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カボチャ頭のランタン  作者: mm
12.Over The Hypernova
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「これはずいぶんと……」

 地下にあってなお明るい通路にルーの戸惑いの声が響く。

 想像していた雰囲気とは、まったく違っていたのだった。

 むわりとした熱気と押し返すような圧力さえ伴う歓声には血の臭気が混じり、それが暴力を発生源としていることを確信させる。

 だがそこには暴力につきものの、陰惨さを感じさせなかった。

 穴を降りた先は下水道そのものや、それを改造した作りをしていなかった。

 もともとそのために作られたのかもしれない。一本の長い通路には、排水を流すような溝はなく、またそういったものを埋め立てたあともなかった。馬車一台が通れるほどの道幅に、導くような光源が点々としている。

 ランタンはずんずんと進んでゆく。

 歓声は次第に巨大になり、進んだ先は大きく開けた空間だった。

 すり鉢状の窪みには、段差がぐるりぐるりと渦を巻いて階段状になっており、その段差は熱狂した人々で埋まっていた。

 汗臭い。

「いけいけっ、潰せっ!」

 男臭い。

「殺せえっ! いいぞお!」

 ランタンが眉を顰めたが、それは言葉の意味を知ったからではなかった。

 つんと鼻に来る臭気はランタンの苦手とする人の臭いを煮詰めて発酵させたような臭いだった。先程まであった血の臭いより、そういった臭いの方がここでは不思議と濃かった。

 歓声を構成する言葉の一つ一つは暴力的で残酷だが、明解だった。それは天井や壁を反響し、重なり合って、打ち消され、意味を持たぬただの叫び、いや声援へと昇華されている。

「大盛り上がりのようですわね」

 ルーが爪先立ちになりながら、呆れたように呟いた。

 ルーは警戒心を持ってやって来た。

 かつての地下道は魔窟であったと聞かされていたし、今もまだ安全ではないと聞かされていた。ランタンの安全無事はアシュレイから厳命されていたし、命令されずとも少年には幾つもの恩義があった。

 ランタンの伴をすることはむしろ心強かったが、何かがあれば自分を盾にする覚悟を持っていた。

 だがここでは、その心配は無用かもしれなかった。

 ランタンは眉を顰めたままだが、ルーにはこの雰囲気に思い当たる節があった。

 まさかこんなところでその雰囲気に出くわすとは思いもよらなかったが。

 これは、酒場のそれだ。

 探索者が好むような酒場には暴力がつきものだった。

 安い酒場では些細ないざこざから殺し合いに発展することなどざらであり、いざ揉め事が起こればそれを宥めるよりも唆すことが是とされた。殴り合いでは物足りず、殺し合いを見物に酒を呑むことは風物詩の一種だ。

 もうちょっといい店では、それが正式な出し物になっていたりもする。

 店の中に勝負の舞台があり、そこで様々な物を戦わせて、見物料を取ったり金を賭けさせたりするのだ。客の内から腕自慢を募ることもあれば、店にお抱えの武芸者がいることもあり、時には獣や、探索者から魔物を買い付けて戦わせることもある。

 なるほどそれを思い出せば、道中のランタンの言葉も理解できなくはない。

 そういった試合では、人同士、獣同士、魔物同士でだけ戦うわけではない。人と獣が戦うこともあれば、魔物と戦うこともある。戦いの舞台では人も獣も等しく一つの命だった。

「……見えない」

「肩車をして差し上げましょうか?」

「いい」

 階段状になっているとはいえ、最後尾からでは舞台を見下ろすことは難しかった。ルーもどうにか爪先立ちになって、前の人の頭と頭の隙間からそれが見えなくもないという程度だった。

 ランタンがその場で背伸びをしたり、飛び跳ねたりするのをルーはくすくす笑う。ランタンは不機嫌さを隠そうともせずに舌打ちをして、天井を見上げた。

 金属製の火台が鎖に吊らされており、大きな炎が揺らめいている。揺れる光と、火の粉や灰が細雪のようにひらひらと降っていた。

 一番下には舞台がある。

 歓声を押し退けて、戦いの音色が響いている。

 ランタンは目の前の男を今にも蹴り倒しそうな顔をしている。

 ルーはランタンを抱き上げようとしたが、思わずその手を止めた。

 ちらと見えた戦いの光景は、こんな地下に閉じ込めておくにはもったいない。

 この観客たちの盛り上がりも納得で、ひしめく観客の数はむしろ少ないのではないかと思う。

 おおお、と歓声が高まる。

 舞台では二人の戦士が戦っている。

 一人は派手な外套を纏った戦士だった。頭の先から足首あたりまで丈のある外套にすっぽりと身を隠し、両手に幅広の曲刀を握っている。外套には細かな金属板がびっしりと張り付けられていて、光を反射して油じみた虹色に輝いている。

