330 迷宮
予定の半分
330
迷宮に静寂が満ちる夜だった。
だがまったくの無音ではない。迷宮内に存在する機械的な設備が、羽虫の羽ばたきのような、息を潜めた呼吸のような、極小さな音を奏でている。
色も熱もない蛍光灯の光。
それはじじじじと微かな音を立てる。その音は気配を隠す機械獣の接近音によく似ていた。そのため部屋の中の蛍光灯は全て外してある。
警告や注意を示すらしい赤色灯が部屋の片隅で小さく灯っている。目に見える範囲の、もとから迷宮にある光はそれだけだった。
手元の灯りは魔道光源の控えめな光だった。揺らぎのないこの便利な光を素っ気ないと言って、大きな館中の光源を火に頼る貴族もいる。
だがこの蛍光灯というやつに比べたら魔道光源はずいぶんと温もりがある、とレティシアは思う。
そう思うのは迷宮を一人起きている心細さの所為かもしれない。
この迷宮の性質上、焚き火を熾すことができない。この床は不燃物質ではなかったし、一度燃えれば毒の煙を出した。便利さと不便さは表裏一体だ。
炎を恋しく思う。
木々が燃え、弾ける音は手拍子のように迷宮の夜を過ごす探索者を勇気づける。
光が揺らがないので、床に張り付く己の影はまったく不動だった。影の中で竜種の尻尾がゆっくりとのたうつ。魔道の光を浴びて額から生える角が銀色に染まる。
レティシアは角の付け根を擦った。
夜番のレティシアは一人、迷宮備え付けの椅子に腰掛け、この奇妙な迷宮を観察する。
見れば見るほどに奇妙な迷宮だった。
そして迷宮とは奇妙なものだった。
ランタンの説明がなければ、この迷宮はそういう有象無象の奇妙な迷宮の一つでしかなかっただろう。
これまでの歴史の中で、こういった迷宮は他にも多くあったに違いない。しかし迷宮内にあるものの意味や価値を知らなければ、これは千変万化する迷宮のただ一つに過ぎない。
その奇妙さの意味に気付いたものはどれぐらいいるだろうか。
探索者は気にもしないだろう。彼らの多くは無教養であり、迷宮への興味といえばその危険さと、それが何枚の金貨に換わるかということぐらいだ。
探索者ギルドや魔道ギルドは病的な収集癖によって、その記録を残しているだろう。だがおそらくその記録は埃を被っているはずだ。やがてその価値に気付くものが現れるまで。
そう思ったのはレティシアの実家にも膨大な迷宮の記録が残っているからだった。それは迷宮で竜種を捕らえるために記録されたものだが、古い記録は何十年も書架に収められたままになっている。
レティシアは自嘲的に小さく笑う。
探索者の無教養さも、貴族たる自分の教養も、ランタンの世界の基準からしてみれば同じ無知に違いない。
高度に発達した機械文明、科学文明の発明品。
正直なところレティシアはランタンの説明を聞いても、いまいちよく解らなかった。ランタンの説明がぼんやりしていたというのもあるが、詳しく説明されてもきっと理解できなかったはずだ。知るための前提知識が乏しい、いや皆無であるからだ。
理解できないほど複雑な技術の結晶。
魔道という超常の力を用いずに、それに近似した現象を再現する。それがすごいことだと言うことぐらいは理解できる。
だが同時に、超常たる魔道の力はレティシアにとって、この世界にとっては当たり前のものでもある。
レティシアは迷宮で手に入れた電球を手にした。
極薄く透明な硝子の中に、絹糸のように細い金属繊維が張られている。
電球に、指先に発生させた雷を流し込むと、その繊維が強い光を放ち、微かな焦げ臭さを残して程なく焼き切れた。
レティシアはその強い光を直視して、ちかちかと眩んだ目を瞬かせた。
この光を知っていた。
レティシアは雷の魔道の使い手だ。魔物に、敵となった人間に、その力を行使することは仕事の一つでもある。雷撃を打ち込んだ生命は、この繊維と同様に強く発光し、火を吹き、そして事切れる。心のどこかで生命の輝きだと思っていた。しかし原理としては電球もきっと同じものだ。
