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出かけようと誘ったその理由はただ二人で時間を過ごすためだけだった。
南方の空に巨大なとぐろを巻く雲がある。
「あそこ行こう!」
ランタンが指差して言うと、レティシアはカーリーの赤い鱗を優しく叩いた。
「そらっ!」
翼で風を打ってぐんと加速する。内臓が背中に寄って、背中はレティシアの胸へと引っ張られるみたいに密着する。
カーリーは羽ばたくほどにぐんぐんと速度を上げる。
裾から空気が入って、レティシアに履かされた膝丈の半ズボンがカボチャのように膨らむ。
レティシアは片手に手綱を握り、空いた左の手をランタンの腹に回している。
「積乱雲かな?」
「夜には雨が降るかもしれないな」
遠くにあるかと思われた雲は、思いがけず近くにあった。雲の大きさに距離を錯覚したのだ。
雲の真下に入ると夜のように暗く、見上げても太陽の光はまるで見られない。
近付くと竜種さえ呑み込まれかねない上昇気流が発生している。
「どうする?」
レティシアが挑むようにランタンに問う。
「突撃!」
ランタンが答えると、カーリーはレティシアの合図を待たずに気流を翼に孕んで垂直に上昇する。
「あーっ、お腹、お腹びっくりする!」
背中を突き抜けそうなほどの内臓の浮遊感にランタンは思わず叫んだ。
「ははは、ならばこれでっ!」
レティシアは軽く笑い、意地悪く手綱を引いた。雲の中に突っ込んだかと思うと、カーリーはくるりと縦に一回転し、そしてさらに螺旋を描いた。
天地も左右もあっという間に見失って、ランタンは目を回す。
真っ白な雲の中は濃い灰色で、大きな雨粒と、それを氷にする冷気と、滅茶苦茶に吹き荒れる嵐の巣になっている。
ぴかと稲光があった。カーリーがそれを恐るべき反応速度で躱す。すれすれを行き交う稲妻が毛穴を隆起させ、毛という毛が重力を無視して逆立った。
「……――あーっ!」
一瞬にして視界が開ける。積乱雲の天辺を突き破って青空に顔を出す。
息継ぎのような深呼吸を繰り返した。
太陽が近く、風が爽やかだった。カーリーの速度がそのまま向かい風になり、濡れた髪を乾かしてゆく。
「あー、酷い目にあった。レティ酷いよ」
「突撃と言ったのはランタンだろう」
ランタンはレティシアにもたれ掛かった。
「突撃としか言ってないよ」
猫のように体重を預けてくるランタンをレティシアは愛おしく支えた。まだほのかに湿り気を残す黒髪に頬を寄せた。
「うん? なんだ楽しませてやろうとしたのに。これはもう一度だな」
「――うわあ」
言うが早いかカーリーは墜落するみたいに急降下する。
ランタンは笑ったような悲鳴を上げた。
地面のすれすれで鼻先を上げて、風圧に夏草が千切れ飛んだ。角度は緩やかに再び雲の高さまで高度を上げると、カーリーは水平に大きく翼を広げる。
遥か眼下の地面に落ちた影は燕ほどの大きさで、それを見つけてもまさか竜種が飛んでいるとは思わないだろう。
「レティは意地悪だね」
「楽しんで貰えて何よりだ」
二人はのんびりと空を楽しむ。夏の空は太陽に近付くほどに涼しくなる。
空の青さが濃い。
「カーリーは素直で良いね。どれぐらい人の言葉を理解してるんだろう」
「すべて、と言いたいところだが。――しかし言語を同じくする人間同士でも誤解は多いからな」
「言葉自体が不完全なんでしょ。それか人間それ自体が、思ってるよりも」
ランタンは腕を伸ばして鱗に覆われた首の付け根を撫でてやった。
カーリーはきゅるると欠伸するように喉を鳴らす。
「手綱を一気に引けば減速で、曲がりたい時はそちらだけを引く、上下も似たようなものだが加減がちょっと難しい。加速させる時は鞭を使う」
「こんな鱗に通用する?」
