364
364
冬の朝は空気が澄んでいる。
吐いた息は白く、吸い込んだ息が肺の輪郭をはっきりさせた。
ランタンは中庭でハーディと向かい合っていた。その手には戦鎚を握っている。そしてハーディの方も大剣を構えていた。
「鎧はいいのか?」
ハーディの肉体は鎧に包まれてはいなかった。
しかしそれは男の逞しさをむしろ強調した。
「こちらの台詞だ。刃物の怖さを知らんな? 母親から教わらなかったのか」
「おあいにくさま、そんなもんはいないよ」
ランタンもいつも通りの軽装だった。冬である分だけ厚着をしているが、その程度でハーディの剣が止まることはないだろう。この男の剛剣の前ではたとえ鎧を身に着けていても、どれほどの守りとなるか。
ランタンが軽い口調で言うと、ハーディは笑った。
「それはいい。哀しむものが多くては斬るのも躊躇ってしまうからな」
「よく言うよ――」
先に踏み込んだのはランタンだった。
予動作はまったくない。しかしなんの衒いもなく最短距離を詰めた。
彼我には圧倒的な体格差がある。
軽く一歩退くだけで、ハーディは自分を一方的に打ち据えることができた。
だがハーディがこれを受けるとランタンは知っていた。
二人の距離は一瞬の内に失われる。
だと言うのにハーディは鷹揚に大剣を上段に構える。それでいて間に合うのだから不思議なものだった。
「むんっ!」
ランタンが身体全てを振り回すように戦鎚を薙ぎ払う。ハーディは上段から斬り落とした。
互いの得物が交差して冬の空気が震える。
戦鎚の柄に刃が食い込む。
「ふんっ!」
ハーディが圧を掛けてくる。その重圧は生半な戦士なら受けた得物ごと頭部を両断されるだろうし、受けきったとしてもその場に縫い付けられるほどの重みがある。
ランタンは受けると同時に膝を抜いた。柄の上を刃が滑り散った火花がランタンの髪に降り注ぐ。ハーディの圧力をそのまま乗っ取って沈墜し、体軸を回転させて巨躯の戦士の脇腹に拳を叩き込んだ。
ハーディは押し引きの一切を諦めて腹筋を固めた。
貫手ならば指が折れただろう。拳に跳ね返ってきた感触は巨木を殴りつけたようだった。
膝を伸ばし、後ろ足を蹴り出す。手首を固め、距離を取るために力任せに肘を伸展させてハーディを押し返した。
ハーディは退きながら大剣を胴に打ち込む。ランタンはその場で後ろへ倒れるようにそれを躱した。鋒が胸元を撫でてキルトの胴衣から綿が漏れる。立ち上がったランタンへ、間髪容れずハーディが距離を詰める。
逆胴を戦鎚で受け、弾き飛ばされた勢いのまま距離を取ろうするがハーディの追い足の一歩が大きい。
いや、大きすぎる。それは巨人に対する踏み込みの仕方だ。
ランタンは体勢低くハーディに突っ込んだ。ハーディが腕を畳んでランタンに斬りつけるが、ランタンはその更に下をゆく。
間合いの内の内へ入り込む。
伸び上がって顔面を強襲する戦鎚を仰け反るように躱す。ハーディは残った身体に振り下ろされた戦鎚を肩で受け止めた。
剣の柄を使ってランタンの額を殴りつけ、そのまま腕を絡げて組み付いた。踏ん張ろうとしたランタンの足を払い、押し倒して馬乗りになる。ランタンの小躯に問答無用に体を浴びせる。
「――ふっ!」
鋭い呼気。ランタンは背筋を目一杯使って、背中で大地を踏んだ。ハーディの巨体を腹に乗せたまま、ランタンの身体が反り返る。
一転してランタンが上になる。
すでに互いの手から得物は失われている。ランタンはそのままハーディの顔に拳を叩きつけた。ハーディは額を突き出し拳を受ける。拳と額が裂けて血が散った。
もう一発。
ハーディも同じように額を突き出したが、それは拳を受けるためではない。頭部の重さを振り子にして、ランタンごと巨体を立ち上がらせる。まるで見えざる綱が石像を引き起こすようだった。
