261
261
ティルナバンには戦争から帰還する探索者たちが到着しつつあった。
帰還の第一団はというと戦争には向かったものの、結局戦地に辿り着く前に戦いの終わりを見た者たちであった。
戦いの終わりはあの天を染めた光である。
彼らの帰還はひっそりとしたものだった。
戦争への参加は並々ならぬ決意のもとに行われたのである。踏ん切りがつくのが多少遅かったが、その葛藤を乗り越えての決断であった。
街に残す肉親に、友に、女にどのような別れの言葉を告げたのか。
別れ際に涙の一粒ぐらいは流したかもしれないし、戻ったあかつきには夫婦になろうと宝石の一つでも渡したかもしれない。
大げさな別れを告げた探索者はかなり気まずい思いをしたようだった。
しかし何にせよ、無事を祈った者たちにとって彼らの帰還は喜ばしいものである。
帰ってこられない者も、それはそれは多いのだから。
ぽつり、ぽつりと戦争に参加した探索者たちも、やがて街に姿を現すようになった。
彼らは一様に疲弊しており、陰を背負ったその姿は戦いの苛烈さを人々に思い知らしめた。
その身体を血泥に汚し、目は落ちくぼみ頬は痩ける。傷は癒えておらず、血を滴らせるだけならまだよくて、蛆が湧いたり、失ったりしている者たちもいた。
だが彼らは、人前に姿を現すことが出来る。それは幸運に違いなかった。
かの尋常ならざる戦いの様子は恐れを持って伝えられた。
人と人が群となってぶつかり合う戦話は、聞くものを興奮させるよりもむしろやるせなくさせた。
伯爵領の領民たちの変わり果てた姿のことを聞くと、人々は彼らのことをむしろ哀れんだ。
それは探索者たちの語り口が、敵を侮蔑したり、罵倒したりするようなものではなかったからかもしれない。
常に武勇を誇る彼らも、この戦いに限っては言葉を選んだ。
戦いの中で、殺し合いながら彼らは意識を共有しあった。
それは憎悪を増幅させるために伯爵が仕掛けた策略であり、事実、それにより戦いは泥沼と化した。
強く、もっと強く、憎い敵を殺すために。
呪いによって姿を変えられるような、五体を殺戮に適応させながらの戦いだった。
だが戦いの後に残ったものは憎悪ではなかった。
彼我の区別も曖昧になって、肥大化した憎悪の影にひっそりと取り残された自我とは一体どのようなものだったのか。
探索者たちはまた一人、また一人と帰ってきた。
彼らは一様にその姿を隠し、人目を避けるようにして帰ってきた。
身体に巻き付けた布は決して怪我を隠すためものではなく、その肉体に現れた変化を隠すためのものだった。
戦いの中心に近かった者たちほど、変化は大きい。
そしてそういった者たちはティルナバンの近くまで戻っても、街の中に入ることが出来なかった。
やれ化け物だと追い返されたわけではない。
あまりに変わってしまった自分の姿を、人に見せるのが恐ろしいのだ。
街の人たちが伯爵領民たちの様子を哀れんでいるという噂は、自然発生的なものだったが、帰還を促すために意図的に広められている。噂ばかりではなく、帰ってくるようにと大々的に報せも出していた。
だと言うのにあと一歩踏み出す勇気を持てずにいるようだった。
中には肥大化した自らの角を切り落としたり、肌を覆う鱗を自ら剥がしたりするものもいるらしい。
ティルナバンに竜種の一団が近付いてくる。
それらの竜種の影もまた歪ならば、地上に落ちるその影の中にすっぽりと隠れるように密集している集団もまた異形であった。
彼らもまた戦いに参加した者たちだった。
竜種たちは探し物をするように四方に散って、時折、獲物を捕らえるように急降下した。
まさに狩りそのものであった。その先には帰るに帰れない探索者がいて、説得は面倒とばかりに鉤爪に捕まえると集団の中に連れ去った。
薄く切れ切れになる雲の下、竜種に跨がるレティシアがいる。
「レティシアさま! どうしますか!?」
「まだ探せ! 一人でも多く連れて帰る! 頼めるか!」
「はい!」
降った雨を逃れるために、昨日は高度を上げて雲の上にいたのでしっかり着込んだ防寒着が未だに凍り付いており、帽子の中に詰め込み損ねた髪が一筋、顔を動かした拍子に砕けた。