「痛めつけようっていうんじゃないんだから充分だ。もっとも訓練の初期ぐらいにしか使わない」
「ふうん」
「昔はこのあたりの鱗を色分けしたり、命令を彫刻したりしていたようだよ。叩いた鱗によって命令を使い分けていたんだと。いまでも神風到来だとか、晴天祈願の呪いを彫り込むものもいるが、その名残だな」
「レティはしないの? 意外と好きでしょ? 占い」
「そのおかげでランタンに会えたからな。だが腕が良ければ向かい風だろうと関係ないし、そもそもこの子ならば嵐になろうと苦はないさ。なあ?」
カーリーは気持ちよさそうに、風を滑るようにして大きく旋回した。
「もう、急にやめてよ。びっくりするじゃん」
「この子にとっても久し振りの空だからな。文字通り羽を伸ばしているんだ」
「レティは?」
「うん? うん、私もこんなにのんびりするのは久し振りだな。ほら、持って」
レティシアはランタンに手綱を任せると、自由になった両手を存分に使ってランタンを抱きすくめる。少し苦しいぐらいだったが、ランタンは好きにさせた。
背後にティルナバンの街並みが広がり、周辺にはぱらぱらと田畑が切り拓かれている。
夏の実りは既に膨らんでおり、陽射しに汗する農夫たちの人影はあまりにも小さい。
既に刈り取られた麦畑では家畜が放牧されて、刈り残された麦の根元を食んでいる。既に冬畑の用意もされていた。休耕地の土を解している地道な作業だ。
「最近は狼が多いらしい」
「狼?」
「だと羊飼いは証言している。よほど大きな群だろうか、被害が頻発しているようだ」
「……探してる?」
ランタンが振り返ると、レティシアは口元に軽く笑みを作ったが、草原を注意深く観察していたのだろう視線の鋭さだけが隠しきれずに残っている。
「カーリーに乗ってたらみんな怯えて逃げちゃうよ」
「逃げたら追えばよい。隠れていたら見つけ出せばよい」
「それもそうか」
「それに狼ばかりだけではなく、魔物の目撃情報も多いからな」
ランタンは軽く肩を竦めた。
「やめた方がいいか?」
そんなランタンの反応に、レティシアは少しだけ不安そうに尋ねた。恋人との逢瀬が獣狩りでは、確かに色気に欠けるかもしれない。
「やめなくていいよ。でも競争しようよ」
「競争?」
「先に狼を見つけた方が勝ち。勝った方は負けた方になんでも命令していいの」
「なんでも?」
「なんでも」
「あんなことでも、こんなことでも?」
「いいよ」
レティシアは急に黙り込んで真剣に勝った時のことを考える。ランタンはよほど自信があるのか気負いなく頷いたが、実のところ勝ち負けにはそれほどこだわりがないだけだった。レティシアにならば好きにされても、よほど悪いことはないだろう。
「よし、その勝負受けよう!」
「あれ狼じゃない?」
「え゛!? あ、違う。ただの白い岩だ」
レティシアはほっと胸を撫で下ろす。
ランタンはけたけた笑った。
「え゛! って言ってたよ。え゛って」
笑いすぎて眦に浮いた涙を指で拭う。
「あー、負けたらどんなやらしいことさせられるんだろ」
「――そんなこと」
「しないの?」
レティシアは黙り込む。
なかなか狼は見つからなかった。
カーリーに乗っている所為だろう。遥か上空を飛んでいるが野生動物は狩猟者の気配に敏感だ。それに竜種の背にはランタンもいる。どうしてか、ランタンもまた動物からはあまり好かれないたちだった。
「いないねえ」
「うーむ」
レティシアが唸った。
もしや家畜の群を狙ってそちらの方にいるのかもしれないが、竜種がそれらに近付くのはあまり褒められたことではない。
気付かれた途端に群が恐慌状態に陥ることがある。
そうなると互いに互いを踏み付け合って怪我をしたり、死んでしまったり、あるいは世話人の言うことを聞かずにどこかへ走り去ってしまうこともある。