腕ごと胴体を挟んだランタンの足を、鎖を引き千切るように振り解くやハーディの手がランタンの頭部を鷲掴みにした。
そして一切の抵抗を許さずにランタンをぶん投げる。
ハーディの足元に大剣と戦鎚。
身体が汗ばみ、湯気が立ち上っている。ハーディはゆっくりと大剣を拾い、額から流れる血を汗のように拭った。その間、一時もランタンから視線を切らない。
そして心底、楽しそうに笑った。
小さな身体。流れる血は拳と額から、そして素手である。
だと言うのに少しも戦意の衰えぬ気の強い視線。そしてこの後に及んで魔道を用いようともせず、それでいて負けるつもりを微塵も感じさせぬ傲慢さ。
「笑うにはまだ早いぞ」
「笑うのに、早いも遅いもないさ」
ふん、と鼻を鳴らした。
鋒をランタンへ向ける。ランタンは僅かに腰を落とした。
少年の視線は武器の奪取、落ちている戦鎚ではなく、この大剣を狙っている。だが真実それが狙いとは限らない。ハーディはのしのしと二歩距離を詰め、戦鎚を己の後ろへ隠した。
ランタンが唇をへの字に曲げる。それもまた撒き餌かもしれない。だが選択肢の一つが減った。後は動きを見て、それから決める。間に合わないかもしれないが、致命的に遅れることはないだろう。
ランタンは拳の傷に唇を付け、血を舐める。
唇が女のように赤く、その姿が一瞬の内にハーディに肉薄する。
「――ランタンっ! ランタンはいるか!」
その時だった。
館の外からランタンを呼ぶ声があった。ハーディの大剣がランタンの首を刎ねる寸前で急停止する。
ランタンは刎首を免れたことよりも、水を差されたことを不満に思うような顔つきで門の方に視線をやった。
それはハーディも同じだった。楽しい時間が終わってしまった。あのまま邪魔が入らなくても、きっと首は取れなかっただろう。ならば次の手はなんだったのだろう。
「せっかく早起きしたのに」
ランタンは血の混じった唾液を地面に吐いた。
戦鎚を拾い腰に差す。
ハーディは大剣を鞘に戻し、納得したように頷く。
「そうか。目潰しか」
独り言ちるハーディを置いて、ランタンは汗と血を拭いながら門の方へ向かう。ハーディは思い出したようにその後を追いかけた。
朝早くから訪れたのは探索者ギルドの使いだった。
命金制度、つまりは迷宮で帰還困難になった探索者の救助要請かと思ったがそうではなかった。
用件は迷宮崩壊戦への参加要請だった。
今日、まったく手付かずのまま放置されていた迷宮が崩壊する。すでに崩壊促進剤は迷宮に投下されており延期はできない。
崩壊する迷宮は竜種系の大迷宮である。出現する魔物の強さもさることながら、攻略に時間がかかるためこれに挑戦する探索者が現れなかった。
大迷宮の攻略には最低でも一ヶ月はかかる。攻略猶予を切る前から崩壊戦への参戦募集はされており戦力は整っていたが、急遽、欠員が出ためランタンに白羽の矢が立った。
欠員となったのは戦いの中心人物となるはずだった高位探索者だったからだ。
ランタンはこれを了解した。突然のことだがしかたがない。街中で竜種に暴れられでもしたら堪ったものではなかった。
「俺も行こう」
「お願いされたのは僕だから、給料は出ないよ。それに時間はいいの?」
「構わん。誰を待たせているわけでもなし。それに消化不良だ」
竜殺しと名高いハーディのただ働きを断る理由はどこにもなかった。
「なんだかんだと世話になったからな。せめてもの餞別だと思ってくれ」
それは旅立ちの日の朝のことだった。
到着したのは昼前で、迷宮は先程から不吉な地鳴りを起こしている。
前衛戦士はランタンとハーディを含む五名。
そして魔道使いは十三名も用意されていた。