私はそれを硝子の中に封じようとは思わなかった。
レティシアは電球をレモンに持ち替える。
夜食である。
ネイリング領の名産品の一つである紅いレモンだ。レティシアはそれを皮ごと囓り、強烈な酸味を楽しむのが好きだった。
そのことをランタンに明かした時、少年が笑った意味をレティシアはようやく知った。
血のように赤い果汁滴る断面に、レティシアは皮膜を剥いた導線を二本差し込んだ。繋がれた先は機械獣の右前脚だった。動かぬはずのそれが、痙攣するようにかちかちと音を立てて震えた。
レモンに異なる種類の金属を差し込むと、そこには微弱な電気が発生する。
レティシアの指先に雷が宿るように。
ランタンはそれの同一性を笑ったのだ。その悪戯な顔を思い出し、レティシアは酸っぱそうに唇を窄ませた。
ランタンはなぜ電気が発生するのか、その原理を知らない。あるいは朧気だった。
この迷宮の様々なことを説明するランタンは、そのあやふやな知識を恥じるようなところがあった。恥じるがゆえに開き直り、自分の胸の内に湧いた不安を悟らせぬようにする。
ランタンが言うところの、ここではないどこか。
ランタンの中のその記憶は霧の中に包まれている。
その曖昧さは少年にとって救いなのか、残酷なことなのかどちらだろう。
もしはっきりと記憶していたら、この世界から元の世界へ帰りたいとやはり思い続けただろうか。曖昧であるがゆえに未練が少ないのか。本当に少ないのか、それとも演技が上手いのか。
レティシアは導線を抜いた。
死にきれぬように動いていた前脚がぴたりと動くのをやめた。レティシアはそれを机の上に戻す。脚の先端にある爪が鋭い。そっと置いたのに机を傷つけた。
レティシアは再びレモンに齧り付く。眠気が吹き飛ぶような酸っぱさだった。舌の上に柑橘の爽やかな甘みと、微かな金属の味が転がった。
導線が溶けたのだ。もしかしたら金属は電気でできているのかもしれない。レティシアは半ば本気でそんな風に思い、一人苦笑した。
その想像をランタンに伝えたら、少年は笑うだろうか。
レティシアは竜種じみた鋭い牙でざくざくと残ったレモンを咀嚼し、ぺろりとそれを平らげる。濡れ唇を手の甲で乱暴に拭った。
迷宮の夜は長いが、夜番は三人で分かち合う。
レティシアは耳を澄ます。静寂の中に危険が忍び寄ってこないかどうか、聞き逃すまいと。
静かで、無機質な迷宮だった。
作動音に混じって三人の寝息が耳に心地良かった。
ランタンとリリオンとローサ。
ランタンを真ん中に挟んで、絡まった毛糸みたいになって眠っている。ローサの鼻がたまにぴいぴいと鳴るのが微笑ましい。迷宮内で熟睡している。これは大物になる、と思う。迷宮ではどうしても眠りが浅くなるものだ。
場違いなほど穏やかな寝息は、レティシアを場違いなほど甘やかな気持ちにさせる。
その眠りを羨ましくも思う。自分も混じりたい。そういう引力を発生させている。
危険な迷宮の中にあって、そこだけは魔物も遠慮して襲わないのではないかと思わせるほどだった。
だがその穏やかな眠りを妨げるのが、他でもないレティシアの役目だった。
レティシアは椅子から立ち上がり、伸び上がる。足音無く三人に近付き、寝顔を覗き込んだ。
リリオンの胸の中でランタンは寝苦しそうにしていた。贅沢者め、とレティシアは思わず笑う。
リリオンはランタンをしっかりと抱きしめている。レティシアは少女の頬に掛かった髪を払い、その頬を突いた。
「……ううん」
リリオンが小さく呻く。開いたか開いていないか、微かに目蓋が痙攣して、それだけだった。
レティシアは罪悪感を覚えながら、それでもリリオンの肩を揺すった。リリオンは今度はうっすらと目蓋を開いた。ぼんやりとレティシアを見つめる。