「あれは――?」
「あれはカーリーの影だろう」
「あ、ほんとだ。あれは、……羊と山羊か?」
白い獣が二頭、夏草を踏み分けて追いかけっこをしている。一見すると白い猪のようにも見えるのは、それが猪突猛進を現すが如くの走りを見せているからだった。
前を走る一頭は毛を刈られた羊か、それとも山羊かの見分けはランタンにはつかない。
しかしそれを追う方は羊だろう。毛刈りの時期も過ぎたこの頃に、もこもことした羊毛に包まれているところを見るに群からはぐれた迷子羊かもしれなかった。
「迷子なら保護した方がいいかな?」
「ああ。しかしこのまま近付いてはむしろ怯えさえてしまうだろう」
「いけるって」
ランタンはなんの根拠もなく言いはなった。
「頭上につけて、高度下げて」
カーリーの影が羊の背に落ちる。どちらの羊も追われ、追うことに必死で竜種の気配にはなかなか気が付かないが、これ以上接近すればさすがに気付かれてしまうだろう。
「無茶をするんじゃないぞ」
「はいよ――っと」
ランタンはカーリーの背から飛び降りる。
高度は五十メートルを超えている。
カーリーの速度をそのまま身に宿し、羊を追って斜めに落下する。迷子羊が前行く羊の尻に頭突きをした。悲痛な鳴き声を上げて転倒する。迷子羊は横たわるそれに向かって更に突進をした。
腰に差したままの戦鎚に力を込め、重力の魔道式を発動させる。ランタンの肉体が重力を無視して減速し、大気を蹴り飛ばして方向を調整する。
「つかまえたー!」
迷子羊の背に乗って、ランタンは体重を浴びせかけて引き倒す。四肢を振り回して暴れる羊を力任せに夏草に押しつける、真白い羊毛が草の緑色に染まってゆく。青臭さが鼻を突くが、それ以上に獣臭い。
「ああ、お前行くな。あー、あーあ」
その隙に追われていた羊が立ち上がって走り去っていく。お前のせいだぞ、とランタンは迷子羊を睨み付ける。
「うん?」
横腹に尻を落とし。前脚を片手で纏めて拘束し、もう片方の手で喉笛を押さえて顔つきを確かめる。
ほどなくカーリーが近場に着陸し、レティシアがその背から飛び降りた。逃げた方は既に捕らえているらしい。
竜種の恐怖に晒し続けるよりも失神させることが慈悲であるのかもしれない。四肢を縛ってカーリーの背にくくりつけている。
「レティ、これ。僕の勝ちかな?」
「なにがだ」
「だってほら」
ランタンが捕らえた羊には牙があった。鼻面が突き出ており、その顔は狼のそれのように思う。だが羊らしいふわふわの毛は被ったものではなく、二本の巻いた角と同様にきちんと生えている。
身体は羊、顔は狼の妙な生き物だった。
「これは狼でも羊でもないだろう。勝ち負けは、まだついていない」
「しかし狼と羊って子供作れるんだっけ?」
「そんな話は聞いたことがないが。魔物じゃないのか、これは」
「なんだ、魔物か」
「残念そうだな。そんなに狼と羊の子が見たかったか」
「うん」
ランタンはまだ抵抗虚しく暴れ続ける狼羊を見下ろした。力はかなり強いが、それなりだ。がちがちと上下の牙を打ち付け、ぐるぐると唸り声を上げる顔つきはなかなか恐ろしい。竜種に怯えぬ胆力もある。
「ほんとうにこれ、魔物かな?」
だが何か足りないという気がするのは探索者ランタンの勘である。
「ちょっと失礼」
ランタンは喉笛を押さえつける指先に力を込める。親指の爪を立てて、軽く横に引いた。
皮膚を裂き、爪の隙間に血が染みこむ。
「……紫色だ。魔物になりかけだよ、こいつ」
魔物ならば血は青い。そうでないのなら赤い。そして紫色の血はこの羊が強く魔精の影響を受けていることを示している。
「ふむ、とりあえず大人しくさせようか」
レティシアは狼羊の額に指を当てると、電撃を流した。
狼羊はランタンをはね除けるかのように四肢を突っ張って失神する。もう一頭と同じように四肢を縛り、こちらは口を開かぬように鼻先も縛った。