雨のせいで未帰還兵の捜索は捗らなかった。見落としはきっと多くあっただろう。戦の臭いも流され、竜種の鼻をもってしても全てを探しきれない。
一人でも多く。
眼下には人の群。
それらへの責任というものをレティシアは感じていた。
半分以上は探索者で、彼らは自由意思でもって戦いに参加した者たちだった。
だがそれでもレティシアが貴族であるかぎり彼らへの責任を放棄することはできない。そして自らの臣下である騎士たちは言うまでもない。
吐き出した息は白く、呼気に含まれた水分は微細な氷の粒になって唇の端に張り付いた。レティシアは乱暴にそれを拭う。帽子の下に指を入れて、がりがりと生え際を掻いた。
「ああ……」
思わず声が漏れるほど気持ちがいい。手袋の指先の縫い目が爪の役割をした。指を引き抜くと、手袋の指先が汚れている。
レティシアは顔を顰めて、自らの肩口に顔を近づけて臭いを嗅いだ。
鼻が馬鹿になっていて臭いもへったくれもあったものではないが、鼻腔に滑り込んでくる空気はざらついているような気がした。
こんなことなら兄ファビアンが試験的に運用している竜種牽引の飛行船を借りてくればよかった。あれならば身体を清めるための空間が確保されている。
このような時でさえ、そのようなことを考えるのが少し不思議な気がした。
貴族というものに雌雄はない。だがこの思考は女のそれだろう。ティルナバンが近付くほどに、自らが責任を持たなければならない彼らのことよりも、自分のことが気になってしまう。
この不安が、彼らを街から遠ざけるのだ。
レティシアは再び帽子の下に指を突っ込んだ。そして身体を揺らす。鞍に尻の収まりが悪く、尾骨の辺りに嫌な痺れがある。
もぞもぞと動く主人が気に入らないのか騎竜のカーリーが抗議の声を上げた。
レティシアは宥めるように首元を叩いてやり、見事な巻き毛の鬣を指で梳かすが、所々で絡まっており指が引っ掛かってしまった。
カーリーが顎を上げると、鋭い角の先が自らの首に突き刺さりそうになった。鱗を弾いて金属的な音を立て、むずがるように首を振った。
まだ慣れぬ己の身体に苦慮するようだった。
「大丈夫、直に慣れるさ」
それは自分に言い聞かせるようでもある。
ティルナバンの周囲では冬の支度が始まっている。
田畑に冬小麦の種を撒くのはもう少し後のことで、伯爵領からの輸入に頼っていたぶんの作物を賄うため少しでも収穫を増やすために畑の開墾を行っている。
農民の手だけでは到底、間に合わないので兵も駆り出されていた。
伯爵領の崩壊はさまざまな影響を及ぼすが、最も大きな影響は食糧供給だった。
それは命に直結する。ティルナバンの新領主となったアシュレイもさまざまな手を打っているようだが、はたして間に合うだろうか。
あれから集団に加わった探索者は三十に満たない。
ティルナバン近くの竜場はもうすでに見えており、レティシアはしばらく黙考した後、騎士たちに命令を出した。
「最後、もう一度見回って、そして彼らを先導してくれ。恐れるものは尻を叩け! 首に縄をかけても連れて帰る! ――私は、一足先に下に降りる!」
最低限の数を残して竜種が八方へ散った。
レティシアは口元を覆った。
カーリーはきゅるりと甲高く一声鳴いて、翼を二度三度と羽ばたかせる。内臓が背中側に片寄るような加速を受けて、レティシアは首に抱きつくように身を伏せた。
翼の先から航跡を示すような白い筋が伸び、真っ直ぐに竜場へと向かってゆく。
ランタンたちは朝早くから竜場を訪れていた。
理由はいくつかあったが最大の理由は人目に付きづらいからだった。
ローサは初めて屋敷の外に出られることに興奮と、そして不満を憶えているようだった。
初めての外は期待でいっぱいだった。おめかしもして、最後の仕上げに結んだ腕輪は妖毛を紡いだ糸を編んだものだった。
それまでローサの機嫌はとてもよかった。
だが今はむくれている。
朝も早いし家畜運搬用の幌付きの荷台は確かに座り心地はよくないし、嫌な臭いもするが、その事はどうでもよい。