 鱗鎧(スケイルメイル)の変種だろう。

 それは選別の二番手のガーランドに特徴に合致する。名こそ男のそれだが種族も雌雄も定かではない。それでいて選別に残っている理由がよくわかる。

 曲刀は俗に海賊刀と呼ばれる凶悪な獲物であり、その二刀を自在に振るう様は外套も相まって魚人のようでもある。水中を泳ぐ魚のような身のこなしはいっそ優雅で、相手を鈍重に見せるほどだ。

 (ひれ)のように広げた二刀が、相手へと襲いかかる。

 一つは首、もう一つは左の内股を走る大腿動脈。

「……あの男」

 一人が選別二番手ならば、もう一人が選別の一番手であることは間違いなかった。

 不敗の騎士ハーディ。

 こちらもその実、出自は定かではないが、騎士位を有している。取り潰しになった貧乏貴族の跡取りだとか、大貴族の落とし胤だとか好き勝手言われていて、本人はそれを肯定も否定もしていない。

 戦場を渡り歩く遍歴の騎士であり、地方の領主たちが開催する武芸試合に参加して不敗の伝説を残している。秀でているのは対人戦闘ばかりではない。単独にて竜種の討伐にも成功していた。

 ハーディは前に出た。受けではない。そもそも腰の獲物をそのままにしていて無手だった。

 沈墜。

 これもまた水中を動くようだった。だが対極である。

 全身を覆う水圧、抵抗。ゆったりとした動きのように思える。

 錯覚だ。

 子供の頭のようにでかい握り拳が、物が真横に落下するみたいに突き出される。

 鱗が弾け飛んだ。ガーランドの胸骨を拳が打って、小銭をばらまいたみたいに舞台上に金属片が散らばった。

 熱狂。

 ハーディも無傷ではない。海賊刀は液体に覆われている。ガーランドの魔道か、それとも魔剣の類いか。海賊刀は水を纏って刃を伸ばした。浅く裂けた肌から血が滲む。

 受け身も取れず地面を転がり、ハーディはそれを追いかけた。

 大男だ。類い希なる体躯をしている。鍛え上げられたそれは、皮肉にも巨人を思わせる。

 濃い茶金の髪を短く刈り込んで、口元を髭で覆っている。

 ガーランドが辛うじて反応する。肩を支点に体勢を作り、両足が軟体動物のように間合いに踏み込んだハーディの出足に絡みついた。

 脚関節。

 組み付くガーランドがいやに小さく見える。

 足首と膝を同時に挫くはずのそれは、しかし震脚によって踏み抜かれる。

 内から爆ぜた。

 そう幻視した。

「ランタンさま、予想の通りですわ。一番手のハーディ。二番手もおりますが、ちょっと桁が違いますわよ」

 未だその姿を見ることは叶わないが、ルーがそう言うのならばそうなのだろう。二番手が弱いわけでもあるまい。仮にも巨人と戦うに相応しいと認められた実力者なのだから。

 ただハーディという男が強すぎると言うだけで。

 すっかり大人しくなったランタンに、ルーがどうにか舞台上から視線を引き剥がして目を向ける。

 ランタンは口元に苦みのある笑みを浮かべていた。

「どうか、されたのですか?」

「自分の愚かしさが今さらながら笑える。一生懸命にしてるのは知ってるけど、それでもあの子を積極的に死地に送り出す手助けをするなんて。ルーのお墨付きがつくような奴に挑んでまでね」

