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リリオンはそわそわしている。
荷車から身を乗り出して、迷宮の闇に目を凝らし、耳を澄ませた。
ランタンは少女の外套を掴んで引き寄せようとするが、リリオンはそれに抵抗した。
これが迷宮に囚われると言うことなのだろう。
ランタンは他者から探索中毒だと言われることもある。普通の探索者よりも遥かに短い間隔で迷宮探索に行くからだ。
自分自身でも迷宮に囚われているのだと、そう思ったこともある。
他の探索者を見て、ああ迷宮に囚われているな、と感じたこともある。
だが真に迷宮に囚われている人は、もしかしたら迷宮内にしか存在しないのかもしれない。
「リリオン!」
ランタンが強く呼びかけてリリオンは振り返った。
ちょっと唇を尖らせて、不満そうな顔をしている。楽しんでいるところを邪魔されたというように。
「……ここは迷宮だよ」
「わかっているわ」
言い含めるように告げた言葉は、リリオンには届かなかった。リリオンは短く答えて、そっぽを向くようにまた迷宮の奥に視線を向けた。
もう一度声をかけても、もう振り返らなかった。
聞こえていない振りをする背中に、それ以上に声をかけることがランタンにはできなかった。
やがて迷宮は狭まり、シーギスのこれ以上の侵入を拒んだ。
シーギスはぎりぎりまで二人を運んでくれたが、もう左右の壁に肩が擦れ、ほとんど中腰にならなければならなかった。
これ以上、無理に進めば、行くも戻るもできなくなってしまいかねない。
「ここから、もう少し先に行ったところだ。リディアが一人で残ったのは。二人の足でも、そう時間はかからないと思う」
荷車から降りた二人に、シーギスは語りかける。
「俺はここで待っているよ」
一人で留守番を言いつけられた子供のように、シーギスは巨体を折り畳み膝を抱えて座った。天井を見上げ、自分の身体が大きくなったことを実感する。
「必ず戻って来いよ」
「うん!」
リリオンは元気いっぱいに答えた。
シーギスは困った顔をする。
「リリオン、迷宮ではランタンの言うことをよく聞くんだ。ランタン、リディアの娘を頼む。どうか、この通り」
シーギスは窮屈そうに頭を下げる。
「ああ」
ランタンは頷く。
無理にでもリリオンを連れて引き返そうかと思ったが、それこそリリオンの心を永久に迷宮に置き去りにする行為だろう。
先にあるのが確実な苦痛と知ろうとも、喪失の可能性を孕もうとも、進まなければ迷宮ではなにも得られない。
「ランタン、行きましょ!」
リリオンはそれだけ声をかけると、一人で先に迷宮の奥へと進んでいった。
ランタンは慌ててそれを追いかける。手を握ろうかとも思ったが、つかず離れずの距離を保ったのは、その方が全体を把握できるからだった。
リリオンは既に、当初の目的を忘れているようだった。
彼女の心は、一人で留守番している幼い頃まで引き戻されており、そして今は帰りの遅い母親を迎えに行っている最中だった。
もう、あれから数年も経っていることなど気にしていない。
それは後悔だ。
当時の無力なリリオンには、迎えに行くことができなかった。
今は、遂にその力を得た。母親を迷宮に探しに行く、そしてともに戦い、助けることができる力を。
リリオンは迷宮の先に母親がいると確信していた。
それは妄執である。
祈りの果てに、その願いに囚われてしまった。
そして迷宮は探索者の祈りを聞き届ける。
リリオンは急ぐ心に突き動かされるように、半ば駆け足で迷宮の最奥を目指す。
「リリオン、気をつけて」
「わかってる」
「転んだら怪我するよ」
「うん、ママに心配かけちゃうわ。でも、はやく行かないと……!」
定期的に声をかけなければ、リリオンはランタンの存在をすっかり忘れてしまいそうだった。