「ローサががらがらしたかった!」
ローサの身体を背もたれにして半分眠るランタンに、少女はぶうぶうと頬を膨らませて指を差す。その先には二頭の輓馬がいて、首なり太股なりに網のような血管を浮き上がらせながら荷台を牽いている。
ローサはそれが羨ましいのだ。
もし輓馬が人語を介するならば、できることなら代わりたいと思っていたのかもしれない。ローサが荷台に上がった瞬間、車体は明確に沈み込んだ。
しかしローサの不満はそれほど長くは続かなかった。
リリオンとほっぺたをくっつけて、幌の隙間から街並みを覗くと口を半分開けて呆然とした。
夢の中の出来事を現実に見つけたみたいだった。
あれはなに、これはなに、とリリオンに尋ねるが、リリオンが答える前に建物は後ろに流れてしまう。
隙間に顔を突っ込もうとしてリリオンに止められ、ランタンは助けを求めるリリオンの視線を笑って無視する。
ティルナバンを出て、街道を走るとさすがに路面はでこぼこしている。荷台が揺れる度にローサのお気に入りである鈴入りの鞠が鞄の中でりんりんと音を立てた。
幌を外すと今度はランタンが不満を漏らす。
「さむい」
臭いがなくなるのはありがたかったが、吹きさらしではいずれ凍り付いてしまいそうだった。空の上はさぞ大変だろうとレティシアを思う。
「もーしょうがないわね」
ローサの尻の近くにもたれ掛かっていたランタンを、リリオンは人形を引き寄せるみたいに手繰るとあっという間に胸の中に抱き込んでしまった。長い自分の髪を、マフラーみたいにランタンの首に巻き付ける。
ランタンはちょっとだけ、怖い、と思った。何か悪さをしたら首を絞められそうな気がする。
「ローサは寒くない?」
「ローサへいき!」
「子供は風の子だからな」
リリオンの胸を背もたれに、ランタンは大きな欠伸をする。
リリオンの胸を背もたれにするランタンにローサは寄り掛かって、後ろに流れる吐き出した息の白さを振り返る。
「あれ、まち?」
「そう、ティルナバン。僕らが暮らしているところ」
「これ、ぜんぶおそと?」
「そう」
「おにわとはべつ?」
「べつ」
「ひろーい!」
冬の街道は全体的に色褪せている。草は枯れて、所々に辛うじて残っている緑はむしろ哀れな感じがした。
ひょこひょこと歩いている鳥の群があり、すっかり姿を消してしまった虫でも探しているのかと思ったら、枯れ草を咥えて一斉に飛び立った。冬越えの巣の材料なのかもしれない。
「立たない」
鳥の行く先を追って立ち上がったローサを座らせる。
転んで危ないと言うだけではなく、これだけの質量が荷台で歩くと馬車自体が横転する危険性があった。
「むー」
「睨むな」
「ふぎゃ」
皺の寄った鼻を抓むと、ローサは情けない声を上げて涙目になった。不満を表すように投げだしたランタンの脚の上に身体を横たえる。
「……おそとはどこまでひろいの?」
「どこまでだろうね。僕あんまり外に出ないからな。リリオンお願い」
「え、わたし? うーん、どれぐらい広いのかしらね。もういやになっちゃうぐらい。ずーっと向こうまで、見えないところまで続いているのよ」
「わかんない」
困り顔のローサにリリオンは苦笑した。
ランタンは少女の髪の中に顔を埋める。紡いだ糸よりも綺麗な髪だ。外を旅すると、この綺麗な髪がぼろぼろの蜘蛛の糸みたいになるほど、世界は広い。
馬車が進むとローサが唸り声を上げた。ぐったりとして縁に顎を乗せる。
乗り物酔いだった。
「大丈夫か?」
「うー、くらくらすゆ」
「遠くを見な。あっちの、ほらあの木がいっぱいあるところ。あそこに着いたら降りられるから」
ランタンは冷えた自分の手をローサの額に当ててやり、リリオンはその背中を優しく撫でる。
酔いの原因は揺れだけではなかった。悪臭があった。
荷台に染みついた家畜の臭いではない。
どこからともなく漂ってくるそれは戦場の臭いだった。
鉄と血の臭い、腐った傷口の臭い。多くの人々の臭いが風に乗って漂ってきていた。