 ランタンはそう言って、向こうを見るためではなく、準備運動のような背伸びをした。

「でも、しかたがないね」

 諦めのような口調に、ルーの瞳が童女のように潤んだ。単純な嫉妬。ランタンにそう言わせる、リリオンに対する羨ましさだったかもしれない。

「僕は勝てそう?」

 もちろん、と言いそうになってルーは言葉を飲み込む。ランタンの強さを知っていたが、ほんの少し見ただけでハーディの推し量ることのできない強さを実感した。

 あれはランタンに似た資質を有している。

 戦いによって花開く、見る者を嫌が応にも引き寄せる英雄の資質。

 ランタンは気を悪くしたふうでもなく、むしろ血が沸くように笑みを深める。

「じゃあ行って確かめてこようかな」

「ですが、もう今の勝負にも決着が――」

「それ、僕に関係ある?」

 生意気な口ぶりは頼もしい。目の端でルーに笑いかけ、ランタンは重力を無視するように軽やかに跳び上がる。

 そして。

「――あ?」

 さんざんランタンの視線を遮った男の頭頂に飛び乗ると、降り始めの雨粒に気付いたような一声を踏み潰し、大きく跳躍した。

「ランタンさま」

 ルーは咄嗟に人混みを掻き分ける。

「ちょっと、おどきになってくださいまし!」

 押し退けるように階段を下る。

 自分が舞台に上がることはないだろう。

 だが是非とも近くで見たい。

 彼らの戦いの、その全てを。




 ここはきっとそういう場所なのだろう。

 迷宮に探索者が引き寄せられるように、強者が引き寄せられる。一種の呪いか祝福か、求めたものにのみ扉は開かれる。

 技を比べ、力を比べ、暴力によって彼我の上下を決定する場所。

 古くからそういう場所として(あつら)えられ、今日まで命脈を保ってきたに違いない。

 十三段。

 それが階段の段数だった。

 ひしめいているのは男も女も種族もさまざまだが、ただの観客ではなく誰もが舞台に上がるに相応しい実力を秘めている。

 そういった者たちですら段上に押し止める光景を舞台上の二人は見せていたのだ。

 彼らは頭上を落下してゆくランタンに気が付かない。

 舞台の上に釘付けだからだ。

 決着がつきそうだった。あるいはもうすでに決着しているのかもしれない。

 舞台上には格子模様の溝堀がしてあり、それは流れた血を外に逃がすためのものだった。

 そこには血の染みがあり、何度も塗り重ねられた漆のような艶がある。今もまた新しい血が流れ、赤は鮮やかだった。

 そこを踏み締めるのはただ一人だ。

 ハーディは片手でガーランドを吊している。

 これが選別の一番手。

 ランタンは瞠目する。

 太い指が鎖のようにガーランドの首を絞め、親指と中指の先が項の所で重なっていた。

 ガーランドとて小兵ではない。だが爪先は舞台から充分な距離を空けて浮き、力無く揺れている。

 目深にかぶった頭巾の下で半開きになった口元から絞り出されるような苦悶が漏れ、求める酸素は一呼吸も入ってこない。ハーディの手に必死で爪を立てるが、むしろその爪が剥がれそうだった。

 ぞわっと産毛が逆立った。

 肌でそうと感じ取れる相手は少ない。

 こいつ、本当に強い。

 ランタンにいち早く気が付いたのはハーディだった。

 頭上に燃える炎の、その欠片でも降ってきたかというふうにちらりと視線を向ける。

 冷酷そうな灰色の瞳だが、目尻に深い笑い皺がある。口元を覆う似合わぬ髭は、年若いのを隠しているのかもしれない。よくわかる。暴力を生業として、童顔に見られて得をすることなどあまりない。