魔道使いの仕事は出現した竜種の飛行能力を奪うことだ。
閉鎖空間である迷宮内ならばまだしも、竜種という魔物に上空を奪われると一方的に蹂躙されかねない。探索者が蹂躙されるだけならばまだよい。これが街の方へ、あるいは街の外へと飛んで行けば被害は甚大だった。
そのため万が一に備えてネイリングの竜騎士が三騎、迷宮特区の空を旋回している。
投入された戦力の多さからも、戦いが激しくなることは予想された。
しかしそれでも集まった探索者たちに不安がないのは、もちろんそれぞれが実力者であり、かつ前衛の三人の探索作者は特に優れた戦士であったからだが、ランタンとハーディの存在はその中でも飛び抜けている事実が彼らに余裕を与えていた。
「最下層行く前どうしている?」
迷宮口を油断無く睨みながら、広々と空間を区切る壁に背を預け、気軽な様子で戦士が尋ねる。
「深呼吸」
「それだけ?」
あとはリリオンの手を握ったりする。だがそんなことをランタンは口にしなかった。
「まあ、そう。あんまり薬は、身体に合わないし」
「ふうん」
戦士はそう言いながら魔精薬を服用する。強敵と戦うときに肉体を強化する術があるのにそれをしないことが不思議なようだった。
「そう言えば欠員の男はどうしたんだ? まさか逃げ出したわけでもあるまい。腹でも下したか?」
ふとハーディが疑問を口にすると、三人の戦士たちは顔を見合わせて笑った。
「おしい。腹下したんじゃなくて、腹に穴が空いたんだよ」
なんでも浮気をして女に刺されたようだった。死んではいないようだが、竜種との戦闘に耐えられる傷ではない。
「こんな日に女の所にしけ込んでるから罰が当たったんだよ」
「それはなんとも。ご愁傷さまだな」
竜種討伐に選抜される戦士でさえ、ただの女に手傷を負わされることがある。ハーディは思わず苦笑した。
ざまあみろ、といった感じで頷き合う戦士たちは、素知らぬ顔のランタンに視線を寄越した。
「おーおー、なに関係ないみたいな顔してんだよ。今日だってお前さんが呼ばれたのは、どうせ刺された奴にそんなところが似てるからだろ? お前だって危ないんじゃないか。素人女に腹の空気抜かれんだぞ。リリオンだったらどうなるんだよ。形も残らないんじゃないか」
「危なくないよ」
「あれやこれやいるじゃねえか。なんだってそんなこと言えんだよ。女ってのはこえーぞ。朝起きたらベッド脇に突っ立ってて、言い訳無用で、ぶすり、だぞ。こえー、おっかねー!」
「だって僕、甲斐性あるもん」
盛り上がっていた三人は黙り込んで虚ろな目になった。
ランタンは壁から背中を離し、戦鎚を手の中で回す。
「さて、もうそろそろだよ。――魔道使い、戦闘用意!」
張り上げた声に、四方にそれぞれ三人ずつ配置された十二人の魔道使いと、戦士たちの補助役の一人が一斉に精神を集中させる。
「あんたらも目を覚ませ。役立たずは迷宮に叩き込むぞ」
「はっ、危ねえ。戦う前から死ぬところだった。くそ、甲斐性ってなんだよ。食いもんか?」
「あんまし美味そうじゃないね」
「いや油で揚げて塩振れば大抵ものは美味いだろ。で麦酒と一緒に。晩飯はこれで決まりだな」
「――馬鹿言ってないで」
ひとしきり笑い合うと三人はそれぞれ剣や楯を構える。
その雰囲気の変わりようがハーディには面白い。死が身近にありすぎるというのは危うい感じがするが、それでもこの明るさはなんだろう。探索者という生き物は、やはりなかなか奇妙なものだった。
ハーディが鞘を払った。
「さて、宿代ぐらいの働きはするか」
呟きが地響きに掻き消される。迷宮口から、地の底から噴き上げるように竜種が生まれた。身体を丸め、それでもその巨体が迷宮口を削り取って押し広げる。