ランタンの鼻にも感じる。あの時のリリオンもこんな臭いだったような気がする。これよりも、もう少しぐらいはましだったが。
「げえ――……」
結局、ローサは竜場に辿り着く直前に嘔吐してしまった。
しかしこういうものは一度吐いてしまえばすっきりする。
「ぐちゅぐちゅぺしなさい」
「ぺえ」
「もう一度」
「ぺー」
常緑の木々に囲まれ、中央には水場がある。
竜種の発着場である竜場は気分を落ち着けるにはもってこいの場所だった。
竜場に繋がれている竜種の数は少なかった。情報のやり取りが激しく行われている証明だった。
荷台から降りたローサは多少よたよたしたが、それはいつものことだった。
頬は少しばかり青みを帯びていたが、寝込んでしまうほどではない。ランタンはローサの口の中に飴を放り込んでやった。
辺りをきょろきょろして、水場に駆け寄ると水面を覗き込む。
「れちーは?」
「到着してたとしてもそこにはいない。いないよね?」
「いないわよ」
言いながら二人は水面を覗き込んだ。
前に訪れた時は餌の牙蛙がうようよしていたが、不思議とその姿は少ない。だが水底にじっと身を潜めている魚影を確認できる。ランタンの視線に気が付いたのか、それははっと身を翻して泥を巻き上げた。
「あ」
ローサが水場の縁を追いかけるように移動する。二人は落っこちないかはらはらしながらその後ろを付いていった。
「いたっ」
水面の反射が風が吹く度に失われて、水底が露わになる。見つけた魚影は先程のやつとは別だろうがローサには関係がない。
「レティ、まだ到着しないのね」
「手紙といっしょに出発したらしいけど、みんなと一緒に帰ってくるんだって。竜種、馬、それに徒歩もいるからな、しかも怪我人」
「レティのお家から?」
「レティはね。歩きの大半は伯爵領。だから距離は半分ぐらいか?」
リリオンは不思議そうな顔をした。
子供、リリオンの足で歩いた距離は、ランタンが迷宮で歩いた距離に匹敵するかもしれない。迷宮ならば基本は一本道で迷うことはない。だがリリオンの道程はきっと大変なものだっただろう。
半分の距離でも七日では到底、辿り着けない。
「ランタン」
「なに?」
「背中に乗ってあげて、そのほうが安定するから」
ランタンは肩を竦める。
「ローサ、乗るぞー」
乗ってからそう言った。
「きゃーっ! あははっ!」
ローサは歓声を上げて走り出そうとする。
リリオンはすっとローサと手を繋いだ。ローサは自然と歩みを緩める。見つめ合った二人が途端に笑い合う様子は、顔の作りは似ていないのに姉妹のようだった。
虎の耳がひょこひょこと動いている。ランタンは背骨をなぞるように身体を撫でた。火傷痕はまだ残っている。赤くなっていたり、皮膚が突っ張っていたりする。だがもう痛みはないようだった。
そのまま水場を三周もして、魚影は水底に沈んだままだった。
せっかく竜場に来たのに魚に興味を示さなくても、と思わなくもないが屋敷でも竜種を繋いでいるのでそれらは珍しくはないのだろう。
だが竜種はまだ少し怖いみたいで、ローサは繋がれている竜種を遠巻きに見つめるだけだった。
ぐう、と少女のどちらかの腹が鳴った。
出発の前にはスープと果物をつまんだだけだったので、持たされた弁当を食べる。
竜場の独特の臭いにランタンはあまり食欲が湧かなかった。ローサは乗り物酔いなどすっかり治ってしまい、ランタンが残した分をリリオンと半分こにしていた。
ランタンは食べこぼしのパン屑を丸めて水場に放り込む。それはしばらく浮かんでいて、忘れた頃に魚が食べに上がってきた。
ぱしゃん、と水音がした時にはもうパン屑はなく、ローサは広がる波紋しか見ることができない。地団駄を踏んで泣いたが、魚には少女が泣いていようと関係がない。
レティシアは昼を過ぎても到着しなかった。
リリオンとローサは鞠で遊んでいる。
その内、水場に落としそうだなとランタンは思う。
ほら、案の定。
指先に縫い目が引っ掛かったのかローサがあらぬ方に鞠を投げ、鞠に仕込まれた鈴が断末魔のようにりんと鳴った。
「あーっ!」
ローサが悲鳴を上げた。リリオンが鞠を追おうとするが、さすがに水場に飛び込む勇気はないらしい。