 灰の瞳が鋭く絞られ、だがふと緩む。

 ランタンは火の粉のように舞った。

 中空でくるりと身体を回転させ、踵がガーランドを捕まえる手元に振り下ろされる。

 すっと腕が引かれた。その場に取り残されたガーランドの身体が落下して、ベしゃんと潰れた。がらがら声の咳き込みに、喘ぐような呼吸が痛い。

 おおお、と盛り上がっていた歓声が、困惑を孕んだ響めきに変わり、決着に水を差された事への不満へ急速に音色を変えてゆく。

 ハーディの視線が歪んだ。

 困惑の色が強い。こちらまで風圧が届きそうな、大きな溜め息。

「まったく、これは困ったな。少年、どこからきた? ここはお前のような子供の来るところではないよ」

 柔らかな言葉遣い。迷い込んだ子供への気遣いが感じ取れた。

「いや、ここにこそ僕は来るべきだった」

「なに?」

 音もなく舞台に降り立ったランタンは、ややうつむきがちで影に表情を隠している。それはいっそ人ならざるもののようだ。ハーディが興味深くランタンを見つめた。

「……が、き。まだ……」

 足元でガーランドが呻く。結果として助けられたことよりも邪魔されたことに怒りをおぼえるように、ランタンの細い足首を掴む。

 潮の匂い。戦闘靴(ブーツ)越しに水の冷たさを感じる。ランタンはうつむいた視線をそのままガーランドに落とし込み、触れる指先から足を引き剥がし、その場にすとんとしゃがんだ。

 影に隠された顔を覗き込む。

「邪魔してごめんね。でも、邪魔だからどいてね。――おねえさん」

 子猫でも拾うみたいに襟首を掴み、そのまま持ち上げた。ハーディと違いランタンの身長では脛を引きずる。

「なっ……!」

 いつの間にか最前列を確保しているルーに向かって放り投げた。ランタンはすでにガーランドへの視線を切っており、ようやくハーディに真っ直ぐ視線を向けた。

「さあ、やろうか?」

 なにかまともな存在ではない、と言うことにハーディは気が付いたようだった。

 しかしまだ困惑が勝っている。

「やるもなにも、ここは遊び場じゃあないんだ。お前とやる理由がない。子供を叩きのめしたとてな」

 太い指が頭を掻いた。

「理由ね、あんたは何のために戦っているの?」

「名を上げる以外に理由が必要か?」

 愚問、というように答える。

「天下に、己の存在を知らしめたい。数多ある内の一つではなく。ただ一つ、ただ唯一の存在になりたい」

「それが巨人と()る理由?」

「……おや、なるほど、それを知っているとは関係者だったか。ああ、そうとも。男子たるもの英雄への憧れは捨てられん。ただ強く、最も強くありたい。ふ、ふっふっふっ、古今東西、竜種を圧した英雄は数えるほどいる。だが、いくら竜種を討伐しようとも竜殺しの名はエドガー老のものだろう。知っているか? ああ、お前のような子供ですら知っている。何度かお目にしたことがある。いくら老いようとも、やがて墓標が苔生そうとも、きっとそれは変わらんよ。ならばすでに色づいた竜殺しよりも、巨人殺しの名こそ俺に相応しい」

「なるほど、わかった。なら、なおさら僕とやるべきだよ」

「子供殺しの名などいらんぞ」

「そう?」

 身の丈は胸まで届くかどうか。子供子供と言い切って、それが誤りだとハーディは思っていない。己を見つめる焦茶の瞳が、緩やかに色を変えて炎色を帯びる。周囲の景色が陽炎に揺らめき、ちりちりと髭の先が丸まってゆく。

 ハーディの視線が、ランタンの瞳に固定される。

 会話は二者間のものに過ぎないのに、どういう訳か不満を吐いていた観客たちが静まりかえってゆく。

「逃げるのか。この僕から」

 ランタンの口元に性格の悪い笑みが浮く。

 静寂満ちる空間に、ランタンの言葉は一言一句濁らずに浸透してゆく。

「子供から逃げ出した英雄と呼ばれるぐらいなら、相手を区別せずに勝負を受けるって方が後々のためになると思うよ。まあ、多少は大人気ないって言われるかもしれないけど」

 もうハーディはランタンの言葉を聞いていなかった。

「その髪色、その目の色。子供、――お前がランタンか。ティルナバンの英雄。単独探索者、黒髪の太陽、幼形の微熱」

「なにそれ、かっこわる」

「ならば相手にとって不足なし!」

「なら、それを抜けよ」

 ランタンは腰に吊られたままの剣を指差す。

「抜かせてみよ! さあ勝負、勝負!」

 歓声、困惑、不満、そして静寂。

 静まりかえっていた観客が、ハーディの気分の高まりと同調するみたいにして一気に熱を帯びた。

 もう血を見ずには納得しないだろう。

 誰も彼も。

 ぴりりと頬が痺れる。

 笑みが深まる。




 相手が剣を抜かないからか、ランタンも戦鎚を抜かなかった。

 間合いは倍ほども違う。

 それは悪手であるに違いない。

 出足の右をハーディが上から踏み潰そうとする。重心を一気に小指側に振り、仕掛けられた罠のように拳がすぐそこにある、裏拳。頭上を巨大な岩石が通り過ぎていった錯覚。

 相手の拳はこちらの頭に届くのに、こちらの拳はせいぜい上腕の半ばまでだった。

 狙いを肘に。

 ランタンの拳とハーディの肘が打ち合って、およそ人体が衝突したとは思えぬ歪な音が響く。ランタンは咄嗟に手を開く。中指の反応が悪い。ハーディは折り畳んだ肘を伸ばし、再びの裏拳がランタンの前髪を揺らした。

