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迷宮特区外に発生した迷宮を管理外迷宮や鄙迷宮と呼ぶ。
人や家畜が転落する事故もあるが、最大の問題はこれが崩壊した時に魔物を地上に放つことだった。
迷宮それ自体はそこにあるだけなので近付かなければよいが、魔物は動き回り人や家畜を襲うので被害が拡大する。
またそうして地上進出を果たした魔物は時折、地上に定着する種もあった。
例えば迷宮兎は魔精によって一匹から増えることができ、牙蛙は旺盛な繁殖力から駆除が間に合わず、軍馬に代表される魔馬などのように地上種と交雑することが可能な種などがそれである。
もっとも魔物と獣の自然交雑は滅多に発生しないとされているが、ともあれ魔物がもたらす地上への影響は大きい。
例えば中難易度程度の迷宮が崩壊し、これの最終目標が地上に現れた場合、それなりの備えがある村であってもいざ襲われて生き残れる確率はかなり低い。
管理外迷宮は見つけ次第攻略することが望ましいが、現実はなかなかそうならない。
そもそも見つけようと思って見つけられるものではない。偶然の発見が大半なのは、やはり迷宮それ自体が動きもせず音も立てないからである。
なので発見される管理外迷宮は、魔物の目撃情報の増加によって発見される迷宮崩壊跡ばかりだ。
そして見つけたとしてもこれを攻略する探索者は少ない。発見者は基本的に周囲に住む農民であり、その対処方法は周知されていない。地盤沈下か何かと思い、迷宮であると気付かないこともある。迷宮であると気付いた農民は村長なりに報告し、そこから領主へ話が行く。
騎士団なりが直接攻略に乗り出すこともあるし、領主から直接探索者に依頼が行くこともあるが、多くの場合は探索者ギルドに依頼が出される。それがもっとも確実な方法だからだ。
しかしこの依頼を受ける探索者は少ない。
探索者は迷宮特区のある大都市に住んでおり、管理外迷宮は大都市から離れるほどに発生数が増加する。単純にそこまで行くのが面倒なのである。そして引き上げ屋を使うことも出来ず、攻略費用も嵩み、依頼料があるとはいえ労力に見合うほどの儲けとなるかはお察しである。
管理外迷宮を専門に攻略する探索者集団もあるようだが、それは一種の宗教的な志による行いであって、そういう集団ははっきりと珍しい存在だった。彼らは辺境を行商人のようにぐるぐると巡回しているらしかったが、彼らの訪れと迷宮発生と時期が重なることはそんなにない。
「へえ、ふうん」
ランタンは珍しそうに迷宮口を覗き込む。
自然発生した管理外迷宮を見るのは初めてのことだった。迷宮というものは地面に口を開いているのが相場であるが、その迷宮口は崖肌に口を開いている。
一見すれば洞窟の入り口のようにしか見えないし、よくよく見てもこれが迷宮口だとは思わないだろう。
縦横は一メートルほどの大きさで、這う必要はないが腰を屈まなければ入ることは出来ない。
奥の方から爽やかな風が吹き出している。
ランタンはその辺の小石を拾って迷宮口に投げ込んだ。小さな衝突音があり、それから少し転がっていくような音色が続く。奥は傾斜しているようだったが、帰還不能な穴にはなっていないようだった。
「入ってみよう」
ランタンが振り返ってレティシアを誘うが、レティシアは難しい顔をした。
「危険だろう。私がきちんと攻略団を組んで処理をするから」
「そりゃ危険だろうけど、気になるんだもん。もし崩壊間近だったらうかうか出来ないでしょ。それに」
「それに?」
「あの狼羊が気になる」
魔物は迷宮の崩壊によって地上に出現する。それが常識的な考えだった。あの紫の血をした狼羊をどう見るか。この緩やかな傾斜を登って迷宮から地上へ出てきた魔物なのか。それともただの羊が傾斜を転がり落ちて、魔精を得て、再び地上に戻っただけか。
ランタンは戦鎚を手にする。
「攻略しようってんじゃないよ。ただちょっと覗くだけ。いいでしょ?」