ランタンは立ち上がった。爆発を使えば追いつけるだろうし、水面を蹴って戻ってくることもできる。だが水中の生物は衝撃で全滅してしまうかもしれない。
頭上から風が吹き込んだ。
木々に囲まれた竜場は、中心にある水場の所だけ空が抜けている。
そこから突風が吹き込んで、水面をすり鉢状にへこませた。風に吹かれて、鞠が弾き飛ばされる。地面を転がって、一回転ごとにりんりんと喧しい。
赤い竜種の大きな羽ばたきは急降下の速度を殺して、水面を白く波立たせた。
ランタンは目を細める。
あの角はあれほど大きく鋭かっただろうか。赤い巻き毛はあれほどくるくるしていただろうか。そもそも一回りも大きくなっているような気もするが、竜種の成長速度はよく知らないのでそんなこともあるのかもしれない。
それはレティシアの騎竜であるカーリーだった。
そしてもちろんその背にはレティシアが乗っている。
防寒着ですっぽりと身を包んでおり、目だけが露出している。意志の強そうな鋭い形と、美しい緑玉の瞳を見間違えることはない。
「レティ!」
歓声を上げたのはリリオンだった。ぴょんと跳び上がって両手を万歳させる。そちらを見た緑の瞳が少し緩む。
レティシアはもたもたとカーリーから降りた。長旅で足腰に力が入らないのかもしれない。ランタンが支えようとしに近付こうとすると、少しだけびくりとするような動きを見せた。
「レティ?」
ランタンは立ち止まり小首を傾げる。こちらに向けられた手袋の掌には、長く手綱を握っていたのだろう擦れた跡がこびり付いていた。何度か指がにぎにぎと動く。
レティシアは口元の覆いを下げた。
腕で唇を拭って、言葉を探した。
「おかえり、レティ」
言葉を探し終えるより先に、ランタンがレティシアに言った。
一つ息を飲む。
「――ただいま、ランタン、リリオン。急いできたんだが、待たせてしまったか?」
言いながら手袋を外す。外した手袋を腰のベルトに挟み込んだ。
「待ってたには待ってたけど、待たされてはいないかな」
一歩近付くと、レティシアは半歩離れた。
「どうしたの、レティ?」
「いや、――ちょっと臭うかもしれないから」
「そう? 気にしなくはないけど。我慢するよ」
ランタンは冗談めかして言った。レティシアは少し笑って、視線をランタンの向こう側へとやった。
ランタンが振り返ると、鞠を追いかけていったローサの巨大な尻が見えた。命拾いした鞠を大事そうに拾い上げて、ほっと一息吐いているところだった。尻尾の動きで感情が見える。
「ローサ、レティが来たわよー!」
リリオンがぶんぶんと手を振って呼びかけると、ローサは一度背筋と尻尾を伸ばして、それからゆっくりと身体を翻した。
丸い目が何度かぱちぱちと瞬く。そのまま目を丸々させながらローサは忍び歩きに似て、ゆっくりと近付いてきた。
ランタンが近付いた時とは違って、レティシアは逃げなかった。
「ああ、はじめまして、でいいのか? あの時はローサは眠っていたからな」
ローサは警戒心丸出しの足取りでレティシアの周囲をぐるりと回った。すんすんと鼻を動かして、肌が触れ合うような距離に顔を近付ける。
「れち?」
「れ、れち? なんだ、れちって」
レティシアは困惑しているみたいだった。
リリオンがころころ笑いながら頷く。
「そう、レティよ」
ローサはレティシアの正面にねこのように座って、顔を見上げた。
「レティシア・オリーリー・ネイリングだ」
異言語の呪文を聞いた、と言うような不可解な顔だった。五文字以上の単語はまだ難しい。レティシアは頷く。
「レティでいいよ。ローサ」
ローサは自分を指差す。
「ローサはね、ローサっていうの」
「うん、知ってる。ランタンに教えてもらった」
「れちは、ほんとうにれちー?」
「本当だよ」
「でも、おねーちゃんはれちはあかいって。あっちがれち?」
ローサはカーリーを指差す。見事な巻き毛の赤い髪は、なるほど事前に伝えたレティシアの特徴と同一である。
「そうかも。いやあ、これは難しいな。どっちがレティかな」