期待に胸を膨らませるリリオンを見るのが、これほど辛いものだとは思わなかった。
ランタンは歯を食いしばった。
憂鬱さや、苛立ちが、胸にぐらぐらと沸き立つ。
その感情の行方は迷宮ばかりではなく、リリオンにも向いているような気がして、そんな自分にランタンは更に苦しむ。
どこかにリディアの死闘の痕跡でも残されていないかと思ったが、そのようなものは見つけられない。
リリオンに現実を突き付けるようなものが。
しかし迷宮に何年も前の探索の痕跡など、あるはずもない。
もうきっとリディアが残ったという場所を通り過ぎただろう。迷宮は左右の壁が倒れかかってくるように、さらに狭く、頭上にのしかかるように闇が濃くなってきた。
そうして押し出されるように奥から風が吹いてくる。
リリオンが雷に打たれたように立ち止まった。
ランタンもそれを感じていた。
獣臭、金臭さ、低い唸り声と、剣戟の音色。
「ママだわっ!」
リリオンが弾かれたように走り出した。鞘を払って大剣を抜き、闇の中に飛び込んでいく。
ランタンも戦鎚を握り締めてリリオンを追った。
「リリオン、行くなっ!」
ランタンの声は届かない。衝動的なリリオンの走りはランタンを突き放す。
ランタンは釣り糸を投げるように戦鎚を振った。その先端から火球が放たれる。それは弧を描きリリオンを跳び越し、行く先を遮るようにうわっと炎を広げた。
光を反射する赤い眼が無数に浮かび上がった。
数体の魔物がいた。
それは獣系の魔物ではない。
人の形をしているが、亜人族とも異なる。はっきりと人間に似ていた。
それは鬼であった。
不死系迷宮に稀に出現すると言われている、ランタンも数えるほどしか遭遇したことのない魔物だ。
人間よりも一回りほど大きな筋骨隆々とした肉体。暗褐色や暗灰色の暗色の皮膚と、額に角を持っている。
装備品を身に着けていることもあるが、それらは基本的に無骨な造りをして、蛮族もかくやという出で立ちであるらしい。
ランタンの知る鬼とはそういうものだった。
だが目の前に現れた鬼の姿は、ランタンの知る印象からは少しずれている。
ランタンよりも少しばかり背が高く、法衣のような粗末な布を身に着け、手にする武器は鉈や棍棒ではなく、どことなく魔道使いめいている。
杖や鎖鞭はまだわかる。あれは鋏だろうか。見慣れぬ不思議な形状のものもある。
鬼は炎の中から生まれるみたいに、リリオンに向かってきた。身を隠す布が燃え、逞しい裸身が露わになり、それが雄であることがわかる。
ランタンはぞっとした。
自分の想像に。
「あなたたちがっ――!」
リリオンが怒りの声を上げる。
暴風のように大剣を振り回した。
肉はおろか骨でさえ、まるで手応えを感じさせずに鬼たちは両断される。肉体が溜め込んでいた熱量が死臭とともにむっと広がった。
血溜まりを踏み付けて、リリオンはランタンの産み出した炎を突き破った。
「――いま行くわっ!」
その奥から、戦いの音色はまだ響いている。
鬼たちは、人の似姿である。
ただの人ではない。
魔道使いの似姿だ。
魔物は魔精によって具現化した、人間の恐怖の形だ。
それはもしかしたら秘密結社黒い卵の研究者たちの姿なのではないか。
なれば魔精にその姿を与えた人物は一人しかいない。
ランタンは息を吸い、唇を結んだ。
爆発によって加速した肉体は音どころかその光さえ、その場に置き去りにした。
それでもなおリリオンの背中は常にランタンの前にあった。鎧袖一触に、現れる鬼たちを撫で切りにしていく。
リリオンの目にはもうたった一つのものしか見えていない。
少女が永遠に喪ったはずのものだ。
それが、迷宮の先にある。
「リリオンっ――」
ランタンは声の限り叫んだ。
「――行くなっ。戻ってこいっ!」
迷宮の闇の先には、暗黒の中でさえ白い魔精の霧があり、リリオンは止まることなくその先へ駆けていった。