「ダメだ、といったら一人で行ってしまうか?」
「行かないよ」
ランタンは戦鎚を手の中で回した。迷宮口に背を向けて、レティシアに向き合う。
「今日はレティを一人にはしない日だもん。行くんなら一緒に行く、行かないんなら行かない」
レティシアは言葉に詰まった。
何ともずるい言い方をする、と思う。あるいはその表情だろうか。
ランタンはむしろ大人びた表情で、レティシアに言い聞かせるみたいに言った。
「行くよ。今日はランタンと一緒にいる日だからだな。どこまでも一緒に行こうじゃないか」
「やった。じゃあ行こう。すぐ行こう。気が変わらないうちに」
ランタンはさっとレティシアの手を掴んだ。戦鎚の先に炎を灯し、レティシアを迷宮の闇の中に誘い込む。
先導するその背中はやはり小さい。戦鎚の炎は鬼火のようで、逆光に影を背負うその姿はランタンを人ならざるもののように見せる。
進むにつれて高さが出てくる。振り返って外の光は遠く、傾斜は緩やかながら背の高さよりも上にある。
「やっぱり迷宮なんだ」
境界線である魔精の霧が滞留している。もう立ち上がって問題はないが、手を伸ばせば天井に触れることができる。
「少し色が薄い感じがするかな?」
戦鎚の先でかき混ぜると、空気の流れが目に見える。先端に灯した炎が霧に包まれるように鎮火する。
「じゃあ行くよ」
ランタンが宣言するとレティシアは握った手に力を込める。リリオンのようだ、と少し思うと、込められた力が強くなった気がする。ランタンは戦鎚を杖のように使って、白い闇に隠れる足元を確認する。
「少し角度がつくよ」
ランタンの歩幅で十歩、霧の厚みは八メートルほどもあった。
迷宮は鍾乳洞を思わせた。霧がそのまま塗り付けられたような乳白色で、天井から氷柱のような突起が垂れ、その先端から水が滴っている。
足元はふかふかしている。足元ばかりではなく、迷宮の内側は白色のふかふかしたものに覆われていた。
「ふむ、妙な触り心地だな」
「僕も触りたいんだけど」
戦鎚を手放すわけに行かず、しかしレティシアも手を離してくれない。
「そうか、そうか。それは困ったな。よし説明してやろう。肌触りは、うん、猫のようだな。毛の短い、よく手入れされた。濡れて冷たいが冷たすぎることはない」
「……」
「濡れてもじとりとはしていないな。妙な触り心地だ。悪くない。――まったくしょうがない、戦鎚を寄越せ」
「しょうがないのはどっちだよ」
ランタンは拗ねるように言いながら戦鎚を手渡す。
受け取ったレティシアはその重さに感慨を深める。物質的な重さ以上のものを感じさせる。迷宮の壁よりもよほど興味深い。
「あ、ほんとだ。猫みたい。濡れたローサっぽいよ。毛の短いところはこんな感じだよ、あの子。変なの。苔か、黴か? お、足跡ある」
レティシアを引っ張るようにランタンはしゃがみ込み、足元を確かめる。そこには確かにいくつかの足跡があった。だがはっきりと見えるわけではない。言われてようやくわかるようなものだ。
「もっと奥に進もう」
「ああ、こら。引っ張るな。おい、戦鎚はいいのか?」
「持っといて。――水の気配がある。音も聞こえるな」
しゃがみ込んだかと思えばすぐ立ち上がり、ランタンはレティシアをぐいぐいと引っ張る。
レティシアはそうされながら感心していた。
同じ景色を見聞きしているのに、得ている情報の量が圧倒的に違う。レティシアも迷宮探索をするが、探索者ではない。これがその違いだった。
「あまり急ぐな、滑って転ぶぞ」
「大丈夫」
「魔物が出るかもしれないぞ」
「それも大丈夫」
なにを根拠にそう言っているのかは不明だが、確かにランタンの言う通り魔物は出現しなかった。
迷宮はすぐ行き止まりに辿り着いた。
そこは爆発でも起こったかのように球形に空間が広がっている。
「おお」
「これは、なかなかすごいな」
卵の内側に閉じ込められたかのように真っ白だった。
その中心に水が溜まっている。
