラは幾人か知っていた。
恐れ多くも現王妃様がそのお一人だ。
……そんな同級生の彼女との恋愛?
自分が殺した三人の娼婦や、堕胎させて遺棄した娼婦のことなど、あの男はきれいさっぱり忘れているに違いない。
そして主の、学院内での恋愛。学院生の誰の目にもやがて見えるだろうそれを正当化するために、テオドラが不実な婚約者だとエイデンたちが必要以上に騒ぎ立てている、ということか。
なんと稚拙な。
学院生の口から、その家族へ。貴族院や社交界へ、小規模サロンのお茶会へ、と噂が伝播した経緯もなんとなくわかった。大きな声はよく聞こえる。
「わたくしがクライシュテルス家のアンリ殿と政策協力者を伴って西岸・南岸地域へ視察に出かけたことは、枢密院でも貴族院でも承認いただいた事実です。前回議会の閉幕直前のことですが、皆さまお忘れでいらっしゃる? 当時の議事録をお持ちいたしましょうか?」
そう答えれば、同僚議員たちは何も言えない。ああ、そうだ、そういえばそうだった、といきさつを思い出し、なぜ今頃になってそんな噂が、とことの顛末にしきりに首をかしげていた。大人たちの『延焼』は、時間がかからず、あっさりと鎮火した。
「あの時視察に伺ったのは、ロンズデール、サヴィア両伯領と、ユベール侯領です」
とさらに付け加えれば、察しのいい方々は頷きを深くされた。
いずれも王太子の近習の実家である。そして、学院での王太子の振る舞いは各貴族家庭の話題に上るのだろう。
「バックリーウッド子爵、どうかお心を穏やかに過ごされてください」
と慰めの言葉もいただいた。自分は遠くで見守っていますので、とでも言いたげな様子にテオドラは小さな笑いを漏らした。自己保身は大切だからだ。そんな距離感の方は好きだ。
けれど、その距離感すらつかめない方から、まさに因縁をつけられたというしか言いようのない、いわれなき糾弾を受けたのは、ほんらいならくつろげてしかるべき公爵家のサロンでだった。
テオドラには港の仲間との会合もなく、久しぶりの家での夕食だった。おじ様もおいでだった。
週末の夕食を終え、今夜はおじ様はこちらへお泊りになるという。おじ様のお話をもっと聞きたいとねだる弟たちも、お休みのために小さな子から順に私室へと追い立てられて、母上や父上に連れて行かれた、そのあとでのことだった。
テオドラは時間があるときには家財や動産や不動産の台帳に目を通すようにしている。タンクレディに持ってこさせた、持参金口の入出金、特に王族への拠出金という名の債権や、デジレの五名の近習たちにかかっている掌握費の台帳をめくっていた。
王都の中規模程度の貴族の屋敷が購入できる程の金額に、彼らの債務は膨らんでいる。
彼らが気に入って飲んでいる帝国製のお酒が高価だったり、法規制済みの薬物を使用しているとあって、こちらも法外に高い。高級娼館をその都度貸し切りでの乱行はこちらも高額だ。
あれだけ酒や薬物を乱用していて一人も天帝の元へ旅立たれていないというのは、品質などによるものか。
行く末は廃人と思えば、わずかに同情心も起きるが、あのエイデン・ユベールの様子など見ていても、物事に対する判断力をすでに失っているのではないかと疑わしい。
気の毒だが仕方ない。
婚約破棄となれば明らかに非があるあちらに慰謝料が上乗せされ、さらに利息分も取り立てることができるが、せめてもの温情としてこちらも動こうか。
彼らとて望んでデジレの近習になりに行ったわけでなし。そのあとの行いが、傍若無人な主によって悪い方向へ流されて行ったというだけ。
理性のなさは称賛に値するほどだ。堕落の見本のような者たちだが。
未成年者のことだから、どうせ各家で裁くことになるのだし、婚約を無効とする方向を目指せばよいのではないだろうか。誓約を無効とする。――――誓約前の状態に、戻る。
テオドラと王太子の間にあった、婚約の事実もなくなる……。
テオドラにとっては、たいそう魅力的な思いつきだった。婚約関係にあった事実がなくなる……。
デジレや国王夫妻についてはその限りではない。なにしろ額が途方もない。
生活のほとんどをテオドラの持参金で賄い、なおかつそれがすべて遊興などの贅沢につぎ込まれている。
けれど、近習たちについてはその後の各家とのかかわりにおいて、寛大かつ有利な条件で折り合いをつけていくことも大事だろう。王位や王太子位は割と簡単に廃することが可能だが、貴族家は学生身分の子息たちの頸を切って存続していくはずだ。
良い考えだ。婚約無効の申し立て。あまりの名案に、知らずテオドラの口元は両端が上がり微笑みも深くなっていたらしい。
「――――ドーラ、誰を思って、そんな顔をしている?」
冷や水を浴びせられたように、体中がひんやりと冷えた。同じテーブルを挟んだほぼ正面からかけられた、おじ様の声は冷たく、青の瞳はまっすぐにテオドラを射抜いた。
「――――そんな顔って、自分の顔は見えませんわ。幾人かの男性の未来について思いを馳せていましたが」