ランタンがそう嘯くので、ローサは疑いの眼差しをレティシアに向ける。
レティシアは途端に困ったような、そして緊張した面もちになった。
ランタンは何気ない視線を向ける。
「レティ、なんか理由があるなら別にいいよ。帽子、取らなくても。女の人って、髪型が決まらないだけで見せたくないものなんでしょ? まあ、どんな髪でも似合いそうだけど」
「いや、……ああ、うん」
レティシアは帽子に手を掛ける。
「変じゃないか、見てくれるか?」
「うん」
帽子を取ると、綺麗な紅い髪が滝のように流れた。空の生活で脂じみていて、帽子の中に詰め込んだので潰れて、それでいてうねっていたが、それでも綺麗なものは綺麗だった。
「あ」
ランタンとリリオンが同時に呟いた。
生え際の左右に小振りな盛り上がりが二つ。
黒い光沢を持つ、銀細工のようにも見えた。
だがそれは装飾品でもなければ、瘤でもなく、皮膚を突き破って生えている。
レティシアの額に角が生えていた。
「角だ」
「角が生えてる」
「つの」
レティシアは下唇を噛んで、意志の強い瞳には怯えの影が見えた。
変わった自分の姿を見られるのを、レティシアは怖がっていたのだった。
ランタンやリリオンのことを信じている。だが信じているからこそ、それがもし裏切られてしまったらと言う恐怖は計り知れない。
だから手紙にも書けなかった。もしもの反応を想像することは、恐ろしいことだった。
「ちょっとレティ、しゃがんでしゃがんで」
「え?」
ランタンはレティシアの腕を掴んで腰を屈めさせる。
それはレティシアの想像の埒外のことだった。
「角生えてる。へー、すごい。これどうなってんの? 骨から?」
ランタンとリリオンが左右の角をそれぞれ無遠慮に触りまくった。恐れは少しもなく、優しさと好奇心だけがあった。
「つるつるしてる。触ったら痛い?」
角はひんやりして、硬質の感触だった。ごく僅かに螺旋を描くような気配はあるが、つるりと滑らかで、髪の毛よりも細い縦の繊維が無数に走っている。
「いや、痛くは――」
「ローサも、ローサもさわらせて!」
「先っぽは尖ってるからさわっちゃダメよ」
「わー、つの。いいな、ローサもつのほしい」
「あ、わかる。角は格好いいよな」
角の生え際は、僅かに皮膚が盛り上がっている。
「や、あっ、ランタン、そこは……んっ」
ランタンがそこを指でなぞると、レティシアは身もだえした。
「くすぐったかった?」
「……少し、……あのもういいか?」
レティシアは上目遣いに懇願する。
だがランタンは、もうちょっと待って、とそれを拒否した。リリオンとローサは代わる代わるに角を撫でまくっている。そう、癖になる触り心地なのだ。
「なんか触ったことある感触なんだよな。これ、なんだろう」
「お茶碗じゃない?」
「陶器か、硝子質、いや、いや、でも、もっと格調高い。……うーん、あ、あれだ。貝殻の裏側。螺鈿の触り心地だ。うわ、高級品だ、さすがレティ」
「……それは、褒められているのか?」
「褒めてるよ。もういいや、でも、また触らせてね」
そう言ってランタンは手を引っ込めた。引っ込める途中でいつまでも残っているリリオンとローサの手を一叩きする。
「もうお終い。ね」
レティシアは、それを望んだはずなのに、少しだけ物欲しそうな視線をランタンに向けた。
「あ、そうだ。似合ってるよ、角。変じゃないよ」
取って付けたようなその言葉は、しかしレティシアを大いに安心させた。
「ランタン」
「だめ。だって髪の毛べたべたしてるもん」
レティシアはがっくりと肩を落とす。
ランタンにとっては角よりもそちらが気になるようだった。レティシアの髪を触った手を、本人に気付かれないようにズボンで拭ってさえいる。
「お風呂も沸かしてもらってるから、帰ったら綺麗にしようね」
「……うん」
「そう言えば、生えたのは角だけ? それ竜種の角だよね。じゃあさ翼とか、尻尾とかも生えたの?」
レティシアは仕返しとばかりにそっと呟く。
「それは風呂の時に確認させてあげよう」
反省と自慢
今日1日で0文字から書いた。