魔道使いが息を止める。
花火のように押し出された魔物は、花火のようにその翼を大きく広げた。
「いま!」
それは緑色の鱗をした竜種だった。大きく広げた翼に魔道使いたちがそれぞれの魔道を放つ。そしてその魔道はどれもが氷や礫といった物理的な質量をともなうものだった。
広げた翼は空を覆い、待ち構えた探索者全てに影を落とした。だが蝙蝠にも似た翼の被膜が魔道によって破られる。
翼はいくら羽ばたいても浮力を産まず、破れた穴はその度に広がって、緑竜はたちまち墜落した。
「おお、でかい!」
伏してなお小山のような巨体に探索者が喜びに似た声を出した。
五人の戦士が散開し緑竜に接近する。
翼を失ってなお余裕を失わぬのは緑竜の矜恃であるのかもしれない。
鞭のように振り下ろした尻尾が大地を割って、背後から接近した一人を打ち据える。その尾の先を剣で弾き、鱗を剥いだ。返す剣で剥き出しの肉を断った。ほんの僅か、だが鋼の尾を切断する。
痛みによる反射だった。柔軟な尾が硬く強張り、その強張りが全身に行き渡る。それ故に行動再開の弛緩がよく目に見えた。
四つ足の股下をまた一人の戦士が駆け抜ける。鱗は腹下にも及び、それは亀を思わせる。
胴と尾の境、それは総排泄口だった。最大限の弛緩、行動起点の一瞬手前。
「もらいっ!」
振り上げた剣が尾を骨ごと切断し、それ自体の重みによって残った肉や皮が引き千切れる。流れ落ちた青い血が見る間に大地を泥濘ませる。
があああああああああああ。
大気の震えとしか思えぬ咆哮は痛みではなく怒りによるものだった。落ちた尾が泥濘の中をみみずのようにうねっている。
緑竜が鎌首を持ち上げる。ただでさえ太い首が一回り膨らみ、身体が膨脹する。
牙と牙の間から、溢れるように灼熱の息を吐いた。それ自体に炎はない。だがあまりの高温に大気が燃え上がった。炎は膨らみ、泥濘む大地を舐めるようにしてハーディに向かっていった。
ハーディはその場に大剣を構えたまま、三人目の戦士が楯に身を隠し炎の中に突っ込んでゆく。
魔道の楯である。炎が楯の表面を滑ってゆく。しかし完全には防ぎきれない。一呼吸でもすれば肺が焼ける。魔精薬がよく効いていた。高熱に炙られる皮膚で産毛だけが耐えきれずに灰になる。
緑竜は炎を吐くことに必死になっている。その炎を抜けてくる戦士のことなど想像の埒外だった。踏ん張った四つ足、右脛に剣を叩き付けた。
「さすがに硬いなっ!」
鱗が砕け、肉を裂き、だが骨に触れて剣が音を立てて折れてしまう。灼熱を吐きながら緑竜が戦士を見下ろした。戦士はにやりと笑った。
竜種とは空の王だ。だから更に上から攻撃されることなど、全く以て頭にない。
彼の頭上にあるのはいつだって太陽ばかりだ。
高くもたげた頭部まで飛び上がったランタンに気が付いたときにはもう遅い。
竜種は遂に息を呑み、空を見上げた。背後へと捻れる二本の角。怒りに染まった巨大な瞳が、まるで人のそれのように眇められる。
額に叩き付けられた戦鎚がことさら厚い鱗を砕き、頑丈な頭蓋に守られた脳を揺らした。
しかし打ちつけた戦鎚はあまりの硬さに振り抜くことができずに跳ね返される。
ランタンは小さく舌打ちをした。
びりびりと手が痺れていて追撃を放てない。
「いいとこ持ってかれた」
さすがは竜種、それでも致命傷にはならず、失神もしない。だが血を流した前脚は膝を折り、首は頭部を支えきれずに花のように萎れた。
その先にはハーディが待ち構えている。
「ふっ!」
斜めに斬り上げた大剣が少しの淀みもなく緑竜の首を刎ねた。竜種の巨体が横様に倒れ、泥濘を這っていた尾はいつしか動くのをやめる。
「――あー、終わった終わった」
戦士たちはふと気を緩め、成り行きを見守っていた魔道使いたちも一斉に精神の統一を緩めた。