他になんと言えばよかったか、とは後になって考えた。王太子と近習たちの処遇について考えていたのだ。
「――――クライシュテルス家のアンリ殿は王立学院での一学年先輩でね。彼からも、君との逢瀬のことは聞いたよ。どうもお前はデジレとの婚約を破棄したいと本気で考えているらしいね。私にも力になってあげてほしいと、彼も請われておいでだったよ」
なぜそこでアンリ殿の話を挟むのか、テオドラの本気など、すでに大公殿下からもお聞きだろうに。
心当たりと言えばあの大人社会にも延焼した噂のことだが、あれはすでテオドラの切って捨てて余りある否定によって、疑いようのない虚偽とされていることだ。
「あら、アンリ殿にはいずれのお話をしたことがあったのでしたかしら。妹君のカミーラは友人でたびたび愚痴を聞いていただいていますし、彼女からお聞きなのかも。……ええ、破棄というか、婚約無効の申し立てをいずれしようという考えにいたったところです。おじ様はテオドラは王太子殿下となんとしても結ばれろ、とお考えのようですけれど。政略にもならない、政治的にうまみのない方との婚約なんてこちらからお断りいたしたいところですの。馬鹿げているわ。あんな方の妻になれだなんて」
「――――そこまで、デジレが嫌いか」
「いいえ、もとよりそんな感情持ち合わせておりません。あの方のことはとても愚かだと思い、心の中で笑いはいたしますけれど。嫌いと感じるほど興味がありませんの。あえて言うならどうでもいい、というところかしら」
「興味がなく、政治的なうまみがない? どうでもいい? それでアンリ殿か。確かに北岸地方で領を接するクライシュテルス家なら興味もあり、政治的なうまみもあるのだろうな。夢に見る者と夢のような生活を送りたかったのだものな」
え? ちょっと待っておじ様。何のお話? ひょっとして周回遅れの噂話をまだ信じていらっしゃるの? 第一、アンリ殿には――――
「そういえば、帝国のギュスターブ・ベイデリーから、君に伝言を預かっていた。『氷結の姫君』に。自分の予言は大当たりで見事に病を得てしまったと伝えてくれと。……何の話だ?」
ギュスターブ様の予言と言えば、確かあの、次の夜会で帝国の令嬢たちがみんな青の女神型ドレスをお召しになって、氷漬けのようになってしまうだろうという、あの与太話のことだ。それが現実になったことの報告と、病を得たというのはあの言葉遊びの続きだろう。氷漬けの夜に風邪をひいてしまった、というような。なにもおじ様に、そんな険しいお顔で伝えられるほど重要な内容でもない。
「アンリ殿なら。……アンリ殿なら、麗しいうえに生真面目で実直で、君の夫として望ましいのだろうな。デジレのように素行不良でもなく、さぞかし君を大切にして下さることだろう。婚約無効? ああ、いい考えだ。いずれなどと言わずに、さっさと訴状の作成をして手続きに入ればいいんだ」
言うなり身をひるがえしてご自分のお部屋へ戻られてしまうものだから、ですからアンリ殿には、と呼び止めたいテオドラも、茶器に手を伸ばしてかけていた侍女も、父上のお休みの準備を整えてサロンに戻ってきたところだったコンサルヴォも、滅多に見ることのない王弟殿下の激情を間近にみんなびっくりしている。
「なんのお話をしていたのだったかしら。わたくしまた、おじ様のお怒りに触れるようなことをしてしまったの……?」
サロンの空気をごまかすように、和ませるように、テオドラは道化のように執事長や侍女に言い訳をしてみせる。この家でおじ様の評判が下がるのは困る。あくまでもおじ様のお怒りはテオドラの瑕疵のためでなければならない。
ところで……そう、なんの話をしていたのだったか。
おじ様は勘違いしていらっしゃった。テオドラが、アンリ殿と結ばれるために婚約を破談に持ち込もうとしている、というような。
デジレの婚約者としてほかの誰かなど思うべきではないと、テオドラの不幸な結婚を願っていたおじ様だ。今だって、問い質されたではないか、そこまでデジレが嫌いか、と。
貴族社会に与える影響を加味して、破棄だの解消だのと騒がずに婚約無効で事を収めようと思いついたのだが、それすらも望ましくないとお考えなのだろうか。
そしてやはり、デジレとの破談の理由がアンリ殿にあると思っていらっしゃる? テオドラが、北で隣接する領の次のご当主と『昵懇』であるとの噂を信じて?
テオドラが夢に見る人、アンリ殿でなく、なぜご自分だとはお思いにならないのか。
テオドラはこんなにもわかりやすいだろうに。おじいさまにだってさっさと見抜かれてしまったほどに。
「――――わたくしはすべて、おじ様のことを念頭に動いているというのに……」
テオドラは胸の中にあってなお冷たい塊を大きくさせた。
氷結、そんな言葉がふさわしいと思う。
ギュスターブ様は、浅薄だがよく人を見る目をお持ちでいらっしゃる。
テオドラの、心の中のこれは確かに氷結だった。どんどん硬く、大きくなる。そして簡単には融けない。