地底湖ならぬ迷宮湖だろう。半径百メートルはあろうかという巨大な水溜まりが広がっていた。天井から雨漏りのように水滴が落ちていくつも波紋が広がっては消え、また広がっていく。
それは幻想的な光景だった。
レティシアの手を振り切って、ランタンが水際に駆けていく。
空間が白い光に満たされているのは、湖の底から光が溢れているからだと推測したがそうではない。ランタンは水面を覗き込む。水自体が光を持っている。それが白い壁を反射して、隅々まで照らしているのだ。
「変な迷宮だ」
ランタンはそう言いきったが、レティシアはこの後に及んで訝しむ。
「これは迷宮か?」
「迷宮だよ」
「でもどん詰まりじゃないか。魔物もいないし、最下層もなさそうだが」
「アシュレイさまんところの地下にあった迷宮、知ってる?」
「ちらっとお伺いしたぐらいだ。ランタンに用事がある時は、まず私にお声をかけてくださるから」
「あれに似てるよ。雰囲気というか、気配が。――あ」
「なんだ、どうした?」
湖は凄まじい透明度だった。地面や壁と同じように、湖の壁面にも水底にも白いふかふかしたものが生えている。苔やあるいは藻なのかもしれない。陸生のものより毛足が長い。
そしてそのふかふかしたものに紛れて見えていなかったが、水底で何かが這っていた。
それを確かめるためにランタンは水面に顔を近付ける。
その透明度に騙されたのか、ランタンは水面近くまで浮上してきた何かに首筋を噛み付かれてそのまま引きずり込まれた。
それは羊だった。水底をのそのそ歩いて、生えているものを食んでいる。ランタンを引きずり込んだのを合わせて五頭ほども存在していた。
ランタンは驚いたが、驚いただけだった。羊には牙もなく、ランタンを引きずり込んですぐ飽きたように首を放した。そして水中を歩いて、群に合流するとふかふかを食み始める。群はこちらを一瞥もしない。
なんだろう、とランタンは首を傾げる。頭上に黒い影があり、それはレティシアだった。ランタンを抱きしめると、その黒々とした尾をしならせながら水面に浮上する。
「大丈夫か?」
「うん、ごめん。心配かけちゃった」
「あいつら……!」
レティシアは水底の羊を睨みつける。
「悪戯程度だったよ。まだ草食の獣だ」
二人は湖から上がって、濡れた服を脱いで絞った。
「じゃあ何か? この迷宮は羊が創ったのか」
レティシアは角の先から雫を垂らしながら言う。
「創ったというか、影響は与えたんじゃないかなあと思う。攻略するものじゃないんだよ、この迷宮。ただここにある空間」
迷宮は魔精が意思に触れることによって創造されるという説がある。迷宮になる以前の魔精の集合を、ツァイリンガー博士は魔精溜まりと呼んだ。人の根源的な好奇心や欲求や恐怖が、迷宮には色濃く表れる。
「羊じゃなくて、山羊かもしれないし、兎かもしれないし、馬や牛かもしれない。狼はどうだろう。でも人じゃないよ、たぶんね」
「なんでそう思う?」
「危険がないから」
絞った服を重ならないように広げ、ランタンは水際に腰掛け、無防備に水中に足を入れた。それから身体を横たえる。
「水がいっぱいあって、ちょっと涼しくて、食べられるふかふかがあって、のんびりするにはいいよ」
レティシアもランタンに並んだ。すっかり汗も流されて、気兼ねなく近付くことが出来る。同じように足を湖にいれ、そればかりか尾も垂らしている。
ランタンが寝返りを打ってレティシアの方へ向くと、レティシアも同じようにランタンに向かい合う。
隠す必要もない裸身の二人は、どこか供物のようにも見える。
「草食動物の楽園か」
「そ、侵入者が来てびっくりしちゃったんだろうね。あるいはそれが魔物の行動原理なのかな? 楽園から探索者を追い出すの」
「人間だってそうだろう。他国に打ち入ったり、打ち入られたり」
「人も獣も、魔物も変わらないのかなあ。あの狼羊は、ここでああなったんだと思う。羊は狼になりたいと思うのかな」
「さて、どうだろうな」
「レティは」
ランタンはレティシアの腰を抱いた。尻の柔らかさを撫で、尾の付け根に触れる。鱗は硬く、湖の冷たさを孕んでいる。