 拳が開く。

 視界が完全に塞がれて、ランタンは咄嗟に腕を交差させる。真正面から飛んできた膝蹴りは、巨大な生き物に衝突されたようだった。ランタンは後ろに飛んで衝撃を逃がす。それでも骨身がじんじんとする。

 追撃が早く、容赦がない。

 着地際を狙っていた。

 いや。

 下段蹴りが、掬い上げられ側頭狙いに変化する。

 燕のようにランタンが身を翻した。一呼吸の間に一気に右後方まで回り込む。蹴り足の勢いのまま追いかけてハーディが旋転するが、ランタンには追いつけない。

 背骨を狙おうとして、不穏な気配を察知する。

 ランタンはそのまま着地し軸足を蹴り払った。膝に横方向の圧力がかかり、ぐ、と痛みの声。ランタンはその場を脱する。影が破砕される。胴回し回転蹴りだった。

 一歩退いたランタンは、破砕音が失せるより早く二歩前に出る。上体を起こしただけのハーディの顎に膝を入れ、その膝を支点に爪先が振り子に(しな)る。

「ふっ!」

 爪先が胸骨に刺さり、しかしランタンは顔を歪めた。全身に力を込めてハーディの肉体は一個の鋼のようである。戦闘靴に覆われた爪先がじんと痛んだ。

 足首を掴まれ、そのまま引き寄せられる。

「軽い軽いっ!」

 ハーディはすくりと立ち上がり、ランタンは濡れ布のように振り回される。

 視界が溶ける。血液の全てが頭へと殺到して、ひどい頭痛に目が眩む。

 叩き付けられる。

 その瞬間、ランタンは逆立ちするようにして破壊を逃れる。肘と肩を使って勢いを殺し、どういう握力しているのかランタンの十指が舞台に食い込む。

「むんっ!」

 気合い一声、掴まれた足首を無理矢理に引き抜き、捻って身体を起こすと同時に握り込んだ舞台の破片を投げ付けた。

「破っ!」

 震脚一発。跳ね返った勁力を全身から発散させる。触れるか触れまいか。破片の一切合切が破砕された。先程、背骨を狙えばこうなっていたのはランタンだった。

 ランタンは地を這う蛇のようにハーディに迫る。

 重心は落ちきっている。

 肩を使って脛を狩り、後ろに押し倒して両臑を腋の下に抱えた。ランタンは回転する。

 力任せに二回転。それだけで最高速に達し、ハーディは顔を赤くし鼻から血を流した。

 そしてそのまま乱雑に投げ捨てた。

 それが技であればまた別だっただろう。

 回転軸の定まらぬ乱雑な投げは巨体を空中で錐もみ回転させ、辛うじて間に合った受け身はしかし次の行動を確実に一歩遅らせた。

 ランタンが腰を横に切る。

 踏み込みが陰部を潰さなかったのは偶然に過ぎず、深くに踏み込まれた少年の身体は半身になった。

 崩。

 撞木で鐘を衝くような撞掌がまともに直撃した。掌に鼻が潰され、虎爪の指先に目を抉る。ハーディは後方に転がりながら吹き飛んで、残心するランタンの掌から血が流れた。

 手首に近いところを噛み切られている。

 拳。

 いや違う。拳大の石塊がランタンに向かってきた。転がりながら舞台を毟り取り、そして正確に投擲したのだ。追撃を牽制する一撃を躱し、後方の観客が悲鳴を上げるがそれもまた歓声に飲み込まれる。