「問題はどこから来たのか、だな」
「遠路?はるばる伯爵領から、ってよりは迷宮特区から逃げ出してきたって方が可能性はありそうだけど。魔精の影響を強く受けたのか、それとも影響から脱しつつあるのかどっちだと思う?」
「前者だな」
「理由は?」
「この大きさの魔物が特区から逃げ出せるとは考えにくいし、獣から魔物になることはあっても、魔物から獣になることはないだろう。ランタンはどう思う?」
「ほとんど同じ。魔物から獣になる可能性は少しだけ考慮しているけど。どこか近くに魔精の湧出地でもあるのかもしれない」
「魔精溜まり、というやつか」
「うん。それかどっかで迷宮が崩壊したか。家畜被害は狼じゃなくて魔物じゃない?」
「ううん」
レティシアは顎に手を当てて考える。あれだけ上空から狼の捜索をして、ただの一頭さえを見つけることはできなかったのだ。
「とりあえずこの二頭はティルナバンに送ってしまおう」
レティシアはそう言ってカーリーの背中に二頭の羊をくくりつける。手紙をしたためると、首元の鱗を一枚剥がすかのように引っ張り、その隙間に挟み込んだ。
「便利だ。カーリー、お前は便利だね。おー、よしよし」
その間ランタンはカーリーの眼前に回り込む。
カーリーの卵形の頭部は、鼻先が鋭くも丸い。甘えるようにランタンに鼻面を擦りつけて、ランタンはその顔を乱暴に撫でてやる。鱗越しに体温が伝わってくる。鼻息は熱風のようで、生臭い臭いがする。
「帰ったら歯を磨いてやろう」
「よし、カーリー先にお戻り」
くるるるあぁ、と吼えた赤竜は助走をつけるみたいに羽ばたいて、二人の頭上を名残惜しそうに旋回してからティルナバンに向かっていった。
「上から見つけられないから歩いて探そうって?」
「ああ」
「手がかりもないのに」
ランタンが溜め息交じりに言うとレティシアは自慢げに腰の剣を鞘ごと外した。
地面に直角に立てると、手を離す。
剣は南南西の方に倒れた。
「あっちに行こうか。――む、なんだその目は」
じとっとしたランタンの眼差しに気付いたレティシアは、しかし負けじと視線を返してくる。ランタンは視線を逸らした。
「べっつにー。あーあ、半ズボン履くんじゃなかった。葉っぱがちくちくして痛い」
「似合ってるぞ」
「うれしかないよ」
ランタンが先んじて進むと、レティシアが小走りに駆け寄って行き先の草を剣で刈り取る。
「上からじゃ見つけられなかったけど、色々いるね」
恐れを知らずによってくるのはバッタをはじめとした昆虫ばかりだ。動物は穴熊や兎といった小さなものが多く住んでいるようだった。鹿や猪が遠くを駆け抜けてゆく。出会うことはなかったが熊も出るらしい。
「狼いないな」
「魔精溜まりを探しているんじゃないの?」
「それも探しているぞ」
なだらかな丘を登り、そのまま進むとほんの三メートルほどの崖になっていた。ランタンは躊躇なくそこから飛び降りて、レティシアを手招きした。両腕を広げてレティシアを抱きとめる。
「うーん、あせくさい」
「やだっ。もう、なんて事を言うんだ。こら、放さないかっ」
ランタンはレティシアを抱きしめたまま、夏を歩いて汗ばんだ身体に顔を埋める。
羞恥に暴れるレティシアは狼羊の比ではない。ランタンは体勢を崩して押し倒された。
崖の影に入ると、気温がぐっと下がって涼しかった。
「ランタン」
「そんなに怒らないでよ」
ランタンは身体を起こし、腰の上にレティシアは跨がるように座り向かい合う。眉を吊り上げたレティシアの視線が、ランタンの背後に向けられる。
ひんやりとした風が背中を撫でる。
崖肌に洞窟めいた穴が穿たれている。
「レティの占いも馬鹿にしたもんじゃないな」
それは魔精を孕んだ風である。