ランタンはその背中に飛び掛かった。
つかまえた。
ランタンはリリオンの背中にしがみつき、乱暴にその身体を引き倒した。
「放して!」
リリオンが叫んで暴れた。力だけでは引き剥がされる。ランタンは技術でもってその強靭な肉体を地面に押し止める。
「ママが死んじゃう!」
悲鳴のように放たれた言葉に、リリオンの喉が掠れる。そこにはランタンへの怒りさえ込められている。
「あれは違う! よく見ろ!」
迷宮最下層だった。
そこにリリオンの母はいない。
だが確かに大きな人影はある。
それは真っ黒で大きな影だった。
それは人の形をしているし、ランタンたちより遥かに巨大で、シーギスよりも二回りほど小さい体格や、同じ影でできている二振りの黒い剣は話に聞いたリディアを思わせる。
だがこれがリリオンの母親であるはずがなかった。
ランタンが想定していた彷徨う者でもない。これはいったい何だろうか。
わかるのはそれがおそらくは不死系の魔物であると言うことだけだ。
そしてそれは無数の鬼たちに襲われていた。
いや、逆だろうか。
鬼たちがその巨影に鏖殺され、鬼たちは逃げ惑いながらも、辛うじての抵抗を試みている。巨影に群がる鬼たちはまるで虫のようだった。
「だって、あれはママだもん! わたしのママなんだもん!」
リリオンは意固地になって身体を揺すった。
「ちがうっ、ただの魔物だ!」
「ランタンに何がわかるのっ!」
涙混じりの声に反応したのだろうか。
「――くそっ!」
巨影が黒剣を振りかざした。それに気をとられた瞬間に、リリオンはランタンをはね退ける。弾き飛ばされたランタンとリリオンの間を分かつように、黒剣が振り下ろされた。
その衝撃に大地が裂けた。運悪く剣の下に入り込んでいた鬼は跡形もない。
ランタンはリリオンの位置を確認しながら、油断無く巨影を警戒した。しかし既に巨影はランタンから興味を失ったように、鬼に向かって剣を向けている。
リリオンはそんな巨影を守るかのように大剣を振るい、声を嗄らしながら影に呼びかけ続けた。
今の一撃をどのように理解するか。
巨影はある程度は無害なようにも思えた。
巨影の黒剣は鬼にばかり向けられていた。
むしろ鬼たちがランタンの存在に気がついた。
最下層には最終目標と呼ばれる魔物が一つ存在するのが迷宮の基本形だ。
だが最終目標が分裂したり、群れを成したり、僕を率いていることもまったくないわけではない。
しかし魔物同士が同士討ちをしているという話は聞いたことがなかった。
巨影か鬼か、どちらかが迷宮の理の外にあるのかもしれない。
きっと巨影だろう。
ランタンに気がついた鬼は、普通の魔物と同じように襲いかかってくる。
ここの鬼たちは武器を持っているがそれを効果的に使うようなことはしなかった。獣が牙を突き立てるように、爪で引き裂くようにそれらを振り回す。
ランタンの相手ではなかった。
なまじ人の姿をしているだけ、ランタンにはその行動が手に取るようにわかった。鋭いが乱暴なだけの一撃を躱し、戦鎚で打ち、受けるまでもなく後の先を取り、次々に鬼たちを葬ってゆく。
だがどれだけ鬼を打ち倒そうとも不思議とその数が減らなかった。
ランタンは顎先から伝った汗を拭う。
迷宮最下層は一つの出入り口を除いて完璧な閉鎖空間だった。
自分だけではなく、リリオンも、巨影も戦い続けている。だが鬼の数が減らない。
魔物は魔精より湧く。だがその瞬間を見たものはいない。
迷宮では誰も見ていないところで魔精の循環が起こった。人も魔物も区別なくその死体も、装備も、戦いの痕跡も全ては迷宮へ還り、そして新たな魔物が生まれ、迷宮の傷は修復される。
あらゆるものが魔精へと分解される。
鬼たちは死に続け、そして湧き続けていた。
人の視界の外で、音もなく同胞の血肉から産まれている。
そして巨影は戦い続けていた。