「竜種になりたかった?」
「――さて、どうなんだろう。強くはなりたかったな。自我を保ちたかったというか、心が折れそうになるのが理解できたから。私にとってその象徴だったのは確かだ。ふ、ふふふ――」
レティシアは喉を揺らすように笑った。
「なに?」
「――いや、な。私にとっての強さの象徴はいくつかある。もしかしたら兄や父のようになっていた可能性もあるのかと思ってな」
ランタンは露骨に嫌な顔をした。それを見てレティシアはまた笑う。
「ははは、そんな顔をするな。今の方がいいか?」
「いい。すごくいい」
「そうかそうか。ちょっと面白いな。私が魔物に似るよりも、父に似る方が嫌か。変異を嘆くことも、恐れることもあるが、なるほどそうか」
「そりゃそうだよ。僕、レティがどんなになってもレティのこと好きでいる自信があったけど、それはちょっと気持ち悪い。だいぶ」
「おや、しょんぼりしているな。ほら、元気をおだし」
「――それは、レティに、う、朝まで、絞られたからだよっ」
ランタンは悶え呻きながら言った。逃げるように腰を動かし、レティシアは背中を向けたランタンをそのまま抱き込む。
「まだもう、ちょっとだな。悩み事か?」
「ローサを迷宮に行かしていいかを迷っている」
柔らかな女の肉に包まれて、ランタンは素直に答えた。
「あの子は迷宮でどうなるだろう? 魔精は、迷宮はあの子にどんな影響を与える?」
「ランタン」
「あの子はまだ精神年齢五歳ぐらいだよ。力も強いし、技もある。でも本当に大丈夫なの?」
ローサの姉であるロザリアとの約束は、思いがけずランタンの胸にありつづけている。
頼むと告げられた今際の言葉は、違えるわけにはいかないものだ。
「大丈夫だろう」
レティシアはぎゅっと抱きしめて、そう断言した。
「なにを根拠に」
「私が抱きしめているものが根拠だよ。私はこれ以上の男はいないと知っている。それに精神年齢五歳がなんだ。ランタンは迷宮生まれだと吹聴しているようじゃないか」
「それは、周りがいちいちうるさいから」
「ならば生まれてすぐに迷宮攻略したんだろう。それもたった一人で。それに死ななければ幾らでもやり直せる。一度探索者になったからって、永遠に続けなければならない訳じゃない。たまにしか会わない私だが、それでもローサには無限の未来があるように思えるよ。あの子、この間家に泊まりに来ただろう。そうしたらメイドと一緒に掃除をしたり、厨房に入って料理をしたり、私の仕事に付いてこようとしたり、竜種に餌をやったり、それを横取りしたり」
「え」
「やりたい放題だったんだからな」
「それは、それはどうもご迷惑を」
「おかげで一日中笑いが絶えなかった。だから、あの子は大丈夫だ。ランタンだけじゃなくて、リリオンもいるだろう。大抵のことは大丈夫だよ。私がお墨付きをやろう」
捲し立てるレティシアの熱気がランタンの背中を温めた。押しつけられた膨らみの先端が硬くなっていくのが感じられた。
「元気出たか?」
「でた。でたけど、――あれ、おかしいな、なんだろう。いつもよりちょっと」
「ランタンもか、実は私も」
それは迷宮湖の影響だった。
ランタンは身体を回してレティシアに向き直る。レティシアはランタンを見て、こういった。
「狼を見つけた。私の勝ちだ」
迷宮湖は羊を狼に変異させるものである、かは不明だが、しかしこれが滋養強壮に優れていることには違いない。
湖に入った時、二人はそれを飲んでいた。
「じゃあ、僕の負け」
ランタンはあっさりと敗北を認める。
そしてじっとレティシアが勝者の権利を行使するのを待った。
レティシアは溶け出しそうなほど熱っぽい視線をランタンに向ける。
「私はランタンに、はしたないと思われたくはないんだ。でも君はいつも私にそう振る舞わせる」
レティシアがランタンの耳に口を寄せる。
なにを言ったかは二人しか知らない。
羊がびっくりして逃げ出すようなことをしたらしい。