竜種は魔物の中でも特別だった。理由はいくつもあるが、結局は強さがその理由であり、強さとは生命力の高さだった。
突如、緑竜が僅かに繋がった首の筋肉だけで自らを前進させた。
発声機能はもう失われている。呼吸もない。ただ噛み付くだけの存在だった。
裏返るがごとく大口を開けて、一気にハーディに襲いかかる。
「危ないっ!」
そう叫んだのは誰だったか。
しかしハーディはそれをあっさりと斬り捨てた。
「お見事」
静寂の中、ランタンが気のない拍手をする。
「まあ、これぐらいはな」
ハーディは大剣から血を払い、鞘に収める。
風呂でハーディの背中を流してやった。
巨大な背中だ。嫌がらせに力任せに擦ってやってもびくともしなかった。
「どれ、代わってやろう。たった二振りでは宿代にはならんからな」
「ぎゃあ、痛いっ!」
背後に回ったハーディがランタンの背中を流し始める。ランタンが喚いても容赦がなかった。汚れと一緒に皮膚まで落ちそうだった。
「世話になったな。心残りと言えば、最後まで本気のお前とやり合えなかったことだ」
「……手は抜いてないけど」
「爆発の魔道。あれがなければ片手落ちだろう」
「殺し合いじゃないんだから」
「つまり使えば殺せると。たいした自信だな」
「その逆もありうるって話だよ。だって本気って言っても遊びだからね。遊びで死んだり殺されたりなんて馬鹿みたいだ、――もういいよ。うう痛い。背骨、見えてない?」
ランタンは立ち上がってハーディの手から逃げ出した。湯に浸かると熱さに背中が染みた。
「遊びか。やはり離れるのが寂しくなるな」
ハーディが浸かると、湯船の縁から並々と湯が溢れて洗い場の置かれた桶を押し流す。
「年が明けるまでいてもいいのに」
「そうしたら春が来るまで、夏が来るまでといつまでも先延ばしにしそうだ。今日だって、俺はもうこの地を発っているはずなのだぞ」
「まあそうだけど。いつまで旅を続けるつもり?」
「さて、いつまでかな。嫁ができるまでかな」
「……それ、本気?」
「嘘は言わん。お前たちを見ていると、それもいいと思える」
ランタンは照れたように顔を洗った。
「ハーディならすぐにできそう。お家に泊めてくれる女の人、何人いるの? 僕やだよ。ハーディがどこに行ったのか聞かれるの」
「ははは、そうはならん。刺されるような関係ではないからな」
「大人な関係だね。でも、そう思ってるのは自分だけかもよ」
「かもしれんな。まあその時はその時だ。俺の腹を貫ける女ならそれもよし」
風呂から上がるとリリオンとローサが料理を作って待ってくれていた。
出立前の腹ごしらえだった。
リヴェランドの干物もあれば、先程討伐したばかりの竜種の肉もある。ハーディは美味い美味いと綺麗さっぱりそれを平らげた。
「リリオン、剣の方はどうだ?」
「まだ時間がかかるって」
「まあ、急くこともあるまい。グラン老の腕は確かだ。俺のもよく仕上げてもらった」
ハーディはリリオンに頭を下げた。
「美味い飯をありがとう。ランタンと仲良くな」
「うん」
「腹を刺すことがないように」
「そんなことしないわ」
「それは申し訳ない。――刺されることのないように」
ハーディは改めてランタンに向けて言う。
「忠告どうも、気をつけるよ」
ローサは旅立ちの日と知っていたが、しかしようやく別れが近付いたと実感したようで名残惜しそうにハーディの袖を引いた。
「もういっちゃうの? もっといればいいのに」
ローサにとってハーディは自分を肩車してくれる数少ない存在だった。剣の稽古をつけてもらった仲でもあったし、料理を取り合った仲でもある。
「友に会いに行かねばならんからな。彼の母に伝言を預かっているんだ」