一体いつから。
「ママ、わたしを見て! わたしよ、リリオンよ!」
振り返ったのか、それとも斬りかかったのか。上半身の旋転、足元に円を描くように薙ぎ払われた黒剣がリリオンに襲いかかった。
リリオンは反射的に竜骨の篭手と大剣を交差させて身体を守るが、少女の身体は大きく吹き飛んだ。
放り投げられた人形のようにリリオンが転がる。
「リリオン!」
「……ちがう!」
心配してかけた声に、リリオンはすぐさま立ち上がって答える。
「今のはちがうの、ランタン。ほんとうよ!」
巨影を庇うようなことを叫んだ。
ランタンの顔から表情が抜け落ちる。まるで棒立ちのようであり、だがその戦鎚の範囲内に入った鬼は決して生きては出られなかった。
状況を、変えなければならない。
きっと巨影に打ちかかっていけば、リリオンはそれを妨げるだろう。
今のリリオンにランタンの言葉は届かない。
今リリオンの目の前には鬼に襲われている母親がいる。
この状況を変えなければ、リリオンはきっと聞く耳を持たないだろう。
息を吐く。
大きく吸う。
肺の中を死臭が満たした。
息を止める。
――六十秒。
ランタンは顔を上げた。
その瞳に炎が宿る。
それは全てを焼き尽くす業火に他ならない。
迷宮の、最も奥深いところに陽が昇った。
それはその場の全てを照らし、死角など一つも許しはしなかった。
鬼に逃げ場などありはしない。
ただ影は、強い光にいっそう濃くなる。
青い血に泥濘んだ地面は旱田のようにひび割れている。
あれほどいた鬼の姿はなく、ランタンは早鐘のように打つ心臓を押さえながら荒い呼吸を繰り返した。
握力を失った手から戦鎚が転げ落ちる。ランタンはそれを拾い上げようとして、膝を突いた。
鬼がいなくなり巨影は動きを止めた。
「ねえママ、わたしのことわかる?」
そんな中でリリオンは巨影に語りかける。大剣を投げ捨てて、巨影の前にぺたんと座り込んで、その爪先に触れている。黒い芝生みたいに、リリオンの手が影に沈んだ。
それはもう死んでいる親猫に、子猫が縋り付いているようだった。
「わたし、リリオンだよ。ママ? わたしのこと、わすれちゃったの……? ねえ、おへんじして」
しかしどれだけ語りかけても巨影は返事をしなかった。
ただの真っ黒な、巨大な影でしかない。
だがもしかしたらリリオンの目には在りし日の母親の姿として、はっきりと映っているのかもしれない。
ランタンは戦鎚を拾い、それを杖のようにして立ち上がった。
膝が震えた。
かなりの無理をしたせいで、肉体は鉛のように重たかった。
呼吸を整えながらリリオンに近付いた。
「……リリオン。これはリリオンのお母さんじゃないよ」
声が引きつった。
「……」
リリオンは一瞬、黙りこくった。けれど再び影に向かって話しかける。
「ねえ、わたしが大っきくなったから、わからなくなっちゃったの? ほら見て、ママと同じ色よ」
ランタンのことを丸っきり無視して、銀の髪を捧げるように掲げてみせる。
「汚れちゃったけど。……ほら、これでいっしょだよ」
付着した青い血をこそげ落とすようにして、何度も何度も声をかける。
「リリオン。リリオンのお母さんは、もう」
「ちがうっ! だっているんだもんっ!」
頑なな背中が拒絶を物語っている。
「ランタンには、わかんないんだわ。だってランタンにはママがいないんだもん。わたしには、わかるんだもん」
ランタンは大きく溜め息を吐いた。
どうしていいか、わからない。
鬼を一掃して状況は変わった。
だが好転したわけではなかった。
それからリリオンに声をかけても、リリオンはランタンの言葉を無視し続けた。
必死になって声をかけ続けている。
ランタンはその言葉を聞きながら、あたりをうろうろした。地面を覆うかさぶたみたいな青い血を蹴っ飛ばして時折、髪を掻き毟った。