 肉片を吐きながらハーディが立ち上がる。髭が鼻血にしとどに濡れて、充血した目を見開いて太く熱っぽい息を吐く。

 潰れた鼻をばきりと立て直し、上着の裾で血を拭った。

「強い! まさかこれほどとは!」

 その必要もないだろうに、あたりに知らしめるように大きな声でそう言った。

 歓声がますます熱を帯びる。

 ハーディは捲り上げた裾をそのまま上に、上半身を裸になった。晒された肉体は余すところなく鍛え上げられている。抓めるほどの脂肪もない。汗に光り、闘気のように湯気が立っている。

 まだ若い肉体だった。ランタンほどではないが、二十かそこらに見える。

 なるほど髭も似合わぬわけだ。

「じゃあ抜けよ」

 ランタンは言いながら身体の様子を確かめる。痛めた中指、足首。その肉体に触れるほどに自分の身体が傷つくようだった。鋼の肉体とはまさにこの事だろう。

「はっはっはっ、それはお前もだろう」

 互いに腰の獲物に視線を向けて、ふんと鼻を鳴らした。

「男子たるもの我慢比べに負けてはな。しかもこんな子供相手に」

 視界が遮られる。

 血の染みた上着が投げ付けられ、隠しようもないその巨体の在処をランタンは完全に失った。

 英雄を目指す子供じみた思想と裏腹に、その戦型は愚直ではない。

 回り込みを警戒して一瞬、意識が左右に振れる。

 撞掌だった。

 やり返された。ランタンは胸を強くたれ、しかし後ろに踏鞴を踏む程度。しかしそのせいで距離を取れない。血濡れの上着か身体に絡みつき、ランタンの行動を制限する。

 踏み留まるか後ろに転げるか。思考の決着よりも早く、追い打ちの肘が顎先を掠め、股ぐら深くに踏み込んだハーディが半身になって、崖肌のような大きな背中がそのままランタンを弾き飛ばした。

 破壊が上着を引き千切り、衝撃はランタンの肉の内に浸透し、だが幼子のような柔らかい肉に勁力が呑まれる。それでも血が沸く。

 ランタンはその背中をぐるりと乗り越えて場所を入れ替える。身の内を透った相手の力をむしろ己のものに転じて、刈り取るような上段蹴りを放つ。踏み込んであえて側頭に受け、ランタンを後ろに倒してハーディは体重を浴びせる。

 ランタンは三角に座るように両足を揃え、その重さを足裏に受け止める。

「ぐえ」

 でぶ。

 むしろ自分の膝が鳩尾にめり込み、ランタンは心の内で悪態を吐きながら一生懸命足を伸ばしてそれを背後に蹴り投げる。

 立ち上がって振り返る。ハーディはすでに眼前にあり、一呼吸の間に四つの打撃が繰り出されて、それはどれも必殺になりうる。

 ランタンは受けに徹した。

 観客が足を踏み鳴らし、どんどんと場を盛り上げる。

 ハーディの圧が上がる。

 これが次代の竜殺し。

 まさに英雄の資質という他ない。

 声援、応援、歓声、喝采、賞賛。

 そこにある声を己のものと思って疑わない傲慢さと、それによって激しく活性化する肉体の魔精。

 ランタンは高速の諸手突きを十字に切り落とし、互いに身体を開いた二人は前のめりになって、額を打ち付け合う。

 ぱっと互いの額が裂けて血が噴いた。

 血が混じり合い、飛沫となった。丸い粒の一粒一粒が、霞となった小さなそれまでもが鮮明に、落下の速度が緩やかになるほど神経が研ぎ澄まされる。

 その向こうで牙剥くハーディの好戦的な表情まで。

 ほんの小さな粒の一つが揺れた。ぽこんと孕んだ泡を表面に浮かせ、爆ぜたかと思うとそれは血飛沫の全てとなって血色の炎が二人の間に広がった。

 一縷の動揺もなくハーディが踏み込む。

 炎が肌を撫でて、それは鉄の上を滑るようだ。

 ランタンは戦鎚に手を掛ける。

「ふっ、ようやくっ!」

「僕の、方がっ、一瞬遅、かった!」

 抜き放たれたそれぞれの獲物がぶつかり合って、白い火花が炎よりも明るく光った。

「へらず、ぐち、をっ! 魔道を、使ったくせにっ!」

「無自覚、やろうっ!」

 ぎりぎりと軋むような音を間に挟み、二人は意地を押しつけ合うように斬り結ぶ。


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