ハーディの旅の先は、旧サラス伯爵領だった。
高濃度の魔精によって汚染されたかの領地は魔物の巣窟、いや剥き出しの迷宮となりつつある。封じ込めるための城壁建設に巨人族の若者であるトールズが参加していた。彼に会いにゆくのが一先ずの目的で、その後はまた再び巨人の集落に行くのかもしれないし、まだ見ぬ強者を求めて流離うのかもしれない。
ティルナバンの外までハーディを見送る。
ローサは陶馬の手綱を引いていた。陶馬はハーディの愛馬に身体を擦りつけている。同じ馬屋で過ごしたことで仲良くなったのかもしれない。
「これ、お弁当作ったから、寒いからしばらくは大丈夫だと思うけど、お腹が空いたら食べてください」
リリオンから弁当を受け取って、ハーディは頬を綻ばせた。
「ありがたく頂戴させてもらう。ああ、まったく。つくづく旅立ちが惜しい」
「残るんならこれはいらないかな」
そう言ってランタンは小袋を渡した。
受け取ったハーディが袋を開くと、中には緑の竜鱗が詰まっていた。そして僅かながら青の鱗も混じっている。それはリヴェランドで仕留めた海竜の鱗だった。
「ハーディの取り分だよ。他所の街なら大抵はティルナバンより高く売れるらしいから路銀の足しにして」
「困ったな。感謝の言葉が足りなくなる。この恩はいつかまた返しに来る」
「僕は迷宮に行ってて留守かもしれないけど、ハーディの部屋は空けとくよ。いつでもどうぞ」
「ああ、遠慮なく上がらせてもらおう。待っていれば間違いなく帰ってくるんだろう? 迷宮から」
ハーディが留守の間、ずっとローサが世話をしていたからだろう、彼の愛馬は最後までローサとの別れを惜しむように、少女にその鼻面を押しつけて、金色の髪を優しく食んだ。
だが別れの時は来るのだ。
ハーディは馬上で振り返る。
「では、またな」
「うん、また」
それが別れの言葉だった。
三人は単騎駆けてゆくハーディの背中が見えなくなるまで、その姿を見送った。ハーディは一度も振り返らなかった。
しつこく手を振っていたローサが腕を下ろし、つまらなそうに唇を尖らせる。
「あーあ、いっちゃった」
「この天気だと雪かなあ。ああ、寒い」
ランタンは空を見上げる。
青空は残っているが薄雲が広がっていて、空の果ての方に向かって雲は厚みを増してゆく。
「ローサにのる?」
「陶馬に乗ろうかな。乗せてくれるかな」
「お腹冷えちゃうわよ」
「う、冷たい。やめておこう」
陶馬の背中に触れると氷のように冷たかった。
腹が冷えるぐらいならまだ良い。尻が凍り付くかもしれない。
「ローサにのればいいよ」
「鞍作ってもらうか」
「ローサにのればいいのに。ローサぽかぽかしてるよ」
ローサには乗らず帰路につく。
凍えるほど寒いのに、どうしてかゆっくりと歩いた。
「晩ご飯何がいいかしら?」
「うーん、なにがいいかな。暖かいものがいいな」
「ローサ何か食べたいものある? カレー以外で」
ローサは見慣れた街をきょろきょろしていた。虎の耳がぴくぴく動いて色々な街の声を聞いている。
「ローサ」
「なに、おねえちゃん?」
「晩ご飯何か食べたいものある?」
ローサはぱっと顔を輝かせる。カレー以外で、とリリオンがもう一度念押しするより早く、ローサは答える。
「かいしょう!」
「かいしょう? それってどんな食べ物なの? わたし聞いたことないわ」
「かいしょうはねー、あぶらであげて、おしおでたべるたべもの! おさけにあうんだって。みんないってるよ! ローサかいしょうたべてみたい!」
みんなを指差すように、ローサは背後を振り返った。
そこには道行く人々がいるばかりだ。
リリオンは困って首を傾げる。
「ねえランタン、かいしょうって知ってる?」