「……リリオン」
それは虚しくも、もしかしたら幸せな時間なのかもしれない。
「ママ、わたしね。おふねにのって、海の向こうに行ったのよ」
喪われた二人の時間を埋めるように、伝えられなかったことを、溢れ出すようにして伝えている。
「森の外は、海の向こうにはたくさんの人がいて、たくさんのお家があって――」
母親を喪って、船で密航して大陸に渡ったこと。それから迷宮を目指し、その過酷な旅の途中、リリオンを支えたのはまぎれもなく母親への思いだった。
「――嫌なこともたくさんなあったけど、わたしがんばったよ」
力を得るために、それはまぎれもなく母の敵討ちのためだった。
「ねえ、ほめて」
言葉は尽きることなく、思い出はたくさん増えた。
「――ママ、わたし強くなったよ」
ランタンはそんなリリオンと背中合わせに腰を下ろした。
――僕には親がいない。懐かしい、恋い焦がれた世界はあっても、そこに自分を待っている人の姿を思ったことはない。
ランタンはぐるぐる、ぐるぐる考えていた。
喪ったのはリリオンだけではない。母リディアもまた、リリオンを喪ったのだろう。
「ランタンのおかげ。わたし、探索者になったの」
少し誇らしげにして、胸を張ったのが背中合わせに伝わってきた。
リリオンはどれだけ母と語らっただろう。
長い間、そうしていたように思う。
それだけたくさんの思い出が、旅立ってからできたのだ。妹までいる。そんな風になるなんて思いもよらなかった。
リリオンは立ち上がった。もたれ掛かっていたランタンは、そのまま後ろにひっくり返る。迷宮の天井が高い。黒い巨影が、顔のない顔で見下ろしているようだった。
その顔を遮ったのはリリオンだった。
泣き腫らした、充血した眼差しでランタンを覗き込む。リリオンが差し出した手に掴まって起き上がった。
「もう、いいのか?」
ランタンはリリオンの方を向かず、俯いて尋ねた。
「もういいなんて、ないわ」
リリオンはそう答えた。満ち足りるなんてことはないだろう。だがリリオンはもう立ち上がり、巨影に背を向けていた。
「リリオン」
「……かえりましょ」
素っ気ない言葉は、未練を断ち切るためのものに違いない。リリオンはそう言って歩き出した。
だがランタンは、まだ答えが見つかっていない。
この巨影はリリオンの母ではない。
だが単純な魔物でもないだろう。
鬼を襲うだけの魔物でも、きっとない。
リリオンが迷宮の出口に差し掛かった。
その瞬間だった。
微動だにしなかった巨影が、はっきりとした意思をもってリリオンに襲いかかった。
ランタンがその間に割って入る。強烈な一撃を戦鎚に受け止めるが、全身が引き千切れるような衝撃だった。
「そんな、――どうしてっ!」
油断していたリリオンが悲鳴を上げた。
信じられないといった驚きの表情だった。
巨影は再び剣を振りかぶる。
ランタンの腕は痺れていた。
「どうして、ママっ!」
次撃を受け止めたのはリリオンだった。
リリオンはまだ、その魔物をママと呼んだ。
ママと呼ぶ魔物に大剣を向けた。
もう巨影は二人を敵として認識したようだった。鬼に襲いかかるのと同じような苛烈さで、二人に斬りかかってくる。
リリオンは受けることに精一杯で、ランタンもまた同じだった。
打ち合うほどに影が舞って、霧雨のようにあたりを包んだ。
ランタンの胸がちくちくと痛む。
ああ、そうか。
きっとそうだ、と思う。
自分が、もしかしたら間違っていたんじゃないか。
もしかしたらこれは本当にリリオンの母親なんじゃないだろうか。
彷徨う者は生者の願いによって現れる魔物だ。
だが本当にそれだけか。迷宮で散った者たちが、最後に抱いた思いはどこへ行くだろう。
きっとそれも粉々に分解されて、迷宮の一部になるのだ。
だがそれでもそれは失われるわけではない。
それもきっと迷宮や、彷徨う者の一部となるのだ。