こうたい、と声に出さずリリオンが呟く。レティシアは頷いた。
リリオンは欠伸をして、名残惜しそうにランタンを解放した。そして二人を起こさないようにゆっくりと毛布から這い出た。
よたよたと赤ん坊のような四つん這いにもかかわらず、この少女の美しさにレティシアは改めて感心した。
解いた髪に埋もれる形の良い小さな頭部。すらりと長い手足と、女らしさを育んでいるその身体。
この世界ではない記憶がはっきりしていても、やはりランタンは残っただろうと確信させる。美しさが全てではない。だがそれぐらいの価値はきっとあるはずだ。
リリオンはランタンの枕元で一度座り込み、また眠りに引きずり戻されるみたいに瞼を閉じて静止した。
そういう彫像のようだ。
「もう少し眠っていてもいいぞ」
レティシアはついそう言った。甘やかさないようにランタンから言い含まれていたのにもかかわらず。
「ううん、だいじょうぶ。おきる」
リリオンは舌足らずに言って、目蓋どころか、顔中を乱暴に擦りながら立ち上がった。そしてそのまま目一杯に背伸びをする。
大きい、と改めて思う。
均整の取れた身体付きは、一見すると華奢に見える。だがその身体が迷宮で力を発揮する探索者の身体であり、そしてさらにその中に巨人族の血が流れている事実を嫌が応にも理解させられる大きさだった。
ランタンと探索を重ねているからだろうか。
貫禄がついてきた。
「こうたい、交代。うん、レティ、――ああ、レティはいい匂いがするわ」
目は開いても言葉は寝言のようだった。
「綺麗だし、強いし、いいな」
それは最後のひと言まで本心だったに違いない。
だがレティシアは少し驚いた。こういう羨ましがり方は珍しい。
探索者ならば誰もが羨む強さをリリオンは既に持っていた。力が強い、と言うのは単純明快でわかりやすい長所だった。だがそれをリリオンは悩んでいる。
リリオンは魔道を使えない。
自分の力が、剣を破壊してしまう。迷宮内で攻撃の手段を喪失するとは致命的なことだ。
武器を壊さぬように気を使いながら迷宮を攻略することも不可能ではない。リリオンにはそれだけの力があった。
だがそんなことを考える余地もないほどの窮地が迷宮にはある。
死力を尽くさないといけない時が。
その時のことを考えると、リリオンは恐ろしくなる。
秘めていた本音がぽろりと零れたのだ。
リリオンは人懐っこくレティシアに近付くと、猫のように顔を近付ける。すんすんと鼻を動かし、レモンの匂い、と謎々を解いたみたいに言う。
「眠気覚ましに食べるか」
「うん」
リリオンは渡されたレモンに、まったく躊躇なく齧りついた。かっと目を開く。
「んー、んーっ」
唇を尖らせながらじたばたと足踏みをし、またぎゅっと目を瞑り、ひとしきり悶えだ。
「目が覚めたか?」
レティシアは言いながら水筒を渡す。
「ん――んっ、はあ。うん、目、覚めた。交代ね。――なにかあった?」
「今のところ問題なし。ないよな――」
二人はランタンとローサを振り返った。ちゃんと眠っている。
「――うん、ないな。真ん中は辛いだろうが、二時間だ。よろしく頼むな」
「うん」
三交代の場合、いつもはランタンが買って出る真ん中だった。睡眠を分断されるので疲労が抜けづらい。
リリオンが強く自分がやると言って押しきったのは、せめて役に立ちたいと思ったからだった。
レティシアはリリオンの肩を叩き、装備を外すと、まだ少女の温もりが残るランタンの隣に身体を横たえた。
「……リリオンの代わりが私に務まるかな?」
「だれも、だれかの代わりにはなれないわ」
リリオンが答える。
「まったくそのとおりだ。では、おやすみ」
「おやすみなさい。レティ」
レティシアは瞼を閉じる。
リリオンの温もりごとランタンを抱きしめる。