――そして巨影は迷宮にこだまする祈りの残響だった。
リディアの戦う理由は、いつだってリリオンのためだったに違いない。
人の子を孕み、それを産んだ彼女はその赤子を憎んだかもしれない。
だがその子が自分と同じ目に合わされると知ったとき、彼女は戦いの道を選んだ。
自分に降り注ぐ苦痛を受け入れることはできても、その子が同じ目に合うのが許せなかった。
そして迷宮からリリオンの生きる外の世界に魔物が溢れぬように彼女は戦い続ける。
戦い続け、戦い続け、魔精の分解と再構築を繰り返し、複雑に絡み合った祈りは摩耗し、その結果に残った最後の意思がこの巨影だった。
彷徨う者のなれの果て。
ただひたすらに迷宮最下層に全ての邪悪を封じ込め、それと戦い続けるだけの存在だ。
最愛の娘のために。
だがもう守るべき娘と封じるべき邪悪の区別さえつかない。
「やめてママっ、もうやめてっ!」
そう叫びながらもリリオンはまともに巨影と渡り合っていた。
大剣は既に幾重にも刃毀れし、今にも折れそうなそれを長らえさせているのは、ここに来て結実した経験の賜だった。
自分よりも遥かに力に優るものに対して、少しも引けをとらない。
リリオンは強くなった。
だが強くなったリリオンは、それでも涙を流す。
泣きながら母の影と斬り結んでいる。
――死者の魂というものが、もしあるとするのなら。
リリオンが黒剣の一つを斬りとばした。もう一歩踏み込めば、返す刀で巨影に一太刀浴びせることができる。
だがその一歩が踏み出せない。
ランタンが代わりにその一歩を踏み出した。リリオンがランタンの外套を咄嗟に掴む。
打ち込むには半歩足らず、反撃の一撃をランタンは戦鎚に受け止める。吹っ飛びそうになるのを、リリオンが背中から支えた。爆発でもって剣を押し返した。
光が巨影を照らした。
リリオンと散々打ち合ったもう一振りの黒剣も半ばから砕け、巨影が尻餅をついた。
「ママぁっ! ……どうして」
そこに彼女の魂は、まだあるか。
ランタンはその場に座った。
外套を掴んだままのリリオンが、そのまま一緒になってしゃがみ込む。大剣が手からこぼれて、落ちた衝撃で割れてしまった。
ランタンは背筋を正し、戦鎚を脇に置く。
そしてリリオンがそうしたように、影に向けて語りかけた。
「僕は、あなたの娘を、リリオンのことを好きになってしまいました」
燃えるようだった瞳の色が、穏やかな焦茶色に戻っている。
「背はそんなに大きくないけれど、これでも身体は丈夫です。おかげで稼ぎも悪くはありません。おかしな趣味もないので、リリオンに不自由はさせないと思います」
巨影がゆっくりと身を起こした。
「ひもじい思いも決してさせません。温かい家や、やわらかいベッドも用意します。さみしい思いは、どうしようもないかもしれないけど、そういうときはずっと傍にいます。ひとりぼっちにはしません。約束します」
だからランタンはこれまで、それを言ったことがない。
一つ屋根の下に暮らし、周りからもそういう風に見られているし、口にしなくても分かり合っていると互いに思っている。
だからいちいち言う必要がないと、そう思っていた。
照れくさく、恥ずかしくもあったからだろう。
それは巨影に向けた言葉では、もうなかった。
「どうか、どうか、お願いします。リリオン、――僕のお嫁さんになってください」
ランタンは地面に拳をつき、頭を下げた。
リリオンの身体が震えた。
止めどなく涙が溢れて、ランタンの背中に覆い被さるみたいに抱きついて、リリオンは声を上げて泣き出した。
「なぁるぅ――……!」
もし死者の魂というものがあるのなら、それを安心させることができるのは残された者の平穏や幸福だけなのかもしれない。
――そこに彼女の魂は、まだあるか。
二人が顔を上げたとき、巨影の姿はどこにもなかった